江東区豊洲のIHI(旧社名・石川島播磨重工業)本社ビル1階にi-muse(アイミューズ)という企業博物館がある。
IHIは1876年創業、前身の水戸藩石川島造船所設立(1853年)から数えると167年もの歴史ある会社だ。創業の地は、東京都中央区佃。江戸初期は家康が大阪の佃村の漁民を住まわせ、1790年以降は軽罪人の収容所・人足寄場だったところだ。ペリー来航に対抗するため幕府がこの地に大型船造船所をつくり維新直前の1876年日本初の蒸気軍艦「千代田形」を完成させた。維新後廃工場になっていた場所を、長崎出身の平野富二が海軍省から借用して石川島平野造船所を設立した。
わたくしは平野のことを、1873年本木昌造の弟子として築地に活版製造所をつくり、いまでは「活字発祥の碑」として残されているということで知っていた。
1876年5月活版印刷機を製造、10月に石川島平野造船所を設立した。30歳のときだった。そして軍艦「鳥海」を1887年に竣工させた。
平野の海軍省宛「石川島ドック拝借願」(1876年6月 ただし複製)と現代語訳が展示されていた。これがIHIの原点である。
1887年の軍艦「鳥海」の進水式と1901年の「明治丸」入梁修理をひとつの情景として再現した石川島造船所の模型が展示されていた。正面手前に正門と船渠工場、左は鳥海、右にドック入りした明治丸、周囲に銅工場、機械工場、船具工場、鉄工場、ポンプ場、木挽き小屋、鋳物工場などが配置され、敷地の隅には社宅、職員住宅、賄所、稲荷社、倉庫などもあり、戦前の日本の大会社の工場の様子がよくわかった。進水式の情景には、帝国海軍の軍艦ということもあるのだろうが、日の丸が20本も立てられ、紅白幔幕のテント、さらに「大正天皇皇太子殿下御時代御座所」という説明札まで付いていた。この模型そのものが戦前につくられたもので、「大正天皇が皇太子だった時代の(進水式に設けた)御座所」という意味なのだそうだ。
大きな会社だからということもあるが、IHIの合併沿革図をみると、1960年7月に播磨造船所(1907創業)と合併したことが大きかった。しかしそれだけでなく1964年名古屋造船(1941設立)、67年芝浦共同工業(1939設立)、68年呉造船所(1954設立 広海軍工廠の後継)など、全国各地の大手造船会社を合併していった。三菱系も三重工が合併し三菱重工業(64年)になるなど60年代の造船業界はM&Aの時代で、イギリスを抜き世界一の造船国(1956年以降)を継続した大きな要因だったようだ。
石川島重工業と播磨造船所が合併したときの土光敏夫(石川島)・六岡(むつおか)周三(播磨)両社長直筆のサインがある合併契約書(60年7月)が展示されていた。
そこから先は、6つの島のブロックに分け、「1853-1945 東京駅と運搬機械」、「1946-1968 出光丸と造船」「1969-1989 LNGタンクとエネルギープラント」「1990-1999 明石海峡大橋と橋梁・水門」「2000- ジェットエンジンの開発」「ロケットシステムと宇宙利用」と時代を区分し、その時期ごとの社会や産業のニーズとそれに対応するIHIの技と主要な貢献を示す映像と「もの」(実物や模型)で解説する構成になっている。
映像のなかに、子ども向けの「子ども研究所」という動画があった。
わたくしが見た「東京駅と運搬機械」の滑車は、滑車を使い、たとえば35キロもある冷蔵庫を4本のロープを使えば楽に吊り上げ、軽く運搬できるという実験を示すものだった。滑車は、クレーンだけでなく、井戸や跳ね橋にも利用される。大人もうまく説明はできないので、まさに「百聞は一見に如かず」で納得できた。なかなかのすぐれものの展示である。そしてこの原理を応用したクレーンが鉄の柱を組み上げ東京駅駅舎の躯体をつくり、外装を施し辰野金吾らが設計した赤レンガの東京駅が1914年に完成した。延べ床面積7725平方メートル、鉄骨使用量約3000トンの威容を誇った。東京駅の大きな模型が展示されていた。
同様に、20万トン級タンカー・出光丸(1966竣工)の4mもある大きな模型、マイナス 162℃の高熱量エネルギーLNGを蓄積する気密性の高いタンク、世界最長(全長3911m)の吊り橋・明石海峡大橋(1998供用開始)、V2500ターボファンエンジン(1988型式承認)などが展示されていた。
LNGタンクはマイナス162℃の液化天然ガスを保温する魔法びんのようなものだ。タンクというと球形や円筒形のものを思い浮かべるが、日本初の巨大LNGタンクは地上部(東京ガス根岸工場1969年)だけでなく地下部(同工場1970年)もあった。展示模型は地上、地下を半分ずつ組み合わせて表現したもので、地上部は高さ64m・内径79m、地下部は深さ50m・内径64mという巨大な想定で驚く。LNG(液化天然ガス)は気化すると都市ガスの原料になる。地上部の天井屋根は空気の力で持ち上げられているそうだ。原子炉圧力容器の継手溶接にもタンクづくりの技術が活かされている。
明石海峡大橋は、高さが海面上297mもあり重さ400トンの切削ブロックを30段も積み重ねて主塔を海上に建てた。精密さが要求された。
J3ターボジェットエンジンは、生産先行型は55年に開発を開始し59年に完成した。量産向けは63年航空自衛隊のT-1B中等練習機、その後海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機に搭載され、わが国初の量産(実用化)エンジンとなった。両機ともすでに役割を終えているが、1980年の生産終了までに247台出荷された。
さらに宇宙分野にも技術力が発揮された。古くは1953年にわずか23センチのペンシルロケットの開発を始め55年に発射が成功した。いまではイプシロンロケット(2013)やH-ⅡAロケットの液体水素ターボポンプを開発するに至っている。なお2005年と09年に宇宙を飛んだ宇宙飛行士・野口聡一さんはIHIでエンジン開発をする社員だったそうだ。
こうして陸・海・空そして宇宙へ利用分野が拡張した。
最後にこれらの技術発展系統を一覧できる「技術と叡智の166年。」という大きなボードが展示されていた。
「日本初の蒸気軍艦」から機関技術(ボイラ)、回転機械技術(タービンや圧縮機)、船体技術(そこから生まれた鉄橋や水門)、運搬技術(クレーン)を培い、ボイラから現在のバイオマス発電や原子炉圧力容器、タービンからジェットエンジンやターボファンエンジン、鉄橋から長大吊橋、クレーンからビル式自動倉庫やAI産業ロボットへ技術開発を展開したことが示してあった。もちろん直接軍艦のみから生じたものではなく、その後新たに始めたガスタンク(1955)からLNG地上タンク、ペンシルロケット(1955)からイプシロン、ポンプ(1896)からターボポンプ、ディーゼルエンジン(1919)からデュアルフューエルエンジンという新しい流れもある。しかしものづくりの系譜が「技術と叡智の166年。」というタイトルで示されていたのは圧巻だった。
重工業の会社なので、大量生産でなく単品生産がメインだったと考えられる。一品一品にこめられたものづくりへの思い、そこから生まれた技術の蓄積が「世界初」とか「世界一」の製品をつくり出した。日本が「ものづくり」で世界をリードしていた時代の足跡をたどるミュージアムがi-museである。
またこの博物館のある豊洲とIHIとの関係が解説されていた。
佃で創業したIHIは戦前の1939年新たな埋立地の豊洲に造船部門を移転した。戦後は造船ブームに乗り1956年に英国を抜き世界一の造船国になったが、その一翼を担うのがこの工場だった。やがて豊洲にも開発の波が押し寄せ1992年に地下鉄有楽町線豊洲駅近くの豊洲センタービルが竣工した。
2002年には豊洲工場も閉鎖し、再開発によりIHI本社、ビジネススクエア、高層マンションなどに変身した。かつてドッグがあった跡地は、2006年に三井不動産の商業施設「アーバンドック ららぽーと豊洲」として開業した。どうしてこんな海辺に長いビルがあるのかわからなかったが、納得した。
かつての工場跡地は、ららぽーとやスーパービバホームなどの商業施設、NTTデータや日本ユニシス本社が入居する高層オフィスビル、タワーマンション、芝浦工業大学、区立小中学校などに再開発された。
中央に低層のららぽーと豊洲、やや左奥に見えるのが本社が入る豊洲IHIビル
なお、佃は造船所が豊洲に移転したあと、クレーン製作、機械、鉄構物などをつくる工場となった。1979年に閉鎖され、トレンディドラマなどでみんなが知るリバーサイドシティに生まれ変わった。
「子ども研究所」という動画がよくできていたので、コロナ明けの展示再開後にもう一度見に行った。しかし残念なことに、タッチパネル式の動画なので休止中だった。そこで、受付の方に、ほかの実験にどんなものがあるのかお聞きした。船の浮力を調べるもの、橋の強さを、組体操との比較で理解させるもの、ロケットエンジンの原理をフィルム入れのプラスチックケースにドライアイスの煙を入れて実験するものなどがあるそうだ。先に「百聞は一見に如かず」と書いたが、「面白そう」だ。そのうちコロナが過ぎ去ればまた行って見てみたい。
さらに悪いことに、普通の展示の内容解説も音声でやっていて、それも休止していたため、大きな展示物をただながめるだけで、たとえばイプシロンロケットのことなど、もう一度説明を聞いてみたかったのだが、それもかなわず何も理解できなかった。
IHIには佃に石川島資料館という資料館がある。3-4年前に一度行った覚えがある。佃や月島がどういう順序で埋め立てられたが詳しい展示があったのと、この博物館と同じく、陸海空に展開するIHIの展示があったように思うが、あまりよく覚えていない。ここもI-muse以上に長く休館していたが再開しているので、行って見た。ところがこちらは1990年代くらいまでしか扱っておらず、新しい製品の説明はなかった。
豊洲公園には産業遺産遺構モニュメントとして、IHIの係留柱や錨が展示されている(右から係留柱、車輪、その奥に錨、黄色い錘(クレーン滑車のオモリ)、車輪(錘とともにベンチとして再利用)、遠くにクレーン(クレーンのみ、クレーンをモチーフにした新たな構造物))
☆IHIという会社は、もちろん社名はよく知っているが、あまり詳しくは知らなかった。ただこのブログでたびたび引用している「居酒屋礼賛」のブロガー・浜田信郎さんの勤務先ということは知っていた。船舶関係の仕事に従事という以上の情報はないが、横浜やブラジルに単身赴任されていたことや、かつて呉で勤務されていたことは知っていた。
ブログ記事をはじめて見たのは99年ごろだったと思うので、もう20年以上の愛読ブログになる。毎週日曜の記事更新を楽しみにしているが、今春からの新型コロナ禍で、紹介される店数が減ってしまった。この「ご時勢」で閉店・廃業する店も増えつつあり、神保町の「酔の助」や神田駅ガード下の「樽や」はわたしも行ったことがあるので残念だ。コロナ収束はまだ1年くらいかかるかもしれないが、ぜひ「平和」に呑める日々を心待ちにしたい。
生命維持や経済循環が重要であることは言わずもがなだ。ただ居酒屋などでの交遊など、社会関係の維持もまた社会のエッセンシャルであることも力説したい。
i-muse
住所:東京都江東区 豊洲3丁目1-1(豊洲IHIビル1階)
電話:03-6204-7032
開館日:月曜日~金曜日(年末年始、ゴールデンウィーク、夏季連休などを除く)
開館時間:9:30―17:30
入館料:無料
石川島資料館は東京都中央区佃1-11-8 ピアウエストスクエア1階 03-5548-2571
毎週水・土曜日10-12,13-17時のみ開館 入館料:無料
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
IHIは1876年創業、前身の水戸藩石川島造船所設立(1853年)から数えると167年もの歴史ある会社だ。創業の地は、東京都中央区佃。江戸初期は家康が大阪の佃村の漁民を住まわせ、1790年以降は軽罪人の収容所・人足寄場だったところだ。ペリー来航に対抗するため幕府がこの地に大型船造船所をつくり維新直前の1876年日本初の蒸気軍艦「千代田形」を完成させた。維新後廃工場になっていた場所を、長崎出身の平野富二が海軍省から借用して石川島平野造船所を設立した。
わたくしは平野のことを、1873年本木昌造の弟子として築地に活版製造所をつくり、いまでは「活字発祥の碑」として残されているということで知っていた。
1876年5月活版印刷機を製造、10月に石川島平野造船所を設立した。30歳のときだった。そして軍艦「鳥海」を1887年に竣工させた。
平野の海軍省宛「石川島ドック拝借願」(1876年6月 ただし複製)と現代語訳が展示されていた。これがIHIの原点である。
1887年の軍艦「鳥海」の進水式と1901年の「明治丸」入梁修理をひとつの情景として再現した石川島造船所の模型が展示されていた。正面手前に正門と船渠工場、左は鳥海、右にドック入りした明治丸、周囲に銅工場、機械工場、船具工場、鉄工場、ポンプ場、木挽き小屋、鋳物工場などが配置され、敷地の隅には社宅、職員住宅、賄所、稲荷社、倉庫などもあり、戦前の日本の大会社の工場の様子がよくわかった。進水式の情景には、帝国海軍の軍艦ということもあるのだろうが、日の丸が20本も立てられ、紅白幔幕のテント、さらに「大正天皇皇太子殿下御時代御座所」という説明札まで付いていた。この模型そのものが戦前につくられたもので、「大正天皇が皇太子だった時代の(進水式に設けた)御座所」という意味なのだそうだ。
大きな会社だからということもあるが、IHIの合併沿革図をみると、1960年7月に播磨造船所(1907創業)と合併したことが大きかった。しかしそれだけでなく1964年名古屋造船(1941設立)、67年芝浦共同工業(1939設立)、68年呉造船所(1954設立 広海軍工廠の後継)など、全国各地の大手造船会社を合併していった。三菱系も三重工が合併し三菱重工業(64年)になるなど60年代の造船業界はM&Aの時代で、イギリスを抜き世界一の造船国(1956年以降)を継続した大きな要因だったようだ。
石川島重工業と播磨造船所が合併したときの土光敏夫(石川島)・六岡(むつおか)周三(播磨)両社長直筆のサインがある合併契約書(60年7月)が展示されていた。
そこから先は、6つの島のブロックに分け、「1853-1945 東京駅と運搬機械」、「1946-1968 出光丸と造船」「1969-1989 LNGタンクとエネルギープラント」「1990-1999 明石海峡大橋と橋梁・水門」「2000- ジェットエンジンの開発」「ロケットシステムと宇宙利用」と時代を区分し、その時期ごとの社会や産業のニーズとそれに対応するIHIの技と主要な貢献を示す映像と「もの」(実物や模型)で解説する構成になっている。
映像のなかに、子ども向けの「子ども研究所」という動画があった。
わたくしが見た「東京駅と運搬機械」の滑車は、滑車を使い、たとえば35キロもある冷蔵庫を4本のロープを使えば楽に吊り上げ、軽く運搬できるという実験を示すものだった。滑車は、クレーンだけでなく、井戸や跳ね橋にも利用される。大人もうまく説明はできないので、まさに「百聞は一見に如かず」で納得できた。なかなかのすぐれものの展示である。そしてこの原理を応用したクレーンが鉄の柱を組み上げ東京駅駅舎の躯体をつくり、外装を施し辰野金吾らが設計した赤レンガの東京駅が1914年に完成した。延べ床面積7725平方メートル、鉄骨使用量約3000トンの威容を誇った。東京駅の大きな模型が展示されていた。
同様に、20万トン級タンカー・出光丸(1966竣工)の4mもある大きな模型、マイナス 162℃の高熱量エネルギーLNGを蓄積する気密性の高いタンク、世界最長(全長3911m)の吊り橋・明石海峡大橋(1998供用開始)、V2500ターボファンエンジン(1988型式承認)などが展示されていた。
LNGタンクはマイナス162℃の液化天然ガスを保温する魔法びんのようなものだ。タンクというと球形や円筒形のものを思い浮かべるが、日本初の巨大LNGタンクは地上部(東京ガス根岸工場1969年)だけでなく地下部(同工場1970年)もあった。展示模型は地上、地下を半分ずつ組み合わせて表現したもので、地上部は高さ64m・内径79m、地下部は深さ50m・内径64mという巨大な想定で驚く。LNG(液化天然ガス)は気化すると都市ガスの原料になる。地上部の天井屋根は空気の力で持ち上げられているそうだ。原子炉圧力容器の継手溶接にもタンクづくりの技術が活かされている。
明石海峡大橋は、高さが海面上297mもあり重さ400トンの切削ブロックを30段も積み重ねて主塔を海上に建てた。精密さが要求された。
J3ターボジェットエンジンは、生産先行型は55年に開発を開始し59年に完成した。量産向けは63年航空自衛隊のT-1B中等練習機、その後海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機に搭載され、わが国初の量産(実用化)エンジンとなった。両機ともすでに役割を終えているが、1980年の生産終了までに247台出荷された。
さらに宇宙分野にも技術力が発揮された。古くは1953年にわずか23センチのペンシルロケットの開発を始め55年に発射が成功した。いまではイプシロンロケット(2013)やH-ⅡAロケットの液体水素ターボポンプを開発するに至っている。なお2005年と09年に宇宙を飛んだ宇宙飛行士・野口聡一さんはIHIでエンジン開発をする社員だったそうだ。
こうして陸・海・空そして宇宙へ利用分野が拡張した。
最後にこれらの技術発展系統を一覧できる「技術と叡智の166年。」という大きなボードが展示されていた。
「日本初の蒸気軍艦」から機関技術(ボイラ)、回転機械技術(タービンや圧縮機)、船体技術(そこから生まれた鉄橋や水門)、運搬技術(クレーン)を培い、ボイラから現在のバイオマス発電や原子炉圧力容器、タービンからジェットエンジンやターボファンエンジン、鉄橋から長大吊橋、クレーンからビル式自動倉庫やAI産業ロボットへ技術開発を展開したことが示してあった。もちろん直接軍艦のみから生じたものではなく、その後新たに始めたガスタンク(1955)からLNG地上タンク、ペンシルロケット(1955)からイプシロン、ポンプ(1896)からターボポンプ、ディーゼルエンジン(1919)からデュアルフューエルエンジンという新しい流れもある。しかしものづくりの系譜が「技術と叡智の166年。」というタイトルで示されていたのは圧巻だった。
重工業の会社なので、大量生産でなく単品生産がメインだったと考えられる。一品一品にこめられたものづくりへの思い、そこから生まれた技術の蓄積が「世界初」とか「世界一」の製品をつくり出した。日本が「ものづくり」で世界をリードしていた時代の足跡をたどるミュージアムがi-museである。
またこの博物館のある豊洲とIHIとの関係が解説されていた。
佃で創業したIHIは戦前の1939年新たな埋立地の豊洲に造船部門を移転した。戦後は造船ブームに乗り1956年に英国を抜き世界一の造船国になったが、その一翼を担うのがこの工場だった。やがて豊洲にも開発の波が押し寄せ1992年に地下鉄有楽町線豊洲駅近くの豊洲センタービルが竣工した。
2002年には豊洲工場も閉鎖し、再開発によりIHI本社、ビジネススクエア、高層マンションなどに変身した。かつてドッグがあった跡地は、2006年に三井不動産の商業施設「アーバンドック ららぽーと豊洲」として開業した。どうしてこんな海辺に長いビルがあるのかわからなかったが、納得した。
かつての工場跡地は、ららぽーとやスーパービバホームなどの商業施設、NTTデータや日本ユニシス本社が入居する高層オフィスビル、タワーマンション、芝浦工業大学、区立小中学校などに再開発された。
中央に低層のららぽーと豊洲、やや左奥に見えるのが本社が入る豊洲IHIビル
なお、佃は造船所が豊洲に移転したあと、クレーン製作、機械、鉄構物などをつくる工場となった。1979年に閉鎖され、トレンディドラマなどでみんなが知るリバーサイドシティに生まれ変わった。
「子ども研究所」という動画がよくできていたので、コロナ明けの展示再開後にもう一度見に行った。しかし残念なことに、タッチパネル式の動画なので休止中だった。そこで、受付の方に、ほかの実験にどんなものがあるのかお聞きした。船の浮力を調べるもの、橋の強さを、組体操との比較で理解させるもの、ロケットエンジンの原理をフィルム入れのプラスチックケースにドライアイスの煙を入れて実験するものなどがあるそうだ。先に「百聞は一見に如かず」と書いたが、「面白そう」だ。そのうちコロナが過ぎ去ればまた行って見てみたい。
さらに悪いことに、普通の展示の内容解説も音声でやっていて、それも休止していたため、大きな展示物をただながめるだけで、たとえばイプシロンロケットのことなど、もう一度説明を聞いてみたかったのだが、それもかなわず何も理解できなかった。
IHIには佃に石川島資料館という資料館がある。3-4年前に一度行った覚えがある。佃や月島がどういう順序で埋め立てられたが詳しい展示があったのと、この博物館と同じく、陸海空に展開するIHIの展示があったように思うが、あまりよく覚えていない。ここもI-muse以上に長く休館していたが再開しているので、行って見た。ところがこちらは1990年代くらいまでしか扱っておらず、新しい製品の説明はなかった。
豊洲公園には産業遺産遺構モニュメントとして、IHIの係留柱や錨が展示されている(右から係留柱、車輪、その奥に錨、黄色い錘(クレーン滑車のオモリ)、車輪(錘とともにベンチとして再利用)、遠くにクレーン(クレーンのみ、クレーンをモチーフにした新たな構造物))
☆IHIという会社は、もちろん社名はよく知っているが、あまり詳しくは知らなかった。ただこのブログでたびたび引用している「居酒屋礼賛」のブロガー・浜田信郎さんの勤務先ということは知っていた。船舶関係の仕事に従事という以上の情報はないが、横浜やブラジルに単身赴任されていたことや、かつて呉で勤務されていたことは知っていた。
ブログ記事をはじめて見たのは99年ごろだったと思うので、もう20年以上の愛読ブログになる。毎週日曜の記事更新を楽しみにしているが、今春からの新型コロナ禍で、紹介される店数が減ってしまった。この「ご時勢」で閉店・廃業する店も増えつつあり、神保町の「酔の助」や神田駅ガード下の「樽や」はわたしも行ったことがあるので残念だ。コロナ収束はまだ1年くらいかかるかもしれないが、ぜひ「平和」に呑める日々を心待ちにしたい。
生命維持や経済循環が重要であることは言わずもがなだ。ただ居酒屋などでの交遊など、社会関係の維持もまた社会のエッセンシャルであることも力説したい。
i-muse
住所:東京都江東区 豊洲3丁目1-1(豊洲IHIビル1階)
電話:03-6204-7032
開館日:月曜日~金曜日(年末年始、ゴールデンウィーク、夏季連休などを除く)
開館時間:9:30―17:30
入館料:無料
石川島資料館は東京都中央区佃1-11-8 ピアウエストスクエア1階 03-5548-2571
毎週水・土曜日10-12,13-17時のみ開館 入館料:無料
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
j3とv2500エンジンについてもう一度お調べ頂きたくお願いい申し上げます。。。