水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

明治天皇と文豪たち - 樋口一葉と長塚 節 -

2023-10-05 06:13:45 | 日記

10月1日(日)、「文化遺産シリーズ」の第2回目として「明治天皇と文豪たち」と題して講演会を開催しました。講師は当会事務局長の仲田昭一が務めました。

16歳で即位された明治天皇は、福羽美静(津和野藩)や山岡鉄舟(幕臣)、西村茂樹(倫理学者)ら優れた侍従から帝王学を学びました。維新の三傑といわれた桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通たちは、明治11年でこの世を去っています。その後の日本をリードされたのは明治天皇です。帝王としての御心は、多くの御製に表れています。

この明治時代に活躍する文豪・文人たちの心を訪ねながら、明治時代の光輝きを再確認し、今後の世界と日本の在り方、人生100年時代の過ごし方などを学びました。

1 明治天皇の主な御製
  明治37年  あさみどり澄みわたりたる大空の 広きをおのが心ともがな
  明治37年  四方の海みなはらからとおもふ世に など波風の立ちさわぐらむ
  明治38年  暑しともいはれざりけりにえかえる 水田にたてる賎をおもへば
  明治40年  目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり

2  樋口一葉(明治5年~明29年:24歳、明治女性の気概を見る)
●「日記」明治26年(1893)12月2日
 「晴れ、議会紛々擾々。私行の暴き合い、隠事の摘発、さも大人げ なきことよ」
 「半夜眼を閉じて静かに当世の有様を思えば、あわれいかさまに成りて、いかさまに成らんとすらん。かいなき女子の何事をおもいたりとも、猶蟻みみずの天を論ずるにも似て、我を知らざるの甚だしと人知らばいわんなれども、・・・国の一隅に育ちて、我が大君のみめぐみに浴するは、彼の将相にも露おとらざるを」

 ●「日記」明治27年4月 (日清戦争、間近に迫る)
 「あれにあれしはしきしまの歌ばかりか、道徳すたれて人情紙のごとくうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かいなき女子の、何事を思い立ちたりとも及びまじきを知れども、我は一日の安きを貪りて、百世の憂いを念とせざるものならず。かすかなりといえども、人の一心 を備えたるものが、我が身一代の諸願を残りなくこれに投げ入れて、死生厭わず、天地の法に従いて働かんとするとき、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけじめか有るべき。笑うものは笑え、そしる者はそしれ。我が心は既に天地と一つになりぬ。わがこころざしは、国家の大本にあり。わがかばねは野外に捨てられて、やせ犬の餌食ならんを期す。われつとむるといえども賞を待たず、労すると雖も報いを望まねば、前後せばまらず、左右広かるべし。」

3 長塚 節
明治12年(1879)4月3日、茨城県国生村(現常総市国生)の豪農の生まれ。茨城中学校(現水戸一高)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難、郷里に戻って自然に親しみ読書する生活を送りながら療養に努めるなかで、さまざまな文学への関心を高めていく。しかし、明治44年(1911)8月頃、喉頭結核に罹り、翌年3月九州帝国大学耳鼻咽喉科学の名医の久保猪之吉博士診察治療を受ける。大正4年(1915)1月、九州帝国大学附属病院隔離病棟に入院、2月8日同病院にて歿す。享年満35歳。
◆ 病苦の中で『土』を執筆
農民文学者であり階級文学の先駆者であったとの評価は果たして如何。自然を清純な、温かい調べに歌い上げた。また、自然の清らかさに温かい愛情を持った。
馬追ひの髭のそよろに来る秋は まなこを閉ちて思ひみるべし
鬼怒川を夜ふけて渡す水棹の 遠く聞こえて秋たけにけり
白埴の瓶こそよけれ霧ながら 朝はつめたき水くみにけれ
たらちねの母がつりたる青蚊帳を 清しといねつたるみたれども

◆ 久保よりえ
明治17年(1884)愛媛県松山市生まれ。明治32年、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。柳原白蓮、泉鏡花、長塚節らと交遊した。長塚節は、多くの書簡を以て交信している。

●祖先の歴史に対して(大正2年10月24日久保よりえ宛て)
 日本人位自身の祖先に冷淡なものもないだらうと思ひます。さうして日本人位自身の祖先を理解しない国民もないだらうと思ひます・・・血筋のつながつた祖先の芸術を理解出来なくて、どうして外国の美術がわかるでせう。

●療養の合間を見てはしきりに古社寺を訪ねた。見学ではなく、参拝し、拝観し、父祖の伝統の前にひざまついた。
 大正元年、久保よりえ宛ての絵葉書に関城址の写真を説明して北畠親房卿が神皇正統記を書かれたのが常陸の小田城で、さうして此の関城で朱を加へたとかいつてゐます。こつちの岸には相対して下妻城があります。東北に孤立した此等の大忠臣は、明治四十年に漸く贈位の沙汰があったに過ぎません。それのみならず、此の水も切り落として大抵水田に成つてしまひました。実利主義の世の中です。

4 日露戦争 明治37年(1904)~明治38年(1905)
 米国;セオドア・ルーズヴェルトの仲介で講和実現する。
明治37年4月に衆議院議員根本正が第20回帝国議会で発言した報告の概要
政府は軍費5億7千6百万円を議会に要求し、議会は政府案の地租2厘を減じ、又塩絹布税を否決し、其の他修正を加え、満場一致を以て可決せり。
一は聖旨を奉体して宸襟を安じ奉り、一は以て国民の意思を代表して挙国一致の実を世界に宣明せざるべからず。要するに国民、内に一致して王師、外に奮戦す、今日の事唯是れあるのみ。是れ吾人が政府に対する従前の行掛りを一切放擲して全会一致、以て政府案を賛成せる所以なり。諸君幸いに之を諒とせられよ。

5 日露戦争以後
●『日本の禍機』朝河貫一の予感 著(福島県二本松出身、米国エール大学教授)
氏の前著『日露紛争』では日本の台頭と東アジア経済との関係、歴史的ロシア南下の志向、満洲をめぐる日満鮮の共通問題、清国をめぐる西欧諸国の植民政策の史実、清国の中立及び朝鮮の 領土保全に対する日本が果たしうる立場を。また、ロシアの領土的野望に抗する日本の、清国主権・ 満朝機会均等を護る旗手としての役割を説く)

高まる日本国民の愛国心に、「義心・意力・公平なる態度・沈重の省慮を具備すること」、「国民の善良なる習慣を養成することに努力すると肝要なり」の二つを心掛けよと警鐘を鳴らした。

●「戊申詔書」の発布
明治天皇は、戊申の年(明治41年)の10月13日にいわゆる「戊申詔書」を発布され、本来の日本人に目覚めて誠実勤労・質素倹約に日々努める国民に戻るよう善導された。
これを受けて、全国各地に「戊申青年団」などが結成され、その活動により気風の刷新が進められた。

6 明治の精神の肯定
明治天皇:明治45年7月30日崩御、9月13日乃木希典将軍夫妻自刃殉死

●徳富蘆花『みゝづのたはこと』
 明治天皇の御大葬に当たって「余は明治と云う年号が永く続くものであるかの様に感じて居た(中略)。陛下の崩御は明治史の巻きを閉じた。明治が大正となって、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が、余の半生を持つて往つておしまひになつたかの様に感じた。」

●夏目漱石『こころ』
「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始つて天皇に終わつたような気がしました(中略)。私は妻に向かつて、もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答えました。」

●森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』
乃木将軍の殉死を承けて、細川忠興の家臣興津与五右衛門と横田清兵衛が香木伽羅(本木と末木い分離)の購入に関して、主命を帯びてあくまで本木にこだわる興津と末木でもよしとする横田の対立、興津は横田を斬ったことで切腹を訴願。忠興は赦さず、両家の親交に努めた。恩を感じた与五右衛門は、忠興の一周忌に殉死した。責任の取り方を考えさせた。

●長塚 節は明治天皇の崩御に際して
 伊藤左千夫宛て、「丁度高松へ上陸した日に先帝崩御の報に接し気も消えさうだ。・・・我が日本の国勢から言へば、大正といふ年は、必ず明治に劣る筈はないけれども、我々はどうも明治といふ年号は、どれ程でも長く継続することを熱望して居た。これからはもう仕上げの時代で、先帝の御寿命は御長いければ長い程、日本の国に偉大なる光彩を添えた筈である。我々は悲しさに堪えない。」
 久保よりえ宛ては、「明治はもう終わつてしまったことを、私は情けなく思ひます」

これ等の事からしても、長塚 節は小説『土』を書いたからと言って階級文学の先駆者ではない。明治の心を立て貫いた文人である。師匠正岡子規の衣鉢を最もよく承け継いだ歌人といえます。

7 明治の精神の否定

●芥川龍之介の「手巾」
 息子を病で亡くした若き母親 校長に師恩への挨拶に。凛とした、しかも微笑を含みながら淡々と報告、団扇を落とした校長が拾おうとして目にしたものは、母親のもみくちゃにした手巾。西洋のドラマにその例あり。母親の態度は演技であったと、凛とした明治の母親像を否定的に揶揄した。 

●志賀直哉の日記
 明治天皇の崩御 「いい人らしかったがお気の毒であった」 
 乃木将軍の殉死 「馬鹿な奴だという気が、丁度下女か何かが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた」

まとめ
大正時代に入ると、日本人の伝統的な美点、武士道的な型は崩壊に向かい、西欧的思想への卑屈な姿勢へと傾斜していった。その結果、実利主義や個人主義の横行となっていく。国家や家庭などの団体は否定的となり、「個、個人」の社会となっていく。今後は「人生100年時代」といわれます。我々の世界観・国家観・人生観の理想像を、どこに置けばよいのであろうか。「光輝」とは何であろうか。「凛」とした姿勢は貫きたいものです。

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河内駅家の謎を解く

2023-10-05 05:28:25 | 日記

R5秋季講演会「文化遺産シリーズ」第1回が、9月17日(日)にふれあいセンターごだいで行われました。講師は樫村弘明氏です。

古代の駅制は、中央と諸国を結ぶ駅路に凡そ16キロメートルごとに設けられた駅家の馬を利用できる公的使者が、中央の命令を地方に伝えるという交通・通信の制度のことです。
その駅家の一つである那賀郡の「河内駅家」、『新編常陸国誌』にでてくる那珂川沿岸にあったとされる「河内駅家」の位置について、文献や実地踏査をされた結果についての報告です。歴史の真実を求めて進めていく調査研究の楽しさが窺えた感じでした。

1 樫村様の詳細な考証は省きますが、駅家の探求の方法は文献と発掘調査の成果と地形を読むこと。「土地宝典」の小字名は貴重な文献であるとされています。
  那珂川の右岸が自然堤防により微高地となるので候補地である。渡里廃寺や郡衙のあった渡里地区にあったと想定できる。

2 この河内駅家は渡里地区としても、前期と後期と位置が動いている。前期河内駅家は長者山や渡里官衙遺蹟の南方あたりか。小字地名「洞ノ内」を挟む両隣に「神田」が二か所あるが、これは「駅田」でもある所から駅家の存在と推定される。

3 移転した後期駅家は、現茨城大学の駐車場に近い小字名「前原」「狸久保」「南前原」辺りと推定する。

4 『常陸国風土記』に出て来る「曝井の泉」は、小字名「狭間」「曳池」「上曳地(池)」のある周辺で前期河内駅家の南側にある崖の「狭間」に当たる。現在建碑されている愛宕町の場所とは異なる。

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