1967年
シーズン終了と同時に、球団ではいち早く整理選手のリストを作り上げているが、最終戦がすんだ翌日、その第一号が早くも現れた。この選手の名は野口勝治投手。野口投手といっても、今シーズンは選手名簿をさがしても見当たらない。それも道理で、野口は支配下選手のワク外に置かれ、形式的には任意引退になっていたからである。なぜこんなややこしい方法をとったのかというと、今シーズンはもっぱら最初からバッティングピッチャーが予定されていたため、五十名の制限からはずされていたわけである。野口といえば、ここ二、三年は「打ちやすい最も練習に適したバッティングピッチャー」として定評があった。とくに江藤監督など「ぼくが一昨年に首位打者をとれたのも、野口君がいい調整役になっていてくれたからですよ」といっているほどだ。またことしのオールスターで、巨人の長嶋選手が野口のボールを打ってみたとき「本当に打ちいいね。こんなバッティング投手に会ったのは初めてだ」とほめたこともある。つまりコントロールが絶妙で、打者の要求するコースへ、意のままに投げることができるわけだ。それほどの制球力を持ちながら、とうとう一軍に浮かび上がるチャンスに恵まれなかった野口は「覚悟はしていたけど、やはり整理をいい渡されると、さびしいものです。これからの身の振り方は、まだ全然考えていません」としんみり。この野口投手は三十七年に作新学院ー明電舎を経て、同僚島野外野手と共に入団し、いわばチームでは古参投手の一人だったが、多くの打者たちの間で「惜しい投手を失った」という声も強い。惜しまれて去っていく、このカゲの力だった野口に、ひょっとすると新しい迎えの手が他球団から、差し延べられるからもしれない。
シーズン終了と同時に、球団ではいち早く整理選手のリストを作り上げているが、最終戦がすんだ翌日、その第一号が早くも現れた。この選手の名は野口勝治投手。野口投手といっても、今シーズンは選手名簿をさがしても見当たらない。それも道理で、野口は支配下選手のワク外に置かれ、形式的には任意引退になっていたからである。なぜこんなややこしい方法をとったのかというと、今シーズンはもっぱら最初からバッティングピッチャーが予定されていたため、五十名の制限からはずされていたわけである。野口といえば、ここ二、三年は「打ちやすい最も練習に適したバッティングピッチャー」として定評があった。とくに江藤監督など「ぼくが一昨年に首位打者をとれたのも、野口君がいい調整役になっていてくれたからですよ」といっているほどだ。またことしのオールスターで、巨人の長嶋選手が野口のボールを打ってみたとき「本当に打ちいいね。こんなバッティング投手に会ったのは初めてだ」とほめたこともある。つまりコントロールが絶妙で、打者の要求するコースへ、意のままに投げることができるわけだ。それほどの制球力を持ちながら、とうとう一軍に浮かび上がるチャンスに恵まれなかった野口は「覚悟はしていたけど、やはり整理をいい渡されると、さびしいものです。これからの身の振り方は、まだ全然考えていません」としんみり。この野口投手は三十七年に作新学院ー明電舎を経て、同僚島野外野手と共に入団し、いわばチームでは古参投手の一人だったが、多くの打者たちの間で「惜しい投手を失った」という声も強い。惜しまれて去っていく、このカゲの力だった野口に、ひょっとすると新しい迎えの手が他球団から、差し延べられるからもしれない。
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