3月5日(日)、会場:ふれあいセンターごだいに、常陸大宮市の高村恵美さんをお迎えして、「久慈川の水運」と題した講演会を開催しました。
近世に於ける東北地方や北関東の諸物資は、那珂川や久慈川の水運を利用し、さらに北浦や利根川、江戸川を介して江戸市中に入った。
その実態と問題点を捕らえて、当時の流通経路を学ぶことで、先人たちの苦労と今後の河川利用などの課題にも目を向けさせられた内容でした。
1 『水府志料』によると、近世における久慈川の舟運は、大子町下野宮以南から上岩瀬の間で行われたと考えられる。上岩瀬より下流では河岸の記述はないからである。
2 上流に於ては、棚倉で舟運事業の許可願いが展開されているが、貞享・享保時代(1700年前後)に久慈川の洪水などにより中断の時期がある。
3 宝永6年(1709)以降は棚倉米が下野宮下流で久慈川水運を利用し、高和田河岸(常陸大宮市)から那珂台地を横断し、那珂川の小野河岸(常陸大宮市)へ陸送されている。
その間に於て、河岸設置権利取得の問題も起こっていた。
4 那珂台地の内陸運送は、久慈川の舟運、現常陸大宮市内の河岸から陸送で、西側の那珂川河岸へ送られ、那珂川の舟運で湊まで下り、涸沼川を下って涸沼へ入る。
涸沼から陸送で北浦へ運び、利根川へ出て関宿まで遡り、関宿から江戸川へ入って江戸市中へ運ぶ路線が通常であった。
5 陸送部分について、大量輸送が可能となる舟運の開発が計画された。その一つは久慈川の額田地区から菅谷地区の早戸川を利用して那珂川に出るコースである。
他の一つは、涸沼から巴川までの間を通す「勘十郎堀」の開削である。しかし、前者は計画の域を出ず、後者は地質・勾配の調査不足もあって失敗であった。
6 結局、久慈川は水量、浅い川底などもあって、舟運の機能を十分に発揮することが出来なかった。
※ 久慈川水運の疑問が一つ。大宮の高和田河岸まで下ってきた舟運が、なぜそこで陸揚げされて那珂川方面へ陸送されたのであろうか。
下流域は水量も多くなると思われるのであるが。砂が多く、川底も予想以上に浅くなるのであろうか。
今後の河川の価値位置づけ、利用の方法、水資源の汚染防止と保護など、人間生活の在り方如何を常に念頭に置く必要があると思われる。
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