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薩摩出身が活躍した警察の歴史――警察博物館

2018年02月06日 | 博物館など
あまりお世話になりたくない組織、警察の博物館をみにいった。
京橋の中央通と首都高がぶつかるあたりに7階建てのタテに細長いビルがある。1階には、古いパトカー、ヘリコプター、白バイ、さらに赤バイが展示されている。白バイは1936(昭和11)年からだが、それ以前は色が赤い赤バイだった。赤バイが1917年に設置されたのは、都内の自動車が1300台になり交通事故死亡者が1年で51人になったからとの理由で、バイクはアメリカからの輸入車インディアン製1000ccだった。パトカーもいまのように白黒2色になったのは1953年からで、それまでは白一色だったそうだ。

この博物館は、110番疑似体験、交番疑似体験、自転車の正しい乗り方を身につける自転車シミュレーターなど、主として小中学生の学習用の博物館だった。わたくしが最も関心があるのは歴史に関することなので、5階の「警察のあゆみ」を重点的にみた。なお残念なことに5階と4階(警視庁の今とこれから)は撮影禁止だった(1―3階は撮影可)。
明治維新で江戸城が開城した1868年4月、このときはまだ廃藩置県の前だったので、薩摩・長州・佐賀など12藩による「藩兵」という組織が設置され、12月には30藩に増えて「府兵」制度に切り替えられた。71年7月の廃藩置県により10月に東京府直轄の「ら卒」が置かれた。紺の洋服に帽子、靴、1mの棍棒をもつハイカラなスタイルだった。ら卒は3000人いたが内2000人は薩摩の士族出身だった。
薩摩藩与力の家に生まれた川路利良(1834-79)という人物がいる。蛤御門の変(1864)で西郷・大久保らに認められ重用された。
1872年ら卒総長となり、9月から1年ヨーロッパの警察制度を視察し、帰国後建議書草案を書いた。ポイントは3つ
 1 警察は内務省で統括する
 2 首都に内務省に直結する警視庁を設置する
 3 司法警察と行政警察を区分する 警察が消防も所管する
その他、十分な銃器を備えみだりに軍兵を動かさない、消防を警察の所管にする、などもあった。
これらが採用され、74年1月東京警視庁が鍛冶橋(東京駅の南のほう 旧津山藩邸)に設置され川路は初代大警視に就任した。いまも日本の近代警察の父といわれる。
ところが76年ごろから熊本・神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が続き、77年1月警視庁はいったん内務省警視局に吸収されなくなった。2月には西郷隆盛の西南戦争が起こった。政府軍とともに川路は別働第三旅団(警視隊)を率い、故郷鹿児島で西郷軍と戦った。西郷軍6800人死亡、政府軍6400人死亡という激戦だったが、警視隊からも878人の戦死者を出した。
1879年川路はふたたびヨーロッパを訪問したが到着して間もなく病気になり帰国し、数か月後45歳で死亡した。ただ小警視・佐和正1844-1918 この人は薩摩ではなく仙台出身)らは視察を続け、オーストリア、ドイツ、フランスなどを歴訪し1年6か月後に帰国し視察結果報告を提出した。これがもとになり、1881年1月ふたたび警視庁が設置された。
警視庁の管下を40の区に分け、警察署(事務担当)と屯所(執行面担当)を併置し、1屯所に交番8か所、1交番に巡査を6人配置した。欠員・欠配がないなら、明治10年代に東京全体で320交番、1920人巡査がいたことになる。1881年の東京府の人口は112万人、2018年1月現在の推計人口は1375万人なので12分の1、対する警官は4万3505人(2016年4月)なので22分の1、当時は少なかったとみるか、いまが多すぎるとみるか(もちろんやっている仕事や機能が拡大していることもあるが)。
再設置され大警視という呼称は警視総監に変った。以前と同じように消防も管轄だったがそれ以外に監獄事務も総監した(ただし1903年まで)。
また庁舎はこのときも鍛冶橋にあったが、1931年に桜田門に転居した。2.26事件の5年前のことだ。

前述のとおり、日本の近代警察の父・川路は薩摩出身、創設時3000人のら卒の内2000人が鹿児島出身だが、ほかにもある。薩摩藩の軍楽伝習生30人余りが来日したヨーロッパ軍楽指導者に学んだことが日本の軍楽隊の始まりで、1936年に警視庁音楽隊が発足した。戦時中解散したが、戦後の1948年再発足した。初代隊長は旧陸軍軍楽隊長の山口常光(長崎県壱岐出身)だった。
そばに設置してあるミュージックBOXで薩摩藩軍楽伝習隊指揮者ウィリアム・フェントン作曲「君が代」を聞いた。現代の「君が代」より明るく和声がきれいに聞こえた。ただ歌詞が入るとやはりダメだったのだが・・・。この装置に入っている「警視庁行進曲」「ピーポくんの歌」ははじめて聴く曲だった。 
なお1949年6月に日比谷公園小音楽堂ではじまった水曜コンサートはいまも続いている。

5階の部屋の入口に1957年から2007年に殉職した警官(ここでは殉難者と呼ばれる)38人の遺影と6人分の遺品の展示があった。
殉職の原因(状況)や当時の新聞記事もあった。強盗と格闘中とか鉄道で女性を助けようとして列車にはねられたとか、あさま山荘事件で銃弾に倒れた指揮者(機動隊の隊長)もいた。たしかにそういう方がいた記憶はあるが、長野県警でなく東京の警視庁が出動していたとは知らなかった(応援だったようだが、大人数だった。辺野古の基地反対闘争にも住民排除のため東京や大阪の警察が動員された。いま機動隊住民訴訟が争われているが、昔から警視庁はその種のことをしていたのかもしれない)。
こういう大事件でなく、白バイで追跡中にほかの車両と接触とか、八丈島で高波にさらわれてというような労務災害もあった。
展示された遺品は制服、手帳、手錠などで、これらは職務上のものなのでここにあってもよいが、腕時計まであったのには少し驚いた。遺族に返してあげてもよいのに。ただ新しいものでも1990年までだったので、さすがに最近はこういう遺品の展示はやめているようだ。

4階「首都をまもる 警視庁の今とこれから」をみていくつか発見があった。
現在、警視庁には総務、警務、交通、警備(93年まで警ら)、地域、公安、刑事、生活安全(95年まで防犯)、組織犯罪対策の9つの部、犯罪抑止対策本部、オリンピック・パラリンピック大会総合対策本部など4つの本部と警察学校がある。警備部はSP、機動隊、災害対策などの担当で似た名前の警務は人事や職員の給与、研修などを担当する。地域は交番や駐在所の担当である。警察署の数は2016年時点で102、交番が826、駐在所が258ある。駐在所は警官住込みのところだ。これ以外にOBが詰める地域安全センターが82ある。

よく疑問に思う警察庁と警視庁の違いについて、たぶん警視庁より警察庁のほうが上だろうとは思っていたが、少し説明があった。警視庁を管理するのは東京都公安委員会で、その所轄は都知事、一方警察庁を管理するのは国家公安委員会で、その所轄は総理大臣、警察庁の地方機関である各管区警察局が各府県警を管轄するが、警視庁と北海道警察のみ警察庁本体が直接監督するという関係だ。1874年の警視庁発足以来、首都の治安を守ることは警察の特別な任務なのだろう。
戦後の1946年から2016年までの犯罪(刑法犯)認知件数のグラフがあった。20―25万件を推移していたのが、2002年の30万件をピークに以降14年間一本調子で下降し、2016年には13万4619件とピークの半分以下に減り、1946年以降の最少を記録した。これを長年の努力の結果とみるか、長引く不況で犯罪も減少とみるかは人それぞれだ。ただ、これだけ減っているのだから、「治安が危ない」「犯罪社会」と騒ぐのはどうかと強く感じた。

警察博物館
住所:東京都中央区京橋3丁目5番1号
電話:03-3581-4321(警視庁代表) 
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
開館時間 9:30~17:00 
入館料:無料
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