goo blog サービス終了のお知らせ 

水戸・歴史に学ぶ会

水戸を中心に歴史を訪ね、学んだことを講演会や文章にしています。会の主旨は、歴史に学びそれを今に生かし将来に伝える事です。

神皇正統記と水戸

2023-05-10 06:37:33 | 日記

令和5年5月7日(日)、茨城県那珂市のふれあいセンターごだいで、当会事務局長仲田昭一が、『神皇正統記』の意義と水戸との関係について講演をしました。

小田村の庄屋長島尉信(ながしまやすのぶ)は、45歳で庄屋を辞め江戸に出て測量術を学び農政学を志し、水戸藩の検地事業に貢献しました。また、郷土小田村の歴史に強い関心を持ち、三村山清冷院極楽寺の存在や小田城主小田治久が迎えた南朝方の北畠親房が『神皇正統記』を著したことを誇りとしました。水戸藩に仕えていたころには、彰考館の蔵書類を「一日一万字」の筆力で筆写しました。その中でも、尊王の志士高山彦九郎に注目して関係史料を収集しています。

1. 長島尉信の小田村への誇り
天明元年(1781)8月11日から慶応3年(1867)7月16日、87年の生涯でした。
名は尉信、号は郁子園(むべぞの)。
『神皇正統記』巻ノ六(92代伏見天皇から97代後村上天皇まで)を書写し、『郁子園自適集』に「親房卿が小田城に於て神皇正統記および職原抄を書かれたことに決している。喜ぶべし」と記しています。

北畠親房の小田在城は延元3年(1338)10月下旬頃から興国2年(1341)11月の約3年、その後関城へ移り興国3年暮れから翌4年11月にかけて関城・大宝城と北朝方の高師冬軍との攻防戦が続きました。親房は、最後は大宝城へ移り、城陥落後に吉野へ帰りました。親房の常陸在国は5年余りでしたが、その間に著した『神皇正統記』は大きな功績でした。

尉信の郷土偉人への敬意が表れたものとして、天保6年(1835)仙台の親友小野寺鳳谷に第16代小田城主政治の肖像画を描かせ、軸装の地には、自らが新発見・収拾した三村山清冷院極楽寺の古瓦片の拓本を使いました。

古瓦の発見について尉信は、「小田家滅亡後に、これらの古瓦や名家小田氏を知るものなし。この村に関心を持つ者が少なかったからであろう。この古瓦が世の中に認められたのは、今日を嚆矢というべきである」(天保日件要録)と自負しています。

 

2. 平泉澄博士と神皇正統記
平泉博士は、「一生の間、最も大きな感銘を受け、又一生の間の自分の努力、事跡のあとを顧みますと、正統記に終始したと云ってもよい」と明言されています。博士は、神皇正統記が小田城で執筆されたこと、さらにその古写本が水戸市郊外の六地蔵寺にあったこと、神皇正統記の精神を受けて水戸の学問の始祖ともなった徳川光圀が深かったことなどから、博士と水戸との関係は殊の外深いものとなりました。

博士が水戸を初めて訪ねたのは、大正9年(1920)の春でした。同15年10月28日より年々六蔵寺を訪ね書庫の整理をしました。

(1)六地蔵寺の古書整理
 ア)大正15年10月28日から、六地蔵寺にある『神皇正統記』の写本を求めて訪問しました。この際の有力な後援者は飯村丈三郎翁でした。
 イ)六地蔵寺の恵範は中世に於ける特殊の学者で、戦国時代であるにも拘らず非常な深遠な哲学者でした。
 ウ)『神皇正統記』の写本は遂にありませんでした。沢山の貴重なる史料を見出すことが出来ました。
   『神皇正統記』を筆写した恵範は、応仁の乱以後諸国乱離の中で穴居して勉学に励み、自らを土龍と称しました。
   六地蔵寺の方宝蔵からは、土龍上人の著述・筆写した書物類等を見出すことが出来ました。
 エ)更に嬉しい事は、「水戸の人々の至誠・まごころ」です。
   関係者の調査への奉仕はもちろん、恵範の供養塔を建てる際の石屋、恵範の供養文表装の際の表具屋、一晩で仕上げたその熱誠に深謝限りありません。  

(2)六地蔵寺本の発見
 平泉博士が全精力を傾注して探索された六地蔵寺本『神皇正統記』は、平成3年に茨城県史編纂室によって偶然発見せられて六地蔵寺に戻り、同9年に六地蔵寺からその影印本が刊行さました。
 博士の探索後71年目のことでした。

3. 北畠親房公について
『神皇正統記』の著者北畠親房の先祖は、歴代朝廷に仕えた忠臣の家柄です。親房公は、実は至大、至高、殆ど言語に絶する人物でした。公の誠忠は、菅原道真公より勝り、艱難の中に在って大義を守った楠木正成公に類します。これに義公光圀の『大日本史』の編さんを加えたものが「親房公」であると考えればよいと思います。

4. 神皇正統記の執筆とその意義
『神皇正統記』は誰のために、誰を対象として書かれたのでしょうか。親房は、君徳涵養に資するために執筆した初稿本が、武士にまで読まれていることに驚き、そこで武士に理解し易いように筆を入れるとともに、小田・関城から親朝等宛の書簡にしばしば記していた東国武士に対する訓戒を、いわば同時代史である後醍醐天皇条に書加えて、武士にまで対象を広げたのであろうと考えられています。

意義について平泉博士の述べるところ。
① 神皇正統記は血を以て書かれたる歴史である。単なる知識の羅列の為に机上に筆を弄したものではなく、著者の全人格をここに具象化したる結晶である。決して単なる知識慾の満足の為ではない。彼は剣を以て筆とし、血を以て墨とし、全生命を傾注してこの書を完成したのである。字々に通ふものは彼の鼓動である。行々に踊るものは、彼の壮烈なる意気である。著者の全人格は、ここに完全にその影を宿す。本書は実に親房の魂である。万古不滅の魂である。
② 神皇正統記により、建国の精神は生き生きとここに復活した。ここに一たび復活しては、「大日本史」再び之を伝承し、幕末に及んで、この精神全国民に普及するや、ここに明治維新の大業は成ったのである。

5. 神皇正統記の特色
① 題号の示すが如く、正統論の主張が目的であり、また本書の骨随でもあります。
② 注目すべきは本書の発端にあります。その発端は「大日本は神国なり、天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝へ給ふ、我国のみ此の事あり、異朝には其のたぐひ無し。此の故に神国と云ふなり、」という書出で、神国日本の特異性を高唱して国民の自覚を促しました。
③ 仏教史観のうち最も強い刺激を我が国民思想に与えたものは末法思想で、我国は百代の天皇を以て限りとするという悲観論である百王説がありました。しかしこれを否定して、天壌無窮の神勅の信依と三種の神器の神聖とを以て、建国の精神を復活させました。この点において、我国の数多き史書の中に、それらの上に、ひとり燦然として不朽の光を放っています。
④ 更に著しいことの一つに正義の強調をしています。「頼朝、泰時の功績を正しく認めて、みだりに幕府を攻撃するは、謂なき事として斥けた条の如きは最も有名である。すべて正しきものは最後の勝利を得る。」道は遂に正路に帰るというのが親房の固い信念でした。ただ、これは武家政権を是認したのではなく、君徳を涵養するために、無理に頼朝・泰時を借りて仁政を説いたのです。
⑤ 君(天皇)として、どうあらねばならないかについて、後嵯峨天皇の条に「神は人を安くするを本誓とす、天下の万民は皆神物なり、君は尊くましませど、一人を楽しましめ、万民を苦しむる事は、天も許さず、神もさいはひせぬいはれなれば、政の可否に随ひて、御運の通塞あるべしとぞ覚え侍る」とあるところです。永く後醍醐天皇に仕へて其の信任を辱くした重臣が、幼主後村上天皇に書き進めた言葉として、やがてここに後醍醐天皇が、天下の万民を神物として大切に思召され、万民の生活の安定を念願せられた尊い御精神を窺うことが出来ます。
⑥ 人臣としては天地自然への畏敬の念と感謝の気持ちを忘れず、誠実に働くことが肝要であるとして「人臣として、君をたふとび、民をあはれみ、天にせくくまり、地に抜き足し、日月の照らすを仰ぎても、心のきたなくして光に当たらざらん事をおぢ、雨露の施すを見ても、身の正しからずして恵みに漏れん事を顧みるべし、朝夕に長田狭田の稲の種をくふも皇恩なり、昼夜に生井栄井の水の流を呑むも神徳なり、是を思ひも入れず、在るに任せて慾を恣にし、私を前として公を忘るる心在るならば、世に久しき理侍らじ、況や国柄を取る仁に当り、兵権を預る人として、正路を踏まざらんにおきて、争か其の運を全くすべき。」と説きました。

6. 神皇正統記と水戸
徳川光圀(義公)が『大日本史』を編さんするために全国から優れた学者を招きました。その一人栗山潜鋒は、はじめ職原抄を読んで親房公の才の大なるを知り、続いて『神皇正統記』を読み、北朝を偽主とみなし、賊徒の終滅を信じて皇統の存続を疑わなかった態度に感嘆しました。

① 義公は、寛文元年(1661)の春六地蔵寺を訪れてから、所蔵されている諸本の保護を計り、ある物は副本をとり、又ある物は修繕し文庫も改繕しました。従ってこの時義公は『神皇正統記』も一覧したことは間違いありませんが、彰考館にその副本もなく、又幽谷以前に校合した者の無かったことは聊か不審なことです。
② 後期水戸学の先駆である藤田幽谷に栗山潜鋒の『保建大記』が大きな影響を与えたことは明瞭であり、『保建大記』が『神皇正統記』に拠っていることからすれば、この頃『神皇正統記』も読破したであろうことは想像に難くありません。常に幽谷の根底に北畠親房はありました。
③ 幽谷の門人会沢正志斎が、国体を説くにあたって、国号の由来、神々の系譜、神勅、神器に関しては『神皇正統記』を引用しています。正志斎の門人であり女婿であった吉田令世も、親房の『神皇正統記』が三種の神器の今世に現存する事を明記したことは、実に有難い書であると感嘆するところです。
④ 幽谷の子息であり門人でもある藤田東湖も、『神皇正統記』に書入れし、朱点を施しています。朱点は、「大日本者神国なり」など国体を、又「異国には此国を東夷とす」など内外の弁を、更に「上古は神と皇と一にましまししかば、祭りをつかさどるは即ち政」など祭政一致を説いた箇所です。東湖が神道研究の基本的問題について、『神皇正統記』から大きな影響を受けたことを示していると云えます。これは、弘道館記草稿に、また『弘道館記述義』となって顕れています。
⑤ 徳川斉昭(烈公)も福井藩主松平慶永に与えた書簡に「神皇正統記などは御覧なされたか、書籍の内、この書ぐらいによく出来た書は無い」と云っています。

 

このように見て来ますと、義公光圀から栗山潜鋒・藤田幽谷・藤田東湖・烈公斉昭らに貫流するものは、『神皇正統記』に対する純真な継述の精神があり、北畠親房公に対する深い景慕の念が存すること、その景慕の念・継述の精神が正しい学問をいよいよ深め、志を益々堅くさせて、遂に水戸学の完成さらには明治維新の完遂へと発展していったことなど、神皇正統記と水戸の強い関係を知ることができます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 令和5年 夏期講演会のお知ら... | トップ | 長島尉信と遠来の友 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事