超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

水の透視画法 49 くぐつとグンタイアリー-15年なにが変わったか 辺見庸

2010-03-07 21:53:08 | 新聞から
 前を歩いていた身なりのよい男が、ゆっくりと輪郭をくずし床にへたりこんだ。けっしてバタリと倒れたのではない。そのように想像しがちだが、バターの棒でもとけるように躰がくずれはじめ、一定の時間をかけてクニャクニャとへたって尻もちをついたのである。叫び声はなかった。音声をオフにしてスローモーション・フィルムを見ている気がした。これも新聞やテレビの報道からは想像しがたいけれども、私が目撃した被害者の顔には微苦笑みたいなあいまいな笑みがうかんでいた。だが、ほんとうは笑いなんかであるわけではなく、神経がやられ筋肉がゆるんでしまったため、いってみれば“なごやかな苦悶”の表情なのだった。その男のうしろを歩いていた若い女性も、のどをおさえて無言でヘナヘナとかがみこんだ。ひどい二日酔いだった私は、意味をはかりかねてなんどもまばたきした。光景にたぐられるように古い日本語が胸にうかんだ。この国の闇の濃さにもかかわる気味のわるいひびきである。くぐつ。

 眼前でおきたことを、通常の遠近法で説明するのはむつかしい。月曜朝のラッシュアワーだった。絶対多数の通勤者群はグンタイアリよろしくわき目もふらず改札口をめざして殺到していたのだ。つまり、視認可能な前景はグンタイアリ一色である。しかし、注目すべきはその背後にあった。であれば、後景の立体を前景のそれより大きく細密にえがいたりする東洋画の逆遠近法をもちいるほうが情景は説明しやすい。グンタイアリの奥には、床に足をだらりとなげだし、背中を壁にあずけた男女が横一列に五人ほどへたばっていたのだ。笑顔にも見える表情とうらはらに、よだれを流したり吐いたりしていた。この段階ではまだパトカーのサイレンも泣き声も怒声もない。一方、勢いよく改札口をめざす通勤者群はじつに一途で器用でもあった。投げ出された幾本もの脚をひょいひょいと跳びこえ、けっして立ちどまろうとはしなかったのだから。グンタイアリの行進は、あれだけの事件なのに、とどこおるということがなかった。

 くぐつという言葉がうかんだのは、神経ガスを吸ってへたりこんだ人びとの姿に、あやつり糸の切れた人形を連想したからだが、それだけではない。うち倒れた人を助けるのではなく、躰をまたいでまで一心に職場へと急ぐ通勤者らも、まだ糸の切れていないくぐつのように私には見えたのだ。くぐつは傀儡と書く。「傀」は怪しいもの、「儡」は人形をさす。なんとも恐ろしい字ではないか。もともとは音曲にあわせて舞わすあやつり人形であり、転じて、陰にいるものにおもいどおりに操作され、利用されている人びとや政権をさすようになった。一体一体のくぐつは、くぐつ師にあやつられているかぎりにおいては生き生きと芸をこなし、忠実このうえない。しかしくぐつ師のいないくぐつには、いかなる主体的意思も魂もなく、くその役にもたたない、でくにすぎない。くぐつ師にたくみにあやつられてこそ、くぐつの幸せはある。もうろうとした頭でしきりにそうおもったのは、長くつとめた会社をそろそろ辞めたくなっていたからであった。

 一九九五年三月二十日早朝、地下鉄日比谷線神谷町駅の現場には、まだ正式事件名が冠されてはいなかった。おどろおどろしい命名の瞬間まで、人びとは日常のイナーシア(慣性)にしばられる。ごくごく少数の「個」ある人格をのぞき、思考もふるまいも日々の集団的イナーシアを脱することができないのだ。神経ガス被害者の一人を右肩でささえ地価構内からやっとのことで地上にでた私は、警察の黄色い規制線の外側に、ふたたび群れなすアリを見た。テレビと新聞の記者たちである。開いた口がふさがらなかった。マスコミ・グンタイアリたちはわいわい勢いづき、まだ駅構内に入りもせず現場をろくに見てもいないのに、「パニック」だの「衝撃」だの「恐怖」だのとわけしり顔で報じていたのだから。しかして、私の視圏にあったグンタイアリはただの一匹としてサリン被害者を自社報道車両にのせて病院に運ぼうとはしていなかった。救急車が足りず被害者が多数地べたに横たわっていたのだが。
 せんだって地下鉄が神谷町駅を通りすぎたときに、暗がりで突如のどになにかを詰められたような恐怖におそわれた。事件のフラッシュバックではない。脳裏に明滅する光のなかで、あることにおもいあたったのだ。無差別サリン・テロにくわわった青年たちも、じつは、くぐつでありグンタイアリだった。さて、大本のくぐつ師の正体は明かされたのか。グンタイアリはいまむしろ増えている。(作家)

共同通信社 2010年3月5日
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