前に福澤諭吉記念慶應義塾史展示館の見学記を書いたが、早稲田にも早稲田大学歴史館という記念館があることを知り、見学した。早稲田大学の古い建物・1号館の1階にあった。
第1室は、建学の精神と担った人物を紹介する「久遠の理想」である。早稲田で慶応の福澤諭吉に当たるのは、大隈重信である。大隈は福澤より3歳年少、1838(天保9)年3月肥前・佐賀城下で生まれた。父は佐賀藩の砲術長の高級武士だったが、大隈が13歳のときに急死した。7歳から藩校で朱子学を学び、1856年ごろから佐賀藩の蘭学寮で蘭学、1862年長崎で宣教師チャニング・ウィリアムズ(立教大学を創設)や67年に宣教師フルベッキから英学を学んだ。
このあたりは下級武士の家に生まれ、朱子学、蘭学、英語の順に学んだ諭吉と同じ足取りだ。
明治維新を迎え、大隈は英国公使パークスとの交渉力が認められ、外国官副知事、69年に大蔵大輔、73年大蔵卿を務めた。新貨条例制定(1871)や版籍奉還(1869)への実務にも携わった。つまり新政府のエリート官僚である。(なお早稲田大学歴史館は、大隈のことをそれほど詳細に紹介していなかったので、ショップで150年史と並び販売されていた渡邉義浩「大隈重信と早稲田大学 」(早稲田大学出版部 2022.4初版)も参照して書く。ページ数は同書初版のページを示す)。この時期に伊藤博文、井上馨、山縣有朋、五代友厚、前島密らと親しくなる。
築地・大隈邸跡地にある新喜楽、大隈邸はこの20倍近い敷地だった
大隈は1869年綾子と結婚し、築地に5000坪の屋敷を政府から拝領し、30-50人もの客人が滞在したので築地梁山泊と呼ばれた。伊藤はすぐ隣の小さい屋敷に住み、井上は大隈邸の小屋を借りて住んでいた(p41)。梁山泊での自由な議論から新橋―横浜の鉄道敷設や電信敷設が生まれた。1869年の伊藤・大隈・井上の写真が展示されていた。まだ刀を携え、伊藤はチョンマゲに見えた。
芥川賞・直木賞の選考が行われる料亭・新喜楽が大隈邸跡地ということは知っていたが、5000坪というと新喜楽の敷地の20倍近くになり、築地4丁目の新大橋通から東側すべてということになる。とてつもない広さだ。
小野梓は、1874年にアメリカへの私費留学から戻り76年司法省に出仕し参議の大隈と知り合い目をかけられ会計検査院検査官になり、大隈のブレーンになった。また渋沢栄一も73年に退官するまで紙幣寮の頭などを務め直属の上司は井上馨だったが、その1ランクか2ランク上が大隈であり、パリから帰国し駿府で働く渋沢を、新政府の役人になるよう1869年に説得したのが大隈だった。
ところが1881年10月、いわゆる「明治十四年の変」で、大隈は伊藤博文はじめ薩長閥により政府から追放される。
渋沢栄一が主人公の2021年の大河ドラマ「青天を衝け」では、背景や理由は明かされなかったが、大隈は「国会の早期設置と政党内閣制」を求める意見書を出し伊藤らが急進的だと驚愕したことと、北海道官有物払下げ問題があるようだ。前掲書によれば伊藤、井上も立憲制と国会開設には賛成だったが、大隈の議員内閣制と1年後の選挙、2年後の議院開会の急進スケジュールに反対だったとある(p59-62)。
野に下った大隈は1882年4月立憲改進党を創設した。結党は矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅ら慶應義塾関係者の東洋議政派(三田会)、沼間守一ら都市民権派の嚶鳴社、小野梓を中心とする鴎渡会、河野敏鎌を中心とする修進会の4グループから成るが、鴎渡会と修進会は小さいグループだったと前掲書にある(p68)。大隈を総理(党首)とし、趣意書と規約は小野が起草した。
大隈を慕い雉子橋(飯田町)の大隈邸で議論を闘わせた鴎渡会は、高田早苗、天野為之、市島謙吉ら、まだ東京大学在籍の学生グループだった。
大隈の石膏像(1907小野惣次郎・作 複製)
半年後の10月21日早稲田に東京専門学校を開校した。後進を育成するためで、大隈らは「片手に政党、片手に学校」と言った。建学の理念は、外国の学問からの日本の学問の独立、政治権力からの学問の独立という二重の意味の「学問の独立」だった(p133-140)。
初期の学校の絵があったが、早稲田の名のとおり周囲は水田だった(解説によればみょうが畑もあったようだ)。かつては井伊掃部頭の別荘地、大隈庭園は松平讃岐守の下屋敷だった。
ただ大隈は初代校長ではなかった。立憲改進党のほうへ全力投球し、初代校長は娘婿の大隈英麿で20歳近く年下、盛岡藩主の次男でダートマス大学で天文学、プリンストン大学で数学を学んだ。政治経済学・法律学・理学の3学科が正規、選択制で英学があった。選択とは、邦語政治経済学以外に英語政治経済学を選択できるといった意味らしい。理学科は英麿の経歴を生かし設置されたが、学生が集まらず廃止(p75)された。開校時の学生は80人だった。講師は鴎渡会のメンバーが務めた。
2年後の84年7月第1回卒業式の日の集合写真があった。袖をまくり上げ肩を怒らせた壮士ポーズの学生がいるとのコメントが付いていた。たしかにいた。卒業生12人のその後の経歴は調べがついている。法律学8人のうち判事・弁護士が3人、母校講師、警察、新聞社など、政治経済学4人のうち2人が三重と兵庫の衆議院議員といった具合で、立身出世したようだ。
当初8年間の卒業生の出身地(ただし50人以上)のランキング表があった。東京169、新潟123,静岡・長野それぞれ100、埼玉82,千葉・岡山それぞれ69、福岡63,熊本60、50-53人が栃木、兵庫、三重、佐賀と続く。これをみると関東周辺が多いのは当然だが、西が多く(ただし中部・北陸・四国はない)北が少ない。
英麿は4年で退任し、2代校長は前島密(1887-90)、3代校長・鳩山和夫(1890-1907 鳩山一郎の父)、その間の1902年、東京専門学校は早稲田大学に名称を変更した。
1907年、重信は早稲田大学総長に就任した。1898年大隈が総理兼外相、板垣退助が内相の初の政党内閣・隈板内閣がわずか4カ月で崩壊したあと1900年憲政本党総理(党首のこと)を務めたが1907年に辞任したからだった。大隈は大学の要請に応じ、6800坪の学校敷地を寄贈し、1909年渋沢栄一が中心となり産業界から募金を集め私学で初めて理工科を開設した(p100)。
珍しいものでは、大隈の肉声レコードが残っていた。1915(大正4)年7月12回衆議院選挙のときの「憲政に於ける輿論の勢力」という演説の冒頭部分だ。
「帝国議会は解散されました。今将に旬日の後に選挙が行はれて、今全国は選挙の競争が盛んに起こつてをる時でありますんであります・・・」。70代後半という年齢のせいもあるのだろうが、意外に落ち着いた声だった。「青天を衝け」では「○○であーる!」が口癖だったが、そんなことはなかった。「全国は」が「ぜんこくーは」、「そのものは」が「そのものーは」と少し訛っていたり、「ありますんであります」の言い方がちょっと変かもしれないが・・・。右手を振り上げて演説する大隈の写真があったが矍鑠とした姿だった。選挙は大勝だったそうだ。
大隈は1921年風邪から腎臓炎と膀胱カタルを発症し翌年1月10日私邸で死去した、83歳の大往生だった。日比谷公園で国民葬が行われ市民30万人が参列した。
建学の父・大隈のほか、建学の母・小野梓と四尊(高田早苗、坪内逍遥、市島謙吉、天野為之)の紹介パネルがあった。
第2室は「進取の精神」、早稲田の特質や全国展開を示す。「教育・学修」「学術研究」(早稲田式テレビジョンやロボットなど理工系の成果など)、「グローバル化」「学生生活」(寮、食堂、奨学金制度など)、「文化・スポーツ」「校友会、稲門会」を紹介する。最後のところで、東京だけでなく、埼玉、大阪、佐賀など全国に広がる早稲田の系属校や関連施設の空撮中心の案内DVDが大型スクリーンに上映されていた。わたしには大学案内のパンフを展示スタイルにしたもののようにみえた。
歴史館のパンフ 54-55pより
第3室は「聳ゆる甍」、卒業生の活躍の紹介だ。これはすごかった。政治、実業、芸術、スポーツなどのジャンルに分け、たとえば政治では総理になったのは石橋湛山を筆頭に、竹下、海部、小渕、森、福田(康夫)、野田(佳彦)と続き現在の岸田文雄まで8人が同窓生だ。うち5人は雄弁会OBなので、やはり大した部である。
衆参議会議長も、衆議院で堤康次郎、河野洋平など6人、参議院で河野謙三、西岡武夫など3人を輩出している。
1936年粛軍演説を国会で行った斎藤隆夫から森繁久弥、筑紫哲也、寺山修司、山中毅、村上春樹、吉永小百合など各界の卒業生の紹介が続く。たしかにすごい人材の森だ。
これまで、文学、漫画、建築などのジャンルのテーマ展示が行われ、わたしがみたときは言論人だった。早稲田出身というと筑紫哲也、田原総一朗などが有名だが、ボーン上田賞受賞8人、新聞文化賞10人、日本記者クラブ賞5人など、朝日、毎日、読売、日経、サンケイなど新聞各社の多士済々を輩出した。
なお第1室の手前にエントリールームという奥行きの深く細長いスペースがある。左右に早稲田のエポックとなる19枚の写真ドキュメントが並ぶ。たとえば「野球部、日本初のアメリカ遠征」(1905)、図書館竣工(1925)、「世界初の本格的人間型知能ロボットWABOT-1開発」(1905)といった具合だ。
最後に企画展示ルームがあり、「年史が紡ぐ早稲田」が開催されていた。「百五十年史 第1巻」が昨年11月刊行されたからだ。A5判1500p以上あり、定価も2万円(+税)だ。なお創立150年は2032年なので、まだ10年先のことだ。第1巻が扱うのは1888年から1947年の60年間の時期だ。第2巻は1990年前後までを扱い27年3月発刊予定、第3巻は150周年まで扱い32年3月発刊予定とのこと。
歴史館は原則としてすべて撮影禁止だが、この企画展だけは例外で可能だった。
百年史も全8巻で1978-97年に発刊されている。その後40年ほどの間に新資料が発見されたり新たな研究成果が生かされた。たとえば早稲田は早くも1921年に女子学生を聴講生として受け入れ39年に学部の新規学生として入学を認め、その革新性は百年史に記載があるが短い記述しかなかった。1939年1月の主事会録の女子学生への門戸開放に関する田中総長のコメントという新資料やジェンダー研究の成果を生かし、意図と背景を女性史に位置付け、意義と限界を明らかにしたと解説があった。
わたしは慶應義塾史展示館のイメージで、中心は大隈重信の足跡の展示だと思って訪れた。たしかに創立は大隈で、69歳以降1922年に亡くなるまで15年総長を務めた。しかしこの展示では、それほど大隈と大学の関係を強く打ち出していなかった。
大隈はあくまでも政治家で、かつ「学問の独立」を主張しており、立憲改進党や憲政本党の色の付いた学校とみられたくなかったのだろう。福沢諭吉も言論人の側面があり、政治的主張もしたが、軸は教育に置いており立ち位置が違うということだろう。
博物館としてみると、わたしには慶應義塾史展示館のほうが充実しているようにみえた。しかし「聳ゆる甍」にみられるように卒業生の活躍はすごい。おそらく慶応も同じように署名な卒業生が各分野で活躍していると思うが、展示の力点が異なるのだろう。
早稲田には、戸山キャンパスに早稲田スポーツミュージアムがある。早稲田の野球、サッカー、ラグビーが強いことは知っていたが、たとえばフィギュアスケートで、八木沼純子、村主章枝、荒川静香、羽生結弦らオリンピック選手、陸上で織田幹雄、南部忠平、西田修平、水泳で山中毅、瀬戸大也、体操の加藤武司、スキーの荻原健司などアマチュアのトップクラス、オリンピックのメダル受賞者が煌めくばかりだ。
早稲田大学歴史館
住所 東京都新宿区西早稲田1-6-1 早稲田大学 早稲田キャンパス1号館1階
開館 10~17時
休館日 毎週水曜日ほか(ウェブサイトで確認)入館料 無料
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。