投球フォーム・・・右オーバースローから現役後年にはスリークォーター気味に改造か?
球種・ストレート、タテの大きなカーブ、落ちるシュート、スライダー。制球、スタミナ面に課題を残す。
現役最終年俸・1987年「460万」
1982年、83年のオープン戦開幕投手。
ファーム成績
1980年・1勝5敗・・・・・・・・防御率5,94
1981年・0勝1敗・セーブ1・・・防御率5,29
1982年・2勝3敗・・・・・・・・防御率1,95
1983年・6勝8敗・セーブ1・・・防御率4,30
1979年「ドラフト会議直前」
・秋の愛知大学野球リーグ戦が始まった頃、藤原は「プロ入り」なんて考えてもいなかった。それが、秋のリーグ戦で名城大のエースとして先発に、リリーフにと大活躍。初めて優勝の味を知り、明治神宮大会では国士館大、東海大を破り「大学球界最高の逸材」の評価を受けるようになる。そして、「一度、プロで自分の力を試してみたい」と考え方が変ってきた。さる11月19日の家族会議でも「2順目までに指名されればプロ入り。それ以外なら地元に近い電電信越」と結論を固めた。
マウンドの藤原は帽子をあみだにかぶり、打たれだすとピッチングが雑になる傾向が見られた。そのため、集中力が足りないとか、練習嫌いの噂が流れたが、大坪監督にいわせると「責任感が強く、マジメな男」。大学4年間、1日も練習を休まず、リリーフに出た時は「打たれたら、先発した投手に申し訳ない」と、責任感に燃えて真価を発揮する。1年の春からリーグ戦に登板した藤原の大学4年間の通算成績は64試合、372イニングを投げ23勝20敗、3セーブ、奪三振235、四死球147
、防御率2,21。学生服姿の藤原は明るく礼儀正しい好青年で事前調査にあたったスカウト連たちも、意外な面を知って驚いていたようだった。
球種・ストレート、タテの大きなカーブ、落ちるシュート、スライダー。制球、スタミナ面に課題を残す。
現役最終年俸・1987年「460万」
1982年、83年のオープン戦開幕投手。
ファーム成績
1980年・1勝5敗・・・・・・・・防御率5,94
1981年・0勝1敗・セーブ1・・・防御率5,29
1982年・2勝3敗・・・・・・・・防御率1,95
1983年・6勝8敗・セーブ1・・・防御率4,30
1979年「ドラフト会議直前」
・秋の愛知大学野球リーグ戦が始まった頃、藤原は「プロ入り」なんて考えてもいなかった。それが、秋のリーグ戦で名城大のエースとして先発に、リリーフにと大活躍。初めて優勝の味を知り、明治神宮大会では国士館大、東海大を破り「大学球界最高の逸材」の評価を受けるようになる。そして、「一度、プロで自分の力を試してみたい」と考え方が変ってきた。さる11月19日の家族会議でも「2順目までに指名されればプロ入り。それ以外なら地元に近い電電信越」と結論を固めた。
マウンドの藤原は帽子をあみだにかぶり、打たれだすとピッチングが雑になる傾向が見られた。そのため、集中力が足りないとか、練習嫌いの噂が流れたが、大坪監督にいわせると「責任感が強く、マジメな男」。大学4年間、1日も練習を休まず、リリーフに出た時は「打たれたら、先発した投手に申し訳ない」と、責任感に燃えて真価を発揮する。1年の春からリーグ戦に登板した藤原の大学4年間の通算成績は64試合、372イニングを投げ23勝20敗、3セーブ、奪三振235、四死球147
、防御率2,21。学生服姿の藤原は明るく礼儀正しい好青年で事前調査にあたったスカウト連たちも、意外な面を知って驚いていたようだった。