プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小林恒夫

2016-08-31 22:58:08 | 日記
1953年

忘れられたエースーこの言葉がピッタリするのが松竹小林恒夫投手だ。松竹と大洋の合併のとき優勝を狙う小西監督の目算として小林投手の20勝が予定されていた。しかし今シーズンの成績は広島にあげた1勝だけなぜ調子が悪いのか合宿所(大阪御堂筋の花屋旅館)横の道路で、外出も取止めてピッチングする同選手にきいてみた。

「問」不調の原因は?
小林 合併のゴタゴタでトレーニング不足のままシーズンに入ったことが不調の最大原因だ。調子が出ぬまま投げる、KOされる、また投げる、またKOされる、そのうち自信を失ってしまう、こうなるといくら頑張っても駄目だ。結局は自身の回復を待つより仕方がない。

「問」トレーニング不足とは?
小林 フォームの乱れだ。投手はフォームが生命でこれが崩れるとノビを欠くうえにコントロールにも支障を来す。少々自信があればドまん中へ投げても打たれないものだが、自信がなくなればどこへ投げても打たれるような気がする。リキめばリキむほど肩に力が入りすぎて棒球になってしまう。不調不調というのはえてしてこういうところから来るのだと思う。まず先決問題は自信を回復することだ。

「問」それでは自信をどうしたら回復できるのか?
小林 まあ勝っても負けても完投して四点以内に食い止められれば一応自信がつくと思う。トレーニング・キャンプのとき研究していた「新しい球」も五回ぐらいでKOされるようでは試す余裕もない。しかし調子が悪いといっても決して悲観してはいない。勝負の世界には弱気は禁もつ。まだ公式戦もこれからが勝負どころだ。
「問」現在のチームの調子は?
小林 私の口からいうのもなんですが、投手力、打力ともいま一歩の突っ込みが足りない。むろん私の不調がその何分の一かの責任となっていますが・・・だが現在の調子が実力ではないことは確かです。平均年齢が高いので、調子を出すのが遅かったことも前半戦不振の理由の一つにあげられるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野崎泰一

2016-08-29 23:48:02 | 日記
1952年

広島の先発野崎はナックルとカーブを多投して好調の滑り出しをみせたが二回二死後から加藤進に三塁を強襲され、山崎の三ゴロもイレギュラー安打となる不運に見舞われて、次打者国枝の左翼線二塁打で二点を先取されてしまった。広島は三回なかばから好調の太田垣を送って反撃の機をうかがい四回岩本、大沢四球に浴し意表を衝く重盗に成功、無死二、三塁と絶好のチャンスを迎えたが後続打者が凡退し逆に名古屋は五回原田、児玉の安打で軽く一点を加え試合を楽にした。その後広島も太田垣の安打と四球で迎えたチャンスを武智の二飛でダブられたが、九回大沢の四球を足場に門前の右前安打で無死一、三塁で攻めたてれば大事をとった名古屋の杉下、野口のバッテリーを繰り出しピンチを脱せんとした、しかし長持の代打藤原はよく遊越しに快打し一点を還し、なおも塚本の犠打で一死二、三塁に持ち込んだが、広岡の代打野田と、太田垣が凡退し無念の涙をのんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林義一

2016-08-29 20:40:28 | 日記
1952年

宇野光雄、杉浦清、児玉利一、加藤春雄、南村不可止、柚木進、大島信雄・・・それに林義一といった選手はまわり道をしないで卒業時にプロ入りさせたかった・・・という話がよく出るほど磨き込んだ技術を身につけている。林は徳島商業の一年生でマウンドに立っているから、明大、全徳島、大映などを通算すると廿年近い投手経歴である、しかも徳商といい、明大といい、全徳島といいいずれも全盛時代、その中心選手であり主要投手であったのだからまさに輝く球歴といわねばならない。昭和廿四年の秋に大映に入り十一月七日初陣として南海に対戦、5-4で勝っている、廿五年は18勝11敗、防御率2・40で第二位、廿六年は12勝11敗、防御率2・54で第六位、二年にして早くも大映の主戦投手、さらにパ・リーグ代表投手の一人になりおわせたのも深い経験と技術の光りではある、が、その最大の原因は熱心な研究と正しい生活であると思う。学校、ノンプロ野球時代は上手投を多投していたのにプロ入りしてから、横手と下手から投げる投法に変えたのは、棒球では少しくらい球速があっても打たれる、一球一球変化する球で凡打させるのがその狙いであろう、ウォーミング・アップは「球がのびる」までを目標にしているから多い時もあり、少ない時もあるが、ベンチからのリリーフでは十球から十五球くらいで登板している。試合中に数多く投げる得意球はスライダー、これが高く低くコーナーに決まったり流れたりしている、そしてカーブやシュートを挟んでおいて、ここぞという時に外角ぎりぎりいっぱいにとおる速球を投げている。林を技巧派の第一人者に推す人が多いが、その技巧を生かしているのは、いまだに速球を持っているからである、その速球を活用し七、八分の速度に落とした変化球の次に速いカーブ、逃げる速直球といったコンビネーションでウィニング・ショットの効果を大きくしているのは賢明な投法であると思う。フォームが変わったため、どうしてもステップが広くなり左側に開くようになったから、一塁側に飛ぶバントや、左側に来るゴロの処理は見事であるが足もとに来る強いゴロや三塁側のバントなどに対する守備が弱い。スライダー、シュート、カーブ、ファイア・クロッスに入る外角球などすべて横に流れたりそれたりする球が多いので、目下まっすぐに落ちる球を研究しているらしい。それとともに前足がつっぱらないようフォームの改善にも心がけているのが注目される、この二つが徐々に効果を挙げるとさらに多彩なピッチングになるが、現在でも六種の球を横と下からの二つの投法で内、外角の高低へ投げ込んでいるから細かく計算すると四十八種の球を操作しているのである。しかも矢つぎ早に、なんのためらいもなく、バックの守備を信じて、ビシビシと投げ込んでいるのが林投法の身上であり、凡打させるコツになっているようだ。

林投手 中沢さんは「技巧派投手にはめずらしい速球を武器としているところが強味」といわれているが、その速球は下手また横手から高目ベルトのコースに入る球にノビがあって効果をあげているんです。シーズン初めにストライクゾーンが低くなって、この球がボールにされていまい、一時球速が落ちるというジレンマに陥りましたが、オールスター戦後からまたストライクにとってくれるようになってホッとしたところです。落ちる球を研究中とありますがこれはシュートボールをアウトコースへ落とすことです、インシュートはすでに時代遅れですよまかりまちがえばホームランされる危険性がありますからね。そこへ行くとアウトコースへ落ちるシュートはまず打たれる心配はありません、これあコントロールよく自在に投げられるよう研究中です。前足をつっぱるフォームはもう長年やっていることでなかなかなおりません、いまのところは腰だけを捻って投げているのですが、後ろ足に力を加えて蹴るようにして投げれば、もう少し球速が増すのではないでしょうか、チェンジ・オブ・ベースは一応自信があります、まず注文通りに凡打させる自信はありますよ、ほかのピッチャーの採点も見ていますが中沢さんは甘すぎるぼくがB一つとはかえってはずかしいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐川守一

2016-08-29 19:54:05 | 日記
1955年

今年西鉄入りした二十人近いルーキーの中で佐川は西鉄待望のサウスポーだけに、球団の期待もまたひとしおだろう。香川県観音寺一高(旧三豊中)で二年生のときから現中日の大矢根投手とともにマウンドをふんでいる。大矢根がエースで佐川が第二投手。バッティングを生かして一塁を守ることが多かったが、三年生のときの予選ではむしろ佐川の方が好調だった。当時観音寺一高は空谷(中日)がいた愛媛の松山商に対抗する香川県のナンバー・ワンとして優勝候補の呼び声が高かった。その予選では破れたが、佐川は県下のベスト・メンバーに選ばれた。その後母校の先輩掛飛氏(早大OB、現いすゞコーチ)の紹介で東芝を希望したが、都合で入社出来ず、倉敷レーヨン岡山工場に就職した。一昨年暮空谷、大矢根をスカウトに来た富坂中日二軍監督が後になって佐川のことをきき「そんないい投手がいたのか」と残念がったという倉敷レーヨンではすぐエースとなり、入社してから二か月目京都市長杯争奪の全国選抜野球大会での手腕が認められた。この大会で倉敷レーヨンは佐川の健投で準々決勝まで勝ち残っている。一回戦は川崎重工業を三安打に抑え、自らもタイムリー・ヒットを放って3-1。第二戦は(京都クラブ)リリーフの責を果して9-4で快勝している。さらに都市対抗予選では一回戦に中国地区の常勝岡山鉄道局を牛耳って一躍中央球界にその名をとどろかした。岡鉄を破った投手というニュースに国鉄の楠見コーチがスカウトするため急ぎ倉敷に飛んだという話があるくらいである。秋の産別大会には化学繊維部門代表となった全倉敷レーヨン(西条、岡山、倉敷の三工場の合併チーム)に選抜されて出場対日本鋼管戦に先発している。三回までみごとなピッチングを見せながら四回二塁失からくずれ四点を奪われてKOされたがこれは若い彼が動揺したときに二人目に代えなかったベンチの失敗で、三回までのピッチングには彼の非凡さを認めた。フォームは実にきれいだ。身体は柔軟性に富み、ギコチない人の方が多いサウスポーには珍しいくらいだ。左投手独特の内角低目にくい込む速球に威力があり、カーブの切れもよい。カーブのブレーキが鋭いことも彼の特色の一つだこれでアウトシュートをもう一歩研究すればストレートの効果を倍加するし、ピッチングそのものも一段と向上することだろう。キャンプでフォーク・ボールの練習をして爪を痛め石本コーチに「お前のような投手が小細工をするやつがいるが、スピードだけに雄文だ」と叱られたいう。石本コーチが認めているように正攻派としての素質十分、シュートを中心とした球の配合を覚えることと、ウェイトを増やすこと、この二点に注意して練習すれば三原監督が望んでいるような第一線級のサウスポーになれることだろう。

プロ入りの動機 家庭の事情もあったが、野球一本で進みたかったのでプロ入りしたコントロールの修得が第一です。サウスポーにありがちなノーコントロールが私の欠点です。一にも二にもコントロールをつけることにつとめます。フォームは腰の安定。それにステップの位置です。制球力がついてからスピードやチェンジ・オブ・ベースに入ってもおそくないと思います。

目標とする選手 北原さん(西鉄)サウスポーにしてはコントロールがあることと、それに腰のバネがよく安定しているところを目標にして勉強したい。それに負けられないのは高校(観音寺一高)の球友大矢根投手(中日)です。

趣味 読書(歴史もの)

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺七寸十八貫三百、左投左打、十九歳、背番19

現住所 香川県観音寺市出作町106。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河文雄

2016-08-28 20:20:40 | 日記
1950年

旭川鉄道の干場(阪神)札鉄の田原(国鉄)とならんで、北海道の三羽烏と言われたそうな。なかでも小樽協会の河がいちばん早く名をあげて中央球界に宣伝されたらしい。いちばん早く大モノを噂されたのに、プロ入りがいちばん遅れてしまった。まだ甲子園でキャンプ中のことだが内山、駒田、上沼、西村、石風呂ら一、二軍の若手にまじってピッチングをしている彼が一向目立たない。五尺六寸は可も不可もない上背とはいえ、野球選手仲間では小柄な部類に属する。松木監督に新人投手を寸評してもらったときにも「河はまあまあ及第点といったところ。キャリアがモノをいっている感じだ」とむしろ一軍から昇格させた西村や、軟式出身の上沼に期待している口ぶりだった。剛速球で北海道に君臨したという球威は、その後肩を痛めて影をヒソめている。シュート、カーブを高岡中、小樽協会で主戦投手をつとめあげてきた年の功にものをいわせてマスターしているのと、松木監督が評したように野球の味を知っているのが強味だろう。ただノンプロの味と違ったプロの味をこれからかみしめねばなるまい。梶岡、藤村弟をのぞいて阪神の投手陣は駒田、内山、干場、西村、田宮とこの一、二年に頭角を現した若手がそろっている。大河に水涸れずとはよくいったもの、別に他チームからの引ぬきをしないでも阪神の伝統が若手をスクスク育んでいる。河もその大河の流れに育まれて大成することだ。たしかにノンプロ的な一家馬をなしてはいるが、まだ廿六歳、このままなま半可にでき上がってしまっては惜しい。危険な年齢である。福井県出身、高岡中卒、小樽協会から昨シーズン末入団、五尺六寸、十六貫、右投右打。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和田武彦

2016-08-28 19:30:52 | 日記
1952年

昭和廿六年、全国高校優勝野球大会に、三岐地方代表として出場した大垣北高は確か初出場であったと記憶している、およそ、初出場のチームはこの大会独特の雰囲気に不慣れのため日頃の実力を出し切らないうちに、敗退してしまうのが、常識のようになっているので、大垣北高も、おそらく一回戦あたりで、敗退するであろうと軽く評価されていた、それが三回戦にまで勝ち進んだのであるから当時のファンは亜然として、この成り行きを見守ったものである。二回戦には塩谷(現早大)を擁する北海高校を一対零で降し三回戦には優勝戦まで勝ち残った熊谷高校と対戦し、二対零で敗退したのであるが、初出場の成績としては、まさに賞賛に値するものがある。大垣北高が、かくも好成績をあげ得た最大の原因をたずねられるなら、私は和田投手の奮闘をあげる以外、他に何物も求め得られないといっても決して過言ではあるまいと思う。和田君は、非常に整ったフォームをした投手で、スピードはあり、特に、内角低目の直球には威力が認められるしドロップにもコントロールがあって、スピードに変化を与えて投げ込むドロップには眩惑的なものがある、そのうえインサイド・ワークも十分心得ているというのだから、優秀投手の列に加わる資格を十分に持っている。大会終了後、アサヒ・スポーツの審判員座談会で、優勝校平安の清水(毎日)二位熊谷高校の服部(大洋)昨廿七年度の優勝校芦屋の植村(毎日)等を退けて、№1に推薦されている事実を見ても、彼がなみなみならぬ投手であることが立証されていると思う。彼の投球フォームが余りにも美麗であること、コントロールがよく、ストライクが多いことから、打者が安心して、立ち向かって来る傾向があるので、意外の不覚を招くといった不利がなかったでもないが、それはよき女房役がおりさえすれば、解決出来る問題で、幸い名古屋軍には野口捕手がいるからこの点安心であり、また本人にとっても幸福である。これほどの優秀かつ有名な投手が昨一ケ年間、全く球界に姿をあらわさなかったことに関しては、彼を知る多くの人の間で大きな話題となっていたのであるが、今度、名古屋軍に入団することになる、彼の進むべき正しき道を、やっと見出したような気がして、彼のために、祝杯を挙げてみたい気持ちにかられる。今後の彼は、このブランク時代に得た尊い体験を十分生かし技量プラス精神力、即ち実力であることを認識し大いに精進努力してもらいたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野村武史

2016-08-28 15:52:54 | 日記
1950年

実業界のベテラン投手で、一応一貫を成している、ただし武末投手のように下手投げで完成された投手ということが出来ない。ということは、武末と野村とを対比してみれば、すぐわかることであるが、第一野村投手には武末のような腰の使い方が巧みでなく、それだけ球質も軽い。下手投げは上手投げを全然逆にしたものである。従ってそのピッチングも上手投げ投手が試みると同様の投法を正しく行えばいいに決まっている。武末のピッチングを見ている人なら、この原理によく沿っていることがわかる。野村のピッチングではどこか腰にファーッと浮いたような感じを受けるであろう。そのためにどうしてもコントロールに狂いが出来てくるのである。またカーブの切れが悪くなる。落ち気味のインシュートが決まらず、外側に威力なく流れてしまう。野村の球はどちらかといえば素直な方である。従ってコントロールの余程いい時でないと成功しない。また球を離すポイントも少し早いきらいがある。武末の場合は腰に集中された力が(ウエイトが)球についていっているが野村投手の場合はその力が半分抜けている。勢い球勢がないということになる。アメリカでは下手投げの投手で成功したのは後にも先にも一人である。日本の場合もやや同じような状態にある。強いて挙げれば武末のほかに林投手(大映)がいる。この投手も球質においては野村以上に軽いが、絶妙のコントロールは野村の比ではない。いわば野村投手は武末と林との中間的な球質を持った投手であり、ユニークな存在ということが出来る。この意味でこの投手が今後どのような球質を歩むか、緩めて興味が深い。要するに野村投手の考える点は、今少し球を遅く離すこと、出来れば球についてゆくようなピッチングをすることである。経験は浅いが、それにさらに磨きをかけるのは、研究である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真田重男

2016-08-28 15:35:33 | 日記

1952年

去年の不調がたたって今年阪神入りした時も「真田のカムバックは可能か? 」という反語的な批判が多かった、シーズンに入ってもなかなか勝星を挙げないため「今年いっぱいは駄目か?」といった見方が多かった。しかし真田の意思の強さ、粘りある気力を知っている私としては「きっと起き上がる・・・」と淡い気持ちで待っていたが、どうやら待ち甲斐があったようだ。昭和十五年、六年、海草中学時代の真田投手は全くすばらしい大器ぶりを示し、引く手あまたの中にすくすくと伸びていった。当時の海草野球部長兼監督の長谷川君(現パ・リーグ審判員)に頼まれ野球の話をしにいった時「真田が卒業後の方針を誰にもいわないので各方面への応対に困っている、ひとつあなたから真意を聞いてもらいたい」とせがまれ「どこへ行けなぞとはいわない、真意だけは部長も知っておかないと困るだろうから・・・」と質したら「私はプロ野球に入って日本一の投手になりたいのです」ときっぱりいい放った「えらい、その意気込みを忘れるな」と誉めたが、今ならともかく、あの当時の空気、情勢のもとで、これだけのことをいいきる少年選手はざらにあるものではない。十八年朝日(ロビンスの前名)に入って十三勝十三敗でいきなり第七位の成績、十九年から兵役で潜水艦乗り、これがたたって廿一年太平パシフィック(朝日改名)に復帰したが芽が出ず、太平が廿二年から太陽ロビンスになり、その翌年から復調、廿四年が十三勝十三敗で八位、廿五年松竹ロビンス優勝のシーズンは最多勝の卅九勝十二敗で七位、この無理がひびいて肩を痛め廿六年は七勝六敗に終わった。ちょうど今年が投手になってから十一年目のシーズン、フォームは十一年間少しも変わっていない、上手と横手の両投法でホップする速直球と速度の落ちない鋭いカーブで攻めておいて、外角低目に速球を極めるコンビネーションは岩をかんで落下する急流のように、すさまじいスピードと変化を持っていた。肩を痛めた廿六年からそのスピードが消え、威力が減ってしまった、大体真田の故障は潜水艦に乗っているころに痛めた胃腸が夏になると生涯を起こしてやせるのが第一、そこへ廿五年の肩の酷使で肩を痛めたのが重なったため回復がおそく、意思が弱いとくざるところであるが若き日の気力と意地の強さを持ち続け遂に両方の支障を治したらしい。ウォームアップは長いが中三日ぐらいで登板するのがいい試合中多投するのはカーブのかかった球、これにスピードが乗れば好調、最近の武器はスクリュー・ボールを使っているが手首の返しがまだ十分とはいえない、ブルペンの練習でこの手首の返しを繰り返し練習しているから明年度は相当の威力を発揮するに違いない。弱点は肩をいたわる関係から以前のスピードが出せないこと、長所は投手守備と度胸、球種は直速球、カーブ、シュート(横からのがいい)スクリュー・ボール

真田投手 松竹が優勝した時の無理がたたったといわれているが、あの時にはリーグ戦中は全然といっていいくらい無理は感じなかった、ただ選手権に備えて毎日がシュートに弱いというので寒いさい中にシュートを猛烈に投げた、それがまあ、直接の故障の原因といえるでしょうね。しばらく思うように投げられないので随分苦しみました、しかし阪神に移って気分を転換し、楽な気持で練習しているうちに自然と痛みがとれました。長い野球生活では当然多少の波がありますよ、なにも「真田のカムバック」などと騒がれるほどの問題ではないのです、スピードは確かに落ちました、その不足を補うのはチェンジ・オブ・ベースだけです、ドロップをウイニング・ショットにまだまだ打たせない自信はあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真下定夫

2016-08-28 13:13:03 | 日記
1955年

上野から乗って高崎駅の一つ手前、高崎線と八高線の合するところに倉賀野という駅がある。真下はそこの中学から高崎商に進み、二十七年四月一時大生相互に籍をおいたのち高崎鉄道管理局に就職した。高鉄に入ってすぐ全国鉄道野球大会の関東地区予選に鉄道球界の名門東鉄を破る金星をあげている。全国大会に初出場、二回戦に完投して米子鉄道局を7-5で破っている。翌年も東鉄の補強選手としてであるが出場、大会後産別野球に出場するオール国鉄の一員に登録された。しかし全国的に真下の名が知られるようになったのは昨年の都市対抗予選である。日立、大生強しという下馬評を完全にくつがえし、大生相互、明利酒類、富士重工、高崎理研をけちらしてみごと高鉄を初出場させ関係者をびっくりさせた。とくに地区大会では、明利、日立を連続シャットアウトするとおもに明利から三振13を奪い、一、二次予選を通じて四球は一試合2個という好成績をあげている。都市対抗では覇者八幡製鉄と完全に四つに組み延長十三回5-3と敗れはしたがりっぱに投げた。このとき本紙の観戦記で私はこう彼を評している。「真下のピッチングはひときわ光る。速球とアウドロのきれがよく、前半多く投げていたシュートにも見るべきものがあった。フォームも一応まとまっており将来が楽しみな選手である」「真下はコントロールがよく、ボールで崩れるような投手ではない」(国鉄藤田監督談)しかしそうかといって技巧派でもなくスピードもあり、ドロップ、シンカー、シュートと多くの球をマスターしていて若手としてはめずらしく安定性のある投手だいいスピードをしているが、それよりも球に重味があるのが特長、そして重いシュートが彼の武器である。シュートは大きく落ちるシンカーと、小さく沈む球、それと胸もとに浮きあがる球がある。とくにシンカーは普通の投手と違って落ちる角度が大きいのでウィニング・ショットとして成功している。フォームは一見捕手のようなモーションをしている。右手が振りかぶったときちぢみ、球をはなすとき押し出すような感じだ。このため球速にいま一息ののびが出ていないが、反面このフォームのために球に変化が生じ、シュートしたり、落ちたり、あるいは外角低目をねらうストレートがナチュラル・スライダーしたりしている。真下のピッチングの生命というか秘密がここにあるわけだ。それに真下のいい点はこの変化球を意識して投げ分けていること、またウィニング・ショットを生かすことを知っていることである。一段に若手投手はやたらに緩め球を使いたがるものでそのため自ら自分の力を殺すようなことをするものだところが真下はシンカーを投げる時期を知っている。このことがピッチングのうまさを如実に物語っているわけだ。藤田監督が「新人の投手では一番期待している」と私に語ったが、私ももちろんすぐ第一線投手として活躍すると思っている。

プロ入りの動機 高崎商のころからプロ入りが夢でした。昨年都市対抗に出場して自信をいよいよ深めたときに勤務先(高鉄)を通じて国鉄から話があり、鉄道でも喜んで送ってくれたのでプロ入りしました。

まず勉強したいこと 西垣さん(コーチ)にスナップの使い方と腰の入れ方がまだ不十分だと注意された。この二点を直すことが第一です。私はほとんど自然にシュートするのでこれで特色にもなっていますが、反面外角低目にいくストレートにのびがなく苦しんでいます。これも直したい。

目標とする選手 巨人の別所さん、オーバー・ハンドの豪快な本格的なピッチングをマスターしたい。

趣味 映画、歌謡曲

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺五寸五分、十七貫、右投右打、二十一歳、背番号33。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青木稔

2016-08-28 11:37:03 | 日記
1955年

青木君は小学校六年のときにはソフトボールの外野手、旭丘中学(京都)に入学してから投手に転向、ただちにエースとなり、在学三年間、京都新制中学野球大会上京区ゾーンには全勝の好成績をあげた。三年生のときには京都大会の決勝戦にこんど相携えて巨人入りした国松のいた平安中学と対戦、惜しくも長打を逸している。同志社高校でもすぐエースとなり、二年生のときには甲子園大会京都予選の準決勝にまで進出している。(高校時代一試合平均被安打五本、三振九)同志社大学では入学の秋からエースとなり、二十九年春腰を痛めて不振を極めた以外は全く好調、文字通り同志社大学の原動力となっていた。当時の成績は二十八年春には一勝一敗、秋は六勝二敗、二十九年春は三勝一敗、秋は三勝二敗。特筆大書するほどきわだっているというものではないが、背後守備の拙劣、味方の攻撃力不振などに災いされせっかくの奮闘も実を結び得なかったきらいなさにしもあらずである。過去の成績を見てもわかるように彼は確かに並々ならぬ投手には違いない。また、たとえカーブにスピードがなくとも、重味ある直速球をもって外角低目をつき、内角をシュートで攻める手法で十分補いをつけ、しかも効果を挙げている。しかし大学野球ならばいざ知らず、プロ野球でははたして、いままでどおりの地位を確保出来るか、どうか?同大おぞ口監督は「技巧派の多い関西六大学にあって彼は正攻法の代表的なものであり、実に得難い存在であった。球質が重く、その重い球で打者を料理する型のピッチングであるが、もし彼がカーブをマスターすることが出来シュートのコースを変化させることを研究体得したならばプロ球界にでも一人前の投手になり得ると思う」と語っている。幸いもともと強肩ではあるし、腰も強じん、耐久力もあるという好条件に恵まれていることではあるし、それに巨人軍という大世帯に籍を置いたことで、周囲に経験豊富な選手が多く、良き指導者、協力者を得ることが容易なので、本人の努力次第で必ず、第一線級の投手となるものと私は確信している。谷口コーチが「身体はまだかたいようであるが、筋肉のボリュームが豊富であるから楽しめる」と論じたことからも将来性に富んだ期待多き投手であるといえる。

プロ入りの動機 私は高校を出るころからいつかはプロで働きたいという希望にもえていた。同じプロでやるならば早い方がそれだけ勉強できると思いはじめていたときにプロから話があったのです。いま入団しても、また卒業してから入っても、一から出直すのは同じこと。それだけにあと二年残っている大学ですが、その二年間が大きいと思ったので中退の決心は割と自然に容易につきました。

まず勉強したいこと フォームの完成です。私は上半身がかたくそれに腰の開きが早すぎる欠点がある。これを直すことが第一です。つぎには直球にいま一段の球速と重味を加えること、カーブの球速を落とさぬようにすることです。

目標とする選手 巨人別所中日杉下両投手。別所投手は私は同じようにオーバー・スローなのでピッチングのすべてを、杉下投手はそのチェンジ・オブ・ペースを・・・。

趣味 ジャズ、洋画。

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺八寸、十八貫五百、右投右打、二十歳、背番25。

現住所 京都市上京区紫竹(シチク)西高繩町42。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野裕良

2016-08-28 10:38:31 | 日記
1952年

今を時めくニューヨーク・ジャイアンツのエース、サル・メグリー投手は1938年廿一歳で3A級のインターナショナル・リーグのバッファローに加入したが芽が出なかった。八年間がまんしたすえメキシカン・リーグに走ったりなどしたが、ついに1950年大器晩成型の筆頭といわれる腕前を現しジャイアンツで18勝4敗、十三年目に花を咲かせたのである。高野もそれほどではないが、一、二年で芽を出す選手にくらべると相当な晩成型である名門下関商業の四年の時、投手になり(巨人の藤本の後輩藤本から四代目の下商投手)十七年明大入学、一年で兵役廿年の秋巨人に加入、諏訪裕良の前名でプロ野球の名投手を志したが、巨人から金星、金星から大映と転々する間、少しも芽が出ず、注目されざる投手の一人であった、廿五年の両リーグ対立は、高野に活躍の天地を与えることになり「大洋ホエールズ」に加入することになった。下商から数えて八年間の投手経歴、ここで高野は従来の上手投投法から一足飛びに「下手投」に変える冒険をやってのけた、長身で腰が強く、痛さを知らぬ肩の強さが役に立ち、強い打力を背後に廿一勝を勝ちとり防御率からいっても十一位、大洋になくてならぬ投手となってしまったが、廿六年は球にのびがなく成績も十一勝十五敗、廿四位に落ちたので、また投法の研究にかかり、今春から夏にかけ、下手投が減って横手投と斜め上からの投法に変って来たようである。身体がいいので三日目に登板できるが、登板数が多く特に球数に向けられるので登板したあとは休養第一、調整一途に心がけているのはいいことである。多投する球は横あるいは斜から投げる速球、この球が外角へは流れ、内角へ落ちている、ところが下手投、横手投投手の共通する悩みはウィニング・ショットの少ないことであり、高野もその悩みを持つ一人である、その弱点をカヴァーするため細菌研究した新しい球質を試みている、それは斜めから投げて「真中低目に落ちる球」と「上手投げのスクリューボール」の二つである。廿五年より廿六年の成績が落ちたのは、球ののび=球威が減ったことそれは球速の落ちたことでもあり、ホップする球が少くなったことでもある。今年は去年よりスピードがいいから、新研究の二つの球を自由に操作したら、直球やカーブを有効にする役に立つ、去年の単調さを破って多彩なピッチングになると思う。勝っても負けても淡々たる態度、ピンチが来ても平然たる面持ち「いい心境だ」と質したら「いやそれが欠点なんです、かっとなれないのです、闘志が低いと自分で自分にいいきかせているんです」と答えてくれた、たしかに長所であり欠点であるかもしれない現在は直速球、カーブ、シュート、スライダー(数は少ない)とまん中に低く落ちる(シンカーの一種)とスクリュー・ボールなどを投げている、最近シュートのきれ味が鋭くないようだ黙々として研究、前進しているのか高野の特色である。

高野投手 下手投から横手、または上手とピッチング・フォームが変わっていたのはストライクゾーンの変化に適応させているのです、去年あたりから高目をとらなくなったでしょう、下手からの浮く球がみんなボールにとられてしまうのでフォームを変えたのですが、まだ下手のときほどうまくきまっていません。二つの新しい球ーこれも研究中です。下位チームには間々成功しているようですが、上位にはさっぱり、それにどんなボールを工夫しても結局スピードがなくてはダメです。細い技巧に拘りすぎるとピッチャーの生命であるスピードを忘れてしまう危険がありますねウイニング・ショットのない悩みはぼくばかりではないでしょう、ぼくと同型のピッチングをする野村君(毎日)などもネをあげていますよ、しかしいまのプロの投手で果たして何人がウイニング・ショットらしいそれを持っているのでしようかね。採点表はこそばゆい感じ、全部B、これでぼく自身の採点です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大脇照夫

2016-08-28 00:34:08 | 日記
1952年

セ・パ両リーグを通じて投手経歴の一番短いのが国鉄の大脇照夫であろう、野球では無名の滝実業を出てドラゴンズ入りを実現したが、テストで落とされて名鉄局入り、そしてスワローズに引き上げられ、今年が二年目という全くの新投手、シーズン前の噂では今年の国鉄は金田、宮地、高橋、古谷、田原、箱田、井上(佳)と投手が揃ったから相当戦えるということであったが、八月廿一日現在では、宮地、高橋、田原、古谷、箱田、井上(佳)の六投手でかせいだのが七勝、大脇一人で六勝という結果が出ている。これに金田の十九勝が加わって五位にいるのだから大脇の六勝=名古屋と松竹に各二勝阪神と大洋に各一勝=は金星である。この無名の新人が阪神、名古屋、大洋、松竹などをずらりとシャット・アウトで破っているのは・・・いつでも打てる球に見えるし事実よく当たっていると感じられるのにその実長打が出ない、また連続安打が出ない、いま打てる今度こそ打てると思っているうちに試合がすんでしまうのが原因である。長身、スマートな姿、きれいなフォームで淡々と投げる大脇のピッチングには「威圧感」がない、ところがまり目立たないが球が速い、のびがいい、しかもその速球が低目低目と、内外角にきまるから、打てそうで打てない、これが大脇の身上であるが、投手経験の若さから、球を揃えすぎたり、腰の高さに球が寄ると、きれいな球だけに相手が打ち気に出ると打ち込まれる危なさがある、そうした経験から最近上手投げを多投する間、ときどき横手投げを用いるようになったが、同じ速球でもカーブでも上と横ではコースに変化があるので奏功しているようである。完投した翌日は軽いバッティング、あるいは外野の練習を手伝う程度で休養二日目と三日目をピッチング、四日目登板が最好調という調整をしているが、事実は三日目にいい勝負をしているのも十九歳という若い力のためであろう、また若い投手はリリーフに立つ場合かなり長いウォーム・アップを必要とするが、大脇は強いウォーム・アップで登板している、これは筋肉が柔軟のせいであるが、今後も励行していい習慣である。試合中最も多投している球はのびのいい速直球、これを十球のうち六、七球は外角へきめている、この球に威力があるので、どの打者もこの球をマークしている、そこで繰り出す武器はシュートでこのシュートに威力のある日はたやすく打てない、かように球威とコースで戦っているようなものだからチェンジ・オブ・ベースの修練までいかない、それに経験が浅いから投手付近に飛んで来る球の処理がよくない。現在はコントロールをよくすること、さらにもうひと風スピードを増すことに専心している、操作している球種は速直球とスライダー、カーブ、シュートの四種、肥える体質のようだから、あとは一貫ほど体重がふえたら一段と球速が乗るだろう、既成型ではないが将来の楽しめる投手の一人であると思う。

大脇照夫 ぼくのピッチングはぼくが一番よく知っているつもりなのですが、中沢さんの文章を読んであらためて教えられるところが多いのに驚きました、人の長所や欠点はよく目につくのに案外自分のことはわかっていないものですね、中沢さんのいうように三日目の調子が一番よく球速もかなり出るし、アウトローへびしびし投げ込めます、いつもこのくらい投げられればシメたものですが・・・「最近横手から投げるように・・・」といわれていますがこの投げ方はずっと以前から練習していたもので最近投げはじめています、これはチェンジ・オブ・ベースCというぼくの最大の欠点を少しでも直したい心からです、まずシュートをよくきかせ、カーブにも威力が加わったら、いま覚えかけている沈むシュートをマスターしたい、これができたら来年はBくらいにして貰えるでしょう、プレート度胸はAですがまだ一点を争う試合には固くなりますよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東口義松

2016-08-27 22:36:08 | 日記
1955年

プロ野球のかつての内藤投手やら今の中日杉山外野手、巨人の大友投手、東映の浜田二塁手、阪神の渡辺外野手らはいずれも軟式野球の生んだ大選手といえよう。ノンプロ大昭和の東口投手もまたご多聞にもれずこの類である。東口投手は三重県津市に四人兄弟の次男坊として生まれ、近鉄に捕手として籍を置いているのは彼の長兄である。東口投手は津市公民学校を終えると同市の軟式野球の投手として活躍中、その技術をかわれて三重交通い入社したのが硬式野球への転向の第一歩である。そして二十五年都市対抗の三重県予選には三重交通の主戦投手として出場、ついに決勝にまで進み、この年東海代表となった富田東洋紡を七回までノーヒットにおさえたが味方のエラーから結局2-1で敗戦投手となってしまった彼が投手として頭を上げ出したのはこのころからで、この予選終了後、話が始まって十二月には日本軽金属清水工場に転籍となり、日軽での舞台が始まったわけである。その東口が一躍名声を上げたのは二十六年に当時浅井、大道、石井、荒川、徳丸の猛打線を誇る大昭和を山静大会決勝戦で三安打無得点で破り本大会出場権を獲得した時である。恐らく彼にとってもこの試合だけは生涯忘れられない試合となることであろう。その後大映入りが確実視されていたのに、二十八年から大昭和のメンバーとなった大昭和に入ってからは肩をいため久しく治療につとめまた黒柳投手の出現で彼の影にかくれ、さして奮闘の後は残していない矢張り東口投手の全盛は日軽当時にあるようだ。当時の彼は上手投げの速球投手であったといっても手も足も出ないほどの速い球でもなかったが、大昭和を大いにいためつけたころは高目のホップする球とインドロをうまく使い分けてみごとなピッチングを示していた。現在の彼は多少スピードがなくなっていてその反面球質に変化が出て多種類の球を覚えている。まずコントロールも上の部といってよい。彼のいいところはナックルとシュートをミックスして比較的好効果を得ていることである。カーブはそれほどいいとは思われない。もう一つ左腕投手の最も得意とすべき右打者に対する内角球についてはもう一歩威力のあるものを研究してほしい。身長は五尺七寸というからよいがこれに対する体重の十六貫そこそこでは少々たりないので、そのためかどうも足、腰が弱い。これは体力のないせいでどうしても後半くずれることが多い。従って彼には体重の増すことが望まれさすれば耐久力も出来るだろう。かつてマニラスターズ来征時の全日本軍メンバーであったり、また大昭和のハワイ遠征に同行した当時の夢を捨て心機一転大いにがん張ることだ。

プロ入りの動機 ノンプロ生活を七年もやってきましたが、プロ入りは学校を出たときからの念願だった。チャンスは度々あったが、なんとなく気が進まず見のがしてきた。ところが今度は憧れのジャイアンツであり、投手生活にも自信がわいてきたので思いきって入団した。

まず勉強したいこと ぼくの武器は左投手特有のくいこみようなシュートと外角一杯の直球だが、球速とコントロールには自信をもっている。ドロップも大きく曲がるが、ブレーキがなくいままでは緩い球に使っていた。プロに入ったらこのドロップを小さくてもいいからシャープなものにしたい。このインドロップが完成されれば極め球に使えると思う。これはナチュラルではなく沈む球が欲しい。

目標とする選手 うちの中尾さんのシュート、中日大島投手のプレートさばき、毎日荒巻投手のドロップ。

趣味 映画、読書

身長・体重・投打・年齢・背番号 五尺七寸五分、十六貫三百、左投左打、二十八歳、57。

現住所 津市出口町753
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小坂敏彦

2016-08-27 15:33:21 | 日記
1973年

「どうですか」と田宮監督は得意そうにいった。この日の投手リレーこそ、高橋善と小坂、渡辺のトレードを決めたときから何度も頭の中に描いていた楽しい場面だった。谷木、谷沢、大隅と一、三、五番を左で固めた中日打線に、まず下手投げの高橋直をぶっつける。本番のゲームを頭に浮かべながらの、絶好のテストだ。先発投手は、スタートからフルにとばして前半だけを引き受けてくれればいい。「アンダースローなら左攻勢でつぶそう」と、相手チームはベンチに控えている左の予備軍を続々とつぎ込んでくるだろう。そこで、待ってましたとばかりに小坂へのスイッチだ。「実にいいタイミングですね」と宮沢スコアラーが見て、この日は五回から左の切り札の登板だった。代打の坪井をすばやく追い込んで軽くひねったあとは、トップに戻って谷木だ。左との勝負なら腕のみせどころだ。まず外角にカーブを決めておいて、谷木が打ちに出てくるところへ一転して胸元への速いシュート。谷沢へはシュート、直球、カーブと自信満々の攻めをみせて、左封じはお手のものだった。「巨人時代にあまり投げたことのないフォークボールまで使っている。自信をもってのびのびほおってますね」と谷沢が見て、日拓ベンチでは「うまいもんだな」と山根コーチが感心する。「これで今年は面白い投手起用ができる」と田宮監督のローテーションはレパートリーが広くなった。昨年は山崎、中原勇とアテにならない左投手陣。相手が左打線で固めてくるのがみすみすわかっていながら、手を打てなかった。「たとえば高橋直が先発する。もうあぶないとわかっていても、これならという左がベンチにいない。目をつむって続投させたとこで、とり返しのつかないダメージを受けて、いくつ手痛い黒星を食ったかわからない」と田宮監督がふり返る昨年のペナント・レース。だが、小坂が左の切り札として投手陣にどっしり腰をすえれば、悩みは消える。「それほど球威がある投手じゃないから、長いイニングは無理だ。それでも二、三イニング位なら確実に目先をかわせる。左のいなかった日拓投手陣には、貴重な存在になることは確かだ」と、中日の近藤ヘッド・コーチも見た。渡辺、小坂の組み合わせで10勝から15勝と踏めば、それだけでも高橋善の穴埋めはできる。「あの一対二のトレードは成功ですね」と田宮監督は楽しいソロバンをはじいた。三日間の三連戦に、この左の切り札を先発に一試合、押えのリリーフに一試合使うプランを首脳陣は考えている。「小坂をうまく使って投手陣を回転させれば、あとは5点打線が控えていますよ」と田宮監督は笑う。外人を軸にしたパの各チームの左打線と、日拓の左の切り札の対決が本番でクローズアップされてくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿久津義雄

2016-08-27 13:24:07 | 日記
1955年

昨年の高校球界はサウスポーに恵まれた。そのなかでも評判の高かったのは中山(中京商)と阿久津だ。阿久津は一昨年の夏二年生で甲子園の土を踏んでいる。このときは山上投手(現東京ガス)のリリーフで鳥取西高と中京戦に登板している。私はこのときしか阿久津のピッチングを見ていないが、これは有望な投手だと直感した。あがっていたのか鳥取西高戦には暴投を二個も記録したが、すぐ立ち直って五回以降完封して勝っているし、中京戦には七回からだが、無安打に抑えて中京のベンチをびっくりさせた。阿久津の宇都宮工とは宿敵の桐生工、阿部精一(日大OB)が口をきわめてほめているようにフォームは実にきれいだ。やせ型だが、五尺八寸三分、その長身をよく使いきって少しもギコチなさがない。手をとって教えてもらったことはないと聞いて二度びっくりした。先天的な野球のセンスがあるのかもしれない切れのよい速球はおそらく中山に匹敵するスピードをもっている。ドロップのブレーキも鋭い速球でビシビシときめ、最後にドロップをウィニング・ショットに使う本格派、コントロールもよく四球は一試合平均二個程度だという。フォームがよいことはすでに書いたが、身体は柔軟で、バネも強い。しかしそれよりも彼のピッチングの生命となっているのは人一倍強いリストにあるようだ。手首がよいからこそバッティングもすばらしい。一応内、外角を打ちこなして打者としても一流だ。このように素質の点からいけばおそらく今年プロ入りしたルーキーの中では一、二を争うくらいだ。しかし心配な点が二つある。その一つは身長が五尺八寸三分もあるのに体重が十七貫たらずであるということだ。ウェイトのない投手はどうしても球が軽い。それと線が細いので投手の一つの武器である相手打者に対する威圧感がないのは不利だ。そのよい例が昨年の山下投手(近鉄)で宅和級(南海)のスピードを持ちながら球の軽さと威圧感がないため宅和ほどの働きができなかった。宇工の浜野部長もこの点を心配してシーズン中は自分の家に下宿させ、偏食をなくするように努力したという話があるくらいだ。二番目は性格で、いい意味でのずるさがない。これがピッチングの面によく現れて、デッドボールでもさせると球威がぐんと落ち、相手に乗せられたことがしばしばあるそうだ。また一年生の夏、八回まで完全に相手を抑えながら九回現西鉄の豊田選手に得意の内角高目の直球を満塁ホームランされて逆転負けして以来、自信を失い気分的に立ち直るのに半年以上もかかったという。いまの彼に技術的な面より精神面の鍛錬こそ第一。いままであげたような諸点さえ矯正されば素質のある彼のことなので前途は有望。さいわい中山という競争相手もいるし今後の成長が楽しみでならない。

プロ入りの動機 野球が好きで、プロに入って腕を磨きたい希望に燃えていましたが、体力的に自信がなく一時迷いました。しかし身体は大丈夫と太鼓判を押されたので決心したわけです。

まず勉強したいこと プロ野球のふん囲気になれることです。つぎは体力をつけること、そして腰を強くすることです。技術的にはスピードをつけることに専念したいと思いますが、それには私の場合フォームなどよりも体力をつけることだと思います

目標とする選手 杉下さんあらゆる点で杉下さんのような大投手になりたいと思いますが、とくにスピードがうらやましい。

趣味 音楽

身長・体重・投打・年齢・背番 五尺八尺三分、十六貫八百、左投左打、十八歳、背番号未定

現住所 宇都宮市道場宿町1218
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする