水戸・歴史に学ぶ会では、6月22日(木)に移動教室「南朝方の三城址を訪ねて」をテーマに小田城址、大宝城址(大宝八幡宮)、関城址、千妙寺(東睿山;天台宗)など北畠親房の足跡をめぐってきました。
この日はあいにくの雨天、しかも時に激しい降りとなりましたが、参加者43名とも少しもひるまず、三城攻めを敢行、目的を達成した後に、古刹千妙寺を参拝して心の安らぎを取り戻しました。
それにしても、参加者の皆さま方の歴史への熱い思いに接し、敬服の至りでした。さぞ、北畠親房、小田治久、下妻政泰、関宗祐たち南朝方の忠臣もその意を受納されたことと思います。
小田城址 雨雲たなびく紫峰筑波山を遠望し、背後に宝篋山を控えた平城。城跡は、7年間に亘った発掘調査や整備を終えて本郭(本丸)や堀、土塁などが見事に復元されていた。東条の浦に漂着し神宮寺城、阿波崎城を経て小田城に迎えられた北畠親房一行の喜びはいかなるものであったろうか。滞在はわずかに3年、その間後醍醐天皇の崩御の報を受けて、若き後村上天皇のために治国の要諦を示し、国民にはあるべき心構えを説いた『神皇正統記』を執筆。戦乱のさなかに筆を振い、また遠く陸奥との連携を図るためにもと、白河の結城親朝に援軍を促す書状を必死に送り続ける親房に思いを馳せた。
大宝城址 この城よりは先に、宇佐八幡宮から勧請した大宝八幡宮が建てられていたようである。関城よりは堅固であったらしく、親房は興良親王を先にここへ送り、自分は関城に移った。長い参道の鳥居の両側や拝殿・本殿の裏手に深い堀と高い土塁の一部が残っていた。急に激しくなった降雨の中、下妻政泰の忠義を称えた平泉澄博士撰文の顕彰碑を、齋藤郁子代表が拝読した。まるで政泰の霊魂が乗り移ったような姿である。周りを囲んだ参加者が熱心に耳を傾ける。緊迫感が漂っていたシーンであった。ここでの、おいしいお団子の味も忘れられない。
関城址 北朝方に着いた結城氏が中心となって関宗祐を攻める。坑道を掘って本丸へ迫ろうとした跡が保存されていた。大宝城から続く広大な大宝沼に囲まれた平城である。土塁も堀も一部ではあるがよく残っている。舌状の先端部に本丸があり、そこに関宗祐父子とその敵方となって戦死した19歳の若き武将結城直朝が一緒に祀られていた。北畠親房は、ここで『神皇正統記』を修訂している。交戦の合間に、兵士たちが回し読みをしていた姿に驚き、確かなものにしなければとの思いからであった。水戸市郊外の六地蔵寺に残る写本の冒頭を読んで「神国」の誇りを訴えた親房の心境に迫った。
千妙寺 中世の領主多賀谷氏の庇護を受けた天台宗の古刹。徳川家康も100石の寺領を寄進して保護を加えた。周囲に塔頭を残していて、その雄大な規模を窺うことができた。寺宝も数多く、補修されたそれらは、新築なった宝物館に展示されている。見事な十六善神や如意輪観音、再建関連の書状、勅額「東睿山千妙寺」の扁額などを拝観でき、戦乱の雰囲気から一転して心の安らぎを覚えることができた。本堂の裏手には、地元の庄屋であり郷士でもあった飯田軍蔵の顕彰碑がある。水戸の成沢日新塾に学び、藤田小四郎とも入魂となって、やがて攘夷運動に挺身したが、鎮圧隊幕府軍に捕縛されて処刑された。
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