三田の慶應義塾大学・図書館旧館2階に福澤諭吉記念慶應義塾史展示館という展示室がある。「颯々」(さっさつ)の章(以降「の章」を略)、「智勇」「独立自尊」「人間交際」の4つのブロックに分け、諭吉の生涯と義塾の発展を紹介している。それほど大きくない別室で企画展を行い、はじめて行ったときは「慶應野球と近代日本」、2回目は「福沢諭吉と『非暴力』」が開催されていた。
旧館2階入り口、展示館に上がる階段
有名な人なので、なんとなく知っているような気がしていたが、展示をみて初めて知ったこと、意外なことが多かった。
たとえば大分の中津藩の士族出身ということは知っていたので、なんとなく福澤は中津生まれと思っていた。それは違い現在の大阪市福島区玉江橋北詰の中津藩蔵屋敷で1835年1月、2男3女5人兄妹の末っ子として生まれた。父・百助は下級藩士で大阪の豪商からの借財を担当していたが、本当は儒学が好きな学者肌の人物だった。諭吉の「諭」は、百助が前から求めていた清の法令集「上諭条例」を入手した日に生まれた男子だったので、諭吉と名付けた。ときに父が40のときの子だった。その父・百助は諭吉がわずか1歳半のときに亡くなり、一家は中津に引き揚げた。
また慶應義塾の創立者で学者だったのだから、子どものときから秀才だったのだろうと思っていたが、それも違い勉強嫌いで、14、15歳でやっと中津の白石照山に付いて儒学を習い始めた。兄の勧めで19歳で長崎に蘭学を学びに行き、続いて1年後の1855年、有名な大阪の緒方洪庵の適塾に入門する。
●慶応義塾の創立
1858年、江戸の藩邸の留守番役岡見彦三から呼出しがあった。藩邸での蘭学の指導役は杉享二、松木弘安(寺島宗則)と続き、その後釜に選ばれたのがまだ23歳の諭吉だった。藩主の奥平昌高は蘭癖といわれるほど蘭学を好んだ。築地鉄砲洲の藩邸内で、藩公認の自宅で開く塾ということで小家塾と諭吉は呼んでいた。これが慶應義塾の発祥とされるが、これでは自発的に開いた塾というよりは、請われて就職した勤務先のように思える。
ただ翌1859(安政6)年横浜に出かけることがあり、これからは蘭学ではなく英語だと閃き乗り換える。素早く的確な判断である。
そして1年後の1860(万延元)年2月、正使の船を護る咸臨丸でサンフランシスコへ往復する一行の一員になる。勝海舟や通詞の中浜万次郎も同船していた。さらに2年後の1862年1月カイロ、マルセイユを経て、パリ、ロンドン、ベルリン、さらにサンクトペテルブルグにまで行き、リスボン経由で帰国するヨーロッパ見聞の文久遣欧使節のメンバーにもなる。1年以上の長旅だった。これで終わらず1867年にはサンフランシスコからパナマを経由してニューヨーク、ワシントンD.C.にまで行き、半年後に戻ってきた。
6月末に帰国したがもう幕末で、68年が明治維新、この年の4月芝新銭座に転居したとき慶應義塾の名を付けた。このあたりが義塾の実質的な始まりではないかと思う。諭吉は「一生にて二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」という。維新までは武士として生き、ここからは平民として生きる。1968年5月彰義隊が上野の山で戦争をしていたとき、福澤は日課どおり泰然とウェーランドの経済書講述を続けたというエピソードがあり、安田靫彦の絵(1904)が展示パネルに複写されていたた。
そういえば入口近いところに「独立自尊」の揮毫の下に居合の真剣が置かれていた。
泰然とウェーランドの経済書講述を続ける(安田靫彦の絵 パネル展示の複写)
1871(明治4)年には、芝より少し南にある三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げを受け、移転した。校舎は藩邸の建物のまま1900年前後まで使われ、表門も黒門をそのまま使い1913年に石造につくりかえた。
●一貫教育体制の確立
義塾と諭吉が関わった日本各地の学校(展示パネル)
じつは慶應義塾は1873-75年に分校を京都、大阪、徳島につくった。しかし1-2年で廃校になった。また諭吉が創立に関与したり、教師を派遣した関係校が全国に25もあったことを初めて知った。東京では、商法講習所(現在の一橋大学)、東京師範学校中等師範科(現在のつくば大学)、専修学校(専修大学)、高山歯科学院(東京歯科大学)、三田予備校(錦城学園高校)など5校、横浜に横浜商法学校(横浜商業高校)など2校、その他、北は弘前から南は延岡まで各地にあった。しかし4-5年で消滅したものが多い。
本校である義塾では1890(明治23)年、ハーバード大学に依頼し3人のアメリカ人教師を派遣してもらった。一人は文学科、一人は理財科、もう一人は法学科を担当し、組織も大学部とした。そこで従来の課程は普通部とした。これで慶応・日吉の中学を普通部という理由がわかった。なお1898(明治31)年には政治科を追加して設置した。いっぽう同じ1898年和田塾(1874年創立)が幼稚舎となり、無試験で幼稚舎、普通部、大学部とつながる一貫教育体制が確立した
●多事争論と時事新報
学校経営の一方、諭吉は教育に加え議論を重視した。1874(明治7)年6月三田演説会を発会し、翌75年5月三田演説館を建設したことからも意気込みがわかる。
そして1882(明治15)年3月時事新報を慶応義塾出版社から発刊した。当時の新聞は政党色が強いといわれたが、時事新報は不偏不党を掲げ、官でも民でもなく「官民調和」の論調をとった。単一の主張に染まることを不健全と考え、「あえて世論と逆のことを主張したりもした」と解説パネルに書かれていた。
時事新報以前のものも含め、諭吉の「名言」を列挙する。
「ももたろうは、ぬすびとともいうべき、わるものなり」(1871 明治4)、「すべて世の政府はただ便利のために設けたるものなり」(1875 明治8)、「日本にはただ政府ありていまだ国民あらず」(1874 明治4)、「この人民ありて、この政治あるなり」(1872 明治5)、「自由の気風はただ多事争論の間にありて存するものと知るべし」(1875 明治8)、「日本国の人心はややもすれば一方に凝るの弊あり」(1887 明治20)などなど。85年7月の社説で諭吉は「日本国は婦人の地獄なり」とまで書いた(後に「日本婦人論後編」に転載)。
●法螺を福澤、嘘を諭吉
このように、自由闊達というか、「世論と逆」の主張までしたので、生前から福澤への毀誉褒貶は激しかった。
「ホラを福澤、ウソを諭吉」のコーナーパネル
『日の出新聞』(1885(明治15)年8月11日付)などは、福澤のことをこう表現した。
「法螺(ほら)を福澤、虚(うそ)を諭吉(ゆうきち)、馬鹿とも狂痴とも言えばいえ、知る人ぞ知る、己の心群がる雀のチュウチュウいうも、何ぞ鶴の心意気を知らんと、西洋学の悟道(さとり)を得て、鼻高々と鞍馬山増長坊と開化の巨擘(おやだま)、三田の隊長福沢諭吉大先生」
福澤の評価について、コーナーパネルでも「個人主義、自由主義といわれるかと思えば、国権主義、対外膨張主義、侵略主義といわれることもある」と書かれていた。福澤諭吉記念慶應義塾史展示館なのに、冷静な評価でなかなか大したものである。
わたくしも、2010年に安川寿之輔さん(不戦兵士・市民の会、名古屋大学名誉教授)の講演で、1880年ころになると、朝鮮国は未開なので「武力を用ひても其進歩を助けん」と主張し、「朝鮮人・・・無気力、無定見」「チャイニーズ・・・恰も乞食」など、差別・偏見の垂れ流しを始め、「無遠慮に其地面を押領」「支那兵の如き・・・豚狩の積り」「チャンチャン・・・皆殺し・・・造作もなきこと」とアジア人蔑視の道を進んだことを知り、少なくともアジア諸国の民衆への態度は「脱亜論」にみられるそういうジャンルの人物だと思っていた。
展示パネルには、「金をもうけることがすき」(勝海舟)、「彼によって拝金宗は恥ずかしからざる宗教となれり」(内村鑑三)、「文章として観るにたらざるところ」(中江兆民)、「サイエンスを通俗化して」(後藤新平)、「平凡の巨人ともいうべきは、福澤諭吉一人あるのみ」(幸徳秋水)、「凡人主義の勝利者である」(大隈重信)、「あるいは大俗人、あるいは自利一辺の小人、あるいは大山師」(山路愛山)、「我が貞淑和順なる日本婦人を誤らす」(棚橋絢子)など毀誉褒貶の言葉が並んでいた。
パネルでは「福澤は、人々が自由に議論することが自由をもたらすと考えた人であり、議論のないことを不健全と捉え、良い政策に対しても、あえて議論――すなわち「多事争論」――を巻き起こす人であった」とまとめていた。
たしかに21世紀の現在の尺度とは異なる尺度で測るべき人物なのかもしれない。
死の前年、三田を散歩する諭吉(図録より)
諭吉は1901(明治34)年1月2度目の脳溢血を起こし、2月に66歳で死去した。
当時としては大柄で173センチ70キロ、死の前年、二人の学生と「三田を散歩中の諭吉」の写真が展示されていた。まるで子どもを左右に従えた大人のように、たしかに体が大きい。
諭吉の死後、1920(大正9)年大学の法的地位が私学にも開放され、第1号として慶應義塾と早稲田大学が指定された。ただ大学認可と引き換えに女子の入学が取り下げに追い込まれたとあるのが、当時の風潮を感じさせ興味深かった。
大学は1917(大正6)年には北里柴三郎の協力を得て医学科(初代学科長は北里。医学部に組織変更してからは医学部長)、1944(昭和19)年には藤原工業大学が寄付され工学部、戦後1957年に商学部、90年湘南藤沢キャンパスに環境情報学部・総合政策学部、2001年看護医療学部、08年共立薬科大学を合併し薬学部とどんどん規模を拡大していった。
旧・慶応義塾図書館(重要文化財)
☆展示館は、もとの慶応義塾図書館2階にある。1912(明治45)年4月に竣工した建物である。義塾創立50年記念の寄付で曾根遠蔵、中條精一郎の設計により1909年から3年かかりで建設された。関東大震災で被災、45年5月の大空襲で本館は全焼したが復旧させ、69年に国の重要文化財に指定された。
97年5月大改修、2017-19年耐震改修工事を行い2021年7月「福澤諭吉記念慶應義塾史展示館」を開館させた。わたしは写真でよく見るこのレンガ色の建物を本館だと思いこんでいた。三田演説館と並び慶應義塾大学を象徴する建造物である。
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