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いまは幻、たばこ屋の変遷――たばこと塩の博物館・特別展

2024年04月10日 | 博物館など

本所吾妻橋の「たばこと塩の博物館」で特別展「たばこ屋大百科」をみた。
たばこというと、いまは日本国中、とくに都市圏では禁煙区域が大半だが、コンビニなどで(ほとんど税金らしいが)1箱500-600円もするたばこを買っている人を結構みかける。自分のことでいえば、2008年ころまで1日10-15本くらい吸っていたが、ある時、喘息と診断されそれを機会に禁煙した。そのころもだんだん吸える場所がなくなり、たとえば千代田区の御茶ノ水駅周辺では、あの場所に喫煙コーナーがある、などとチェックしていた覚えがある。
わたしは、自販機かキオスクなど駅の売店で買っていたが、まれに地方の旅行先のたばこ屋で購入したことはあった。また昭和30年代のこどものころは、たしかに、八百屋、魚屋、理容店、郵便局、和菓子屋、薬局などの小さな商店街の一角にたばこ屋が存在した。メインはパン屋ですこし駄菓子やコマ、タコ、花火など安いおもちゃも置いていた。まさに三丁目の夕日」の世界で、実際に映画にももたいまさこたばこ屋のおばさん役を演じていた。
日本人とたばこというと、歌舞伎や落語でもキセルの話が出てくるので、相当古い習慣かと思ったが、この博物館の解説では、喫煙のオリジンは南北アメリカで、スペイン人によりアジアに伝わり、16世紀後半南蛮人との交流で日本にも到来し17世紀前半に日本国中に広まったたそうだ。葉煙草は特産品というわけではなく、北は陸奥・出羽から南は八重山まで、各地で栽培されたようだ。
ただ、この特別展で扱われる時代は明治以降、主として葉煙草専売法以降だ。
江戸時代までは、キセルで刻みたばこを吸う文化だったが、明治に入り、紙巻たばこが登場し、岩谷商会村井兄弟商会千葉商店が激しい販売競争を繰り広げ、きれいなポスターやパッケージがつくられた。

常設展のたばこメディアウォールより
さて、1898年施行で専売法ができて、葉煙草農家は、大蔵省の専売所に全量収め代金(賠償金と呼ぶ)を受け取ることになった。さらに1904年の煙草専売法製造は大蔵省専売局のみが行ない、販売は専売局の指定が必要になった。製造業者は職業補償金や製造機器の買取で交付金を受け取れた。希望すれば元売捌人や小売人の指定を受けることもできた(ただし交付金は支払われず)。また専売局も急に製造量を増やせるわけではないので、口付紙巻たばこときせる喫煙用刻みたばこの製造は「場外作業」というかたちで製造することができた。当初場外作業所は600か所ほどあったが、1915年にはなくなった。また天狗たばこの岩谷商会やサンライスの村井兄弟商会は廃業した。
なお販売のほうは、当初指定されるのは元売捌人(卸売業者)までで、卸売りから専売局の指定のない小売業者も含め小売に販売することはできた。ただ小売店のしつらえや帳簿については専売局が細かな指示を与えた。1909年に、小売店は「たはこ」と横書きの看板と煙草小売所と赤地に白ヌキ・タテ書き、住所と氏名を入れた標識の設置が義務付けられた。ちなみに塩小売の標識は青地に白ヌキ文字である。
店は、元売捌でも座敷で商品の出し入れをする「座売り方式」で、呉服や薬の販売と同様だった。当時の写真をもとに、復元した元売捌所の店頭が展示されていた。

元売捌と小売の推移表があったが、1904年には元売は1739あったのが、1郡1市につき1人に絞られ1909年の指定更新時には元売589に激減した。小売は19万3880、1906-08年に製造業者を転職させたからか30万台に増えるが、1909年に19万台に減り、1914年には16万台減り、その後微増し1927年には18万台で推移するようになった。
背景として、1909年に市部は人口500人につき1人、郡部は300人に1人という配置基準が設定され、12年には繁閑で等級分けし一等地は人口400人、二等地は300人、三等地は250人に1人かつ一・二等地は約一町(9900平方メートル)ごと、三等地は30-40戸の集落ごとに間隔を開けるというものだった。

小売店は関東大震災を経て、座売りから店頭にカウンターを設置して売る方式に転換していった。
昭和前期の小売店の復元が展示されていた。カウンターの上に下から商品を取り出し上から商品を補充するガラス瓶が置いてあった。猫瓶というそうだ。 これは、戦前の映画に出てきたような店で、なつかしい感じがあった。
「向こう横丁のタバコやの可愛い看板娘 年は十八番茶も出花 愛しじゃないか」で始まる「タバコやの娘(歌 岸井明・平井英子)の音源がエンドレスでかかっていた。これもなつかしいと思ったら、メロディの初めが「たんたんたぬき」そっくりだったので驚いた。
看板娘については「女性の社会進出が難しい時代だったが、専売制下のたばこ販売は、女性が始めやすい仕事として認知されていった」との解説が付いていた。
また元売捌も1931年に廃止となり、専売局が直接小売店に卸す直営に変わった。すると専売局が自ら販促活動をしないといけないので、図案家(現在のデザイナー)に発注するようになり、三越や地下鉄の広告で有名な杉浦非水やその弟子の野村昇らがパッケージやポスターで活躍した。

図案家によるポスターやパッケージ(展示より)
ただ世の中全般と同じく、戦争の時代に入っていく。「国防費献納週間」といういかにも軍国時代らしい赤く派手なポスターがあった。意外に古く1933年のものだった。満州事変や5.15事件より後なので、早くも軍国・愛国ブームだったのかもしれない。1944年1月になるとたばこも配給になり、販売ルートで小売から隣組を通して、あらかじめ登録した成人男子に分配(売渡)するとあった。

戦後1949年大蔵省専売局は日本専売公社に改組される。いわゆる3公社(電電、専売、国鉄)、5現業(国有林野、印刷局、造幣局、アルコール専売、日本郵政)の特殊法人のひとつである。「専売公社の販売戦略は、各地に地方局と販売組合が一体となって行い、統一感と手作り感が同居した『あの店頭』はこうして作られていった」と解説にあった。これだけでは抽象的だが、ガソリンスタンドやコカ・コーラ取扱店のようなものだろうか。
身体障害者福祉法(1949)、母子保護法(1952)でたばこ小売人の指定には、障害者やひとり親家庭の母親を優遇する規定があったとの説明があり、福祉事業的な側面があったことを知った。
1970年代のたばこ屋の復元もあった。特別展にもあったが常設展出展のものを紹介する。

ショーケースには、セブンスター、エコー、缶入りのショートピース、ロングピース、ショートホープ、ロングホープなどわたしでも知っているデザインの煙草が並んでいた。エコーは貧しいアルバイトをしているとき吸ったとか、蘭は「ヒポクラテスたち」で伊藤蘭が吸っていたとか、いくつか思い出が浮かんだ。
店内にテレビが置いてあり、70年代のCMが流れていた。たぼこではなく、日清焼きそば・UFOのピンク・レディや、サントリー・角瓶のCFで、これもなつかしかった。
たばこ屋というと、郵便ポストや赤い公衆電話とセットになっていた記憶がある。解説によれば、郵便切手も郵便切手売捌人の免許が必要で「郵便箱に近接する場所で1か所のみ許可」という条件があり、似たような制度なので、煙草小売人の指定を受けた店が郵便切手売捌人の免許を受けることが多かったそうだ。
公衆電話のほうは、戦争末期の1945年1月、空襲による公衆電話不足対策で簡易電話所制度を制定することになり、その条件として「郵便切手、煙草小売所、薬局、書籍販売店など、一般公衆に利用しやすい業務を営んでいること」があったからだそうだ。そして戦後の1958年、都内で簡易・委託公衆電話に赤色の電話機が採用されたとのこと、こうして、たばこ、切手、赤電話がセットの光景をみることになる。
常設展で、たばこメディアウォールという宣伝ポスター変遷のコーナーがあった。

「生活の句読点」というキャッチのポスターは白衣の外科医が手術室でたばこをふかし「ほっとした一ふくが仕事の区切りをつけてくれます」とつぶやく。電車の運転手や作業員たちが停車中の車窓から顔を出したばこをふかす今日も元気だ たばこがうまい!」。いまではありえない光景だが、いずれも「いこい」のポスター(昭和30年代)である。女性モデルを使った「おくりものにはハイライト」や、モデル:香川京子、撮影:樋口忠男の「たばこは動くアクセサリー」もあった。
昭和40年代になると、「新しいスターが誕生します」「白いベストセラー」のセブンスター、青りんごを真ん中に据えた「スモーキン・クリーン 街を自然を美しく」、かつて電通アド・ミュージアム東京でみた1960年代から70年代の広告の流れと一致している。 
その後のことでは、1985年専売制が廃止され日本たばこ産業に民営化された。その結果、輸入たばこと国産たばこは同じ土俵での闘いになり、自販機やPOPをめぐる激しい争奪戦が繰り広げられた。洋モクと呼ばれたラーク、ケント、マルボロなどのパッケージも思い出す。
そんな時代もたしかにあった,
と思い出させた特別展だった。

☆たばこと塩の博物館なので、当然塩の展示もある。「生命をささえる塩」「世界の塩資源」「日本の塩づくり」「塩のサイエンス」などのコーナーがある。ポーランドやイギリスの岩塩の大きなサンプル、入浜式塩田流加式塩田イオン交換膜法の仕組みと発展プロセスは、もしかすると子どものころ知っていたかもしれないが、高齢になったいま、生命維持に不可欠な塩について改めて知識を得られてよかった。


たばこと塩の博物館
 住所:東京都墨田区横川1丁目16-3
 電話:03-3622-8801
 開館日:火曜日~日曜日(臨時休館あり HPで確認) 
 開館時間:10:00~17:00
 入館料:大人 100円、小・中・高校生、65歳以上 50円

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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