1・「波乱のプロデビュー」1976年
・活躍した1軍の選手には楽しいオフも、ファームの若手にはなんとも「複雑な師走」である。すでに巨人ではイースタンの主力、大竹、谷山、魚らが自由契約となりチームを離れた。こんな「首切り旋風」が本格派しそうな厳しいムードをよそに「どうしても登録選手の中へ入りたい」といって、西本、定岡らとともに巨人の第二秋季特別練習で汗を流しているのが
、外園正投手。今年、中央球界には全く無名の福岡・八幡大付属高からドラフト外入団したサウスポーだ。ところが、シーズン途中で外国人投手、C・ライトが入団したため支配下選手の定員60人からはみ出してしまった。そして外園は練習生として球団に残った。実質的には巨人の選手であるには変わりないのだが「でも、やっぱり支配下から外され任意引退選手扱いになった時はショックでした」という外園だ。そんな彼にチャンスが巡ってきたのは秋の教育リーグ戦である。川崎球場での日ハム戦「11月9日」、関根二軍監督に直談判して最終回に登板の機会をもらい、2三振、2四球の無失点。左独特のうまいけん制球で1塁走者を刺すなど「登録外選手」とは思えぬ見事なデビュー。「こういう、ひたむきな選手がいつかは報われるのです」当時のスカウトで、いま連日の猛特訓で外園を鍛える木戸コーチはいう。年々厳しくなっていくファームの世界で、晴れて再登録され、名実ともに巨人の一員になれるかどうか。
2・「待望のファーム初勝利」1977年
・篠塚、赤嶺ら甲子園球児が人気の教育リーグだが、そんな浮かれムードをよそに3月13日の日ハム戦「巨人・多摩川」で2年目の外園がプロ初勝利を挙げた。5回に2点をとられ一度は逆転されたが、後半立ち直って好投。5-2のスコアで見事な完投勝利。「まだ甘い球も多く、スピードも、もう一つだが貴重な左腕だけに大事に育てたい」と首脳陣。昨年は登録外のまま腕を磨いていた、いわば「はみ出し投手」だっただけに、この日のピッチングは賞賛もの。「去年、関根さんから支配下外を宣告された時はショックでしたが、そんなボクが勝利投手になれるなんて・・・一生懸命練習した甲斐がありました」と外園は「晴れの1勝」を心から喜んだ。再登録された今季は背番号もついて「62」。178センチの上背にしては62キロと細い体だが、昨年よりはたくましさが増した感じだ。「この勝利を踏み台にして、心配をかけた、おふくろを安心させてやりたい」という外園のプロ根性と精進ぶりに注目したい。
「しかし、素質開花せず、新天地へ・・・」1979年
・6月26日付けのスポーツ紙の片隅に「セリーグ・支配下登録、大洋・外園正投手」と小さく出た。外園といっても知らない人の方が多いはず。背番号「62」をつけ、昨年までの3年間、巨人で練習を続けていた。八幡大附高から長島監督に口説かれテスト入団した左投手。「素質はあるが、体がきゃしゃでスタミナに難がある。体力強化が先決」といわれ巨人の二軍予備組織に編入されていたが、昨年末、自由契約を通告される。今年の大洋草薙キャンプに参加し、テストを受けていたが左投手不足というチーム事情もあり、晴れて大洋の一員となった。「一度は死んだ身。ジャイアンツに借りを返すのを目標にして、もう一度挑戦します」と外園。ファームでも実績はゼロに等しいが「力不足だが、ワンポイント投手としてのテクニックはなかなか」・・・大洋二軍首脳。の声もあり、異色の存在になるか。二度のテストで生き残った外園に期待したい。
1979年、ファーム成績
4試合。0勝1敗。6イニング、三振3、防御率4,50
・活躍した1軍の選手には楽しいオフも、ファームの若手にはなんとも「複雑な師走」である。すでに巨人ではイースタンの主力、大竹、谷山、魚らが自由契約となりチームを離れた。こんな「首切り旋風」が本格派しそうな厳しいムードをよそに「どうしても登録選手の中へ入りたい」といって、西本、定岡らとともに巨人の第二秋季特別練習で汗を流しているのが
、外園正投手。今年、中央球界には全く無名の福岡・八幡大付属高からドラフト外入団したサウスポーだ。ところが、シーズン途中で外国人投手、C・ライトが入団したため支配下選手の定員60人からはみ出してしまった。そして外園は練習生として球団に残った。実質的には巨人の選手であるには変わりないのだが「でも、やっぱり支配下から外され任意引退選手扱いになった時はショックでした」という外園だ。そんな彼にチャンスが巡ってきたのは秋の教育リーグ戦である。川崎球場での日ハム戦「11月9日」、関根二軍監督に直談判して最終回に登板の機会をもらい、2三振、2四球の無失点。左独特のうまいけん制球で1塁走者を刺すなど「登録外選手」とは思えぬ見事なデビュー。「こういう、ひたむきな選手がいつかは報われるのです」当時のスカウトで、いま連日の猛特訓で外園を鍛える木戸コーチはいう。年々厳しくなっていくファームの世界で、晴れて再登録され、名実ともに巨人の一員になれるかどうか。
2・「待望のファーム初勝利」1977年
・篠塚、赤嶺ら甲子園球児が人気の教育リーグだが、そんな浮かれムードをよそに3月13日の日ハム戦「巨人・多摩川」で2年目の外園がプロ初勝利を挙げた。5回に2点をとられ一度は逆転されたが、後半立ち直って好投。5-2のスコアで見事な完投勝利。「まだ甘い球も多く、スピードも、もう一つだが貴重な左腕だけに大事に育てたい」と首脳陣。昨年は登録外のまま腕を磨いていた、いわば「はみ出し投手」だっただけに、この日のピッチングは賞賛もの。「去年、関根さんから支配下外を宣告された時はショックでしたが、そんなボクが勝利投手になれるなんて・・・一生懸命練習した甲斐がありました」と外園は「晴れの1勝」を心から喜んだ。再登録された今季は背番号もついて「62」。178センチの上背にしては62キロと細い体だが、昨年よりはたくましさが増した感じだ。「この勝利を踏み台にして、心配をかけた、おふくろを安心させてやりたい」という外園のプロ根性と精進ぶりに注目したい。
「しかし、素質開花せず、新天地へ・・・」1979年
・6月26日付けのスポーツ紙の片隅に「セリーグ・支配下登録、大洋・外園正投手」と小さく出た。外園といっても知らない人の方が多いはず。背番号「62」をつけ、昨年までの3年間、巨人で練習を続けていた。八幡大附高から長島監督に口説かれテスト入団した左投手。「素質はあるが、体がきゃしゃでスタミナに難がある。体力強化が先決」といわれ巨人の二軍予備組織に編入されていたが、昨年末、自由契約を通告される。今年の大洋草薙キャンプに参加し、テストを受けていたが左投手不足というチーム事情もあり、晴れて大洋の一員となった。「一度は死んだ身。ジャイアンツに借りを返すのを目標にして、もう一度挑戦します」と外園。ファームでも実績はゼロに等しいが「力不足だが、ワンポイント投手としてのテクニックはなかなか」・・・大洋二軍首脳。の声もあり、異色の存在になるか。二度のテストで生き残った外園に期待したい。
1979年、ファーム成績
4試合。0勝1敗。6イニング、三振3、防御率4,50