「文化遺産」シリーズ講座第3回「岡倉天心と近代日本画」を、10月15日(日)ふれせんごだいにて開催しました。講師は当会の代表齋藤郁子でした。
天心は日本美術の思想や価値観を海外に積極的に伝えました。アメリカからのお雇い外国人教師アーネスト・フェノロサと共に奈良・京都を訪ね、日本の古美術の価値を見出し、日本の文化財保護法樹立に貢献しました。
また、『東洋の理想』、『茶の本』などを著し、西洋思想の「個の独立・分裂」とは対照的な東洋の「融合・和」を重視することを大きな特色であると訴えました。西洋に侵略されていた東洋諸国民族の独自性を重んじた和の精神が「亜細亜は一なり」のことばに凝縮されています。この言葉は、東洋への侵略主義と誤解されていたことを残念に思います。
岡倉覚三:天心と絵画の近代化
天心は、文久2年(1863)12月26日福井藩士岡倉覚右衛門の次男として横浜に生まれます。父覚衛門は藩命により貿易商「石川屋」を営んでいたため、天心は英語や西洋文化を身近に育ちました。10歳の時、廃藩置県で実家の「石川屋」は廃業、一家は東京へ引っ越し、家業は旅館へと変わります。このころ天心は、東京外国語学校に入学します。
明治9年(1876)、明治政府が招いたイタリアからのお雇い外国人アントニオ・フォンタネージの指導のもと浅井忠、小山正太郎、五姓田義松、山下りんらが洋画を学びました。同時期、フェロノサと天心は衰退する日本美術を擁護する運動を展開します。そのため、両者の対立する構図が出来上がっていきます。
東京開成学校から文部省へ勤務
天心12歳の時、東京開成学校(後の東京大学)に入学します。
この時に、後に活動を共にするフェロノサから政治学と経済学を学びます。(フェノロサはハーヴァード大学で哲学を学び、ボストン美術館絵画学校で油絵と絵画理論を学んでいます。)
語学に長けた天心とフェノロサは自然と親睦を深め、明治13年、天心を通訳にして、奈良の正倉院、法隆寺、唐招提寺、京都の東福寺、大徳寺などを巡り文化財の研究調査を行っています。この時、二人は廃仏毀釈で危機に瀕していた日本の仏教美術を目の当たりにして衝撃を受けます。
また、フェノロサは明治15年に、日本の伝統美術保存を目的として明治政府の官僚を筆頭メンバーとして結成した美術団体「龍池会」で講演を行い、日本ではじめて「日本画(Japanese painting)」という言葉を用いて、「油絵(oil painting)」と比較して、日本画の優位な点を論じ、西洋文化に傾倒していた日本美術界に警鐘を鳴らしました。この講演によって一躍有名になり、日本美術振興の指導者的な立ち位置に至ったのでした。
明治20年には、フェノロサと天心は、大規模な関西古社寺文化財調査を行っています。この調査の後、フェノロサは膨大な調査報告と文化財保護政策に対する提言を行い、これが今日の日本の国宝・重要文化財指定制度を含む文化財保護行政へと繋がっていきました。
明治政府の廃仏棄釈政策で仏像や美術品が破壊されて海外に流出されていきました。調査していく中でその実態を知り、危機感をつのらせた天心は古美術を保護していくことを決心します。この天心の活動が、昭和期にはいってから「国宝保存法」「文化財保護法」という法律にもなりました。
東京美術学校
明治22年(1889)27歳の時東京美術学校が開校し、天心は初代校長に就任します。教え子には横山大観、下村観山、菱田春草、福田眉仙、西郷孤月らがいました。
天心はそれまでの狩野派などの画家集団による手本を模写する修行法ではなく、写生、臨画(線描と濃淡の習得を目指した古い絵の模写)、そして何よりも新しい形の美術の創造を目指しました。特に西洋画に深い造詣があり、「西洋画に負けないように、でも日本画のいいところは失わないように」と美術学校の生徒たちに説きました。
博物館の設立
国立美術博物館に関する建議書(下書き断片)
国立美術博物館を必要とする理由多辯を要せす
古来の名作重器を保管存護するの急務其一なり
藝術開導の基礎を確定する其二なり
金甌無缺の光輝を内外に表彰すべき我国都市の一大装飾たること其三なり
文明生活の必須機関として〇〇和楽の舎場たらしむること其四なり
明治22年5月に博物館が帝国博物館と改称され、同時に京都と奈良に博物館設立が決定しているが、これはそれ以前に書かれたものとされ、天心がその設立準備からかかわっていたことが判ります。
近代日本画の確立
35歳の時、天心を排斥運動が起こり、東京美術学校を追い出されてしまいます。大観、春草、観山らも東京美術学校で教員として働いていましたが、同じように辞職してしまいます。天心は、辞めた人間を集めて、美術家団体「日本美術院」を設立しました。(東京郊外谷中)
美術院の活動の中で大観、春草に「空気は描けぬのか」と、それの表現を提案します。この言葉がきっかけとなって、表現を試みた絵は混濁した暗い色彩だったため「朦朧体」と呼ばれ、評論家からは「幽霊画」と酷評され、活動が行き詰ってしまいます。後の欧米外遊の際、発色の良い西洋絵具を持ち帰り、没線彩画描法を考案しました。その後の傑作へと繋がる明瞭な色彩表現を可能にし、大観と春草の試みはようやく肯定的な評価を得るようになります。
東洋の美と心を海外に
明治34年(1901)に天心はインドに渡りました。ヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダと東洋宗教会議について意見交換をし、詩人のラビンドラナート・タゴール(アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞)やその一族と親交を深めました。
インドで各地を巡って東洋文化の源流を自ら確かめた天心は滞在中に著書『The Ideals of the East(東洋の理想)』を著します。
明治36年、天心はアメリカのボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田春草らの弟子を伴って渡米しました。
天心、大観、春草はアメリカに渡って展覧会を開いて大成功を収めました。
「朦朧体」はアメリカで日の目を見たのです。
明治37年、アメリカに渡った天心はフェロノサが勤めるボストン美術館中国・日本美術部に迎えられて、東洋美術版の整理をし、目録を作るなどしました。
新天地・五浦
天心は茨城県の五浦を訪れて太平洋を望む五浦海岸の断崖絶壁、人里離れた穏やかな景色を気に入り、そこに住居と観瀾亭(六角堂)を建てました。
六角堂の面積は9㎡、仏堂と茶室を融合させた簡素な造り。室内は何もなく四畳半ほどの広さ。中に入った者に広いと感じさせる。建物は、奈良県にある法隆寺の夢殿、あるいは京都府の頂法寺(六角堂)を模したと言われている。また、中国・四川省の成都市にある杜甫の草堂を模したものという説がある。すなわち、日本とインドと中国の思想を融合させたシンボルといえます。
天心は、ボストン美術館に迎えられると館の美術品を集めるために五浦とボストンを往復することが多くなり、表立った活動は少なくなっていきます。
晩年
その後も天心は精力的に活動を行っていました。ボストン美術館で中国、インド、日本の美術品収集、東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなす日々をおくっていました。
明治43年、ボストン美術館の中国・日本部長に就任しています。
明治45年、ボストンに向かった天心は途中インドで詩人・タゴールの親戚にあたる、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会い、ラブレターとも言える文通のやりとりを天心が亡くなるまで続けました。
大正2年(1913)に体調を崩してアメリカから帰国した天心は静養のために別荘のある新潟県の赤倉温泉を訪れましたが、病状が悪化して9月2日、帰らぬ人となりました。
近代日本画は、明治維新後、西洋文化の洗礼を受け、伝統との相剋をのりこえて多様な展開をとげた近代美術の代表的遺産です。
日本画は欧化主義の新状況の下で混迷を続けますが、やがて岡倉天心という指導者を得、春草、観山、大観らによって新日本画創造の努力が進められ、新たな進路が見出されます。いわば、近代日本画は岡倉天心の理想でその目的に向かった仲間たちが大成させたと言えるでしょう。
下村観山の「弱法師」(大正4年、第二回院展)は古典の探索より生み出された新技法による追及を完成させた作品であり、横山大観の「生々流転」(大正12年、第十回院展)は彼の新水墨画様式形成の努力が雄大な構想のうちに結実した生涯の大作です。
「生々流転」は大正12年9月1日、再興院展に出品されお披露目されたのですが11時58分、関東大震災に遭遇。大観は余震のさなか自分で40㍍の作品を巻いて上野の山にのがれ守ったという逸話が残っています。