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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

横尾忠則「ワーイ!★Y字路」展をみて、思う

2024年03月19日 | 美術展・コンサート

神戸の横尾忠則現代美術館「横尾忠則 ワーイ!★Y字路」展をみた。わたしは2015年に「続・Y字路」展をみているし、他の横尾の展覧会でもたいてい1、2点はY字路の作品が展示されるので、もういいかとも思ったが、10周年記念展をみてキュレーターによる「演出」の違い(後述)があることがわかったので、見に行くことにした。

横尾のY字路シリーズは、2000年から始まった。以下、1階ロビーで放映されていたギャラリートークと会場内の解説表示による。

Y字路シリーズ作成のきっかけは、横尾の故郷・西脇の岡之山美術館で個展を開催することになり、展示作品は西脇で描くことにしたことにある。東京と違い、西脇なら本当の闇が残っているのではないかと、インスタントカメラをもち昔、横尾の通学路だった椿坂でストロボを焚いて撮ると、印象的な絵が撮れた。真ん中の家は明るいが、左右の道は暗闇に沈む。これは面白いと写真の模写を始めた。これが第1作「N市1」だ。
以降、繰り返し150点ほどY字路が描かれたが、今回の特別展は、2000-2005年の最初期および2016-2019年の比較的最近の作品で構成されている。構図というかモチーフはY字路で一貫しているが、いろんな面で進化があったそうだ。
まず第1作誕生の経緯から、しばらくの年月モノクロで描かれた。しかし2002年東京都現代美術館で開催された「横尾忠則 森羅万象」展で開放的な色彩を使うようになり、また自分のストロボ写真だけでなく他人が撮影したものも使うようになった。
タイトルも当初はブラックホールだったが、「暗夜光路」に統一することにした。

暗夜光路 光と闇の帝国
また当初は、基本的に風景画だったが、「メランコリー(2003)でうつむいてトボトボ歩く後ろ姿の男性が描きこまれる。
また風景も、西脇だけでなく、横尾が旅した舞鶴など全国各地、さらに海外の風景も扱われるようになる。
Y字路なので、道が左右に分かれる分岐点、「右を選ぶか左を選ぶか重大な選択を迫られるような感じがする」との解説があった。図像としては、「本来まったく別々のところの写真をもってきて、それがあたかも1枚の闇に共存しているように描かれることで、何か不思議な空間のねじれのようなものが生まれる、それがひとつのポイント」との解説もあった。たとえば右半分は赤い闇、左半分は昼間の「暗夜光路 光と闇の帝国(2001)、正面の建物や周囲は東京だが、左の坂下はローマの街のような「TとRの交差(2002)が「ねじれ」である。どんどん横尾のアレンジが加わり、最近の2018年ころになると「非現実に振り切れてしまった」作品ばかりになる。

キリコとユトリロとマグリットの3枚の絵の模写があった。2001年品川の原美術館で個展が開催され、これらの作品をイーゼルに架け、「あたかもマグリットがさっきまでここで絵を描いていたのかな」という感じで展示されたそうだ。今回は、「横尾さんのアイディアでY字型」に並べた展示をしているそうだ。わたしは、とくにマグリットが本物そっくりにみえた。横尾に限らず、好きな絵の「模写」が重要ということだろうか。
ほかにも、仮設の壁は既存の壁に対し90度直角に出すのが基本形だが、今回の展示ではあえて15度傾け鋭角になっている部分があるそうだ。「Y字路という作品がもつ何か別の空間同士がぶつかり空間がねじれているような感じを表現できれば」との意図だったそうだ。これはギャラリートークを聞いて初めて知った。潜在的にはそのように誘導されていたのかもしれない。
またいつもは普通に、下のフロアから順番にみるのだが、今回はまず4階にエレベータで上がり、小さな部屋からみる順路になっていた。小部屋には驚くことに横尾の作品ではなく、ダリやキリコ、、マン・レイ、さらに作者・題名不詳の絵(2点)まであり、共通点を探ると風景画という点、この部屋の展示作品は横尾自身の個人コレクションなのだそうだ。「作者・題名不詳」の作品プレートでハッと気づきその部屋の案内員の方に聞いて、はじめてわかった。このコレクションをみたときは、よほど横尾がダリやキリコを好きなんだと思っただけだったが、キリコの模写をみて、画家のコレクションは単に作品が好きというレベルを超えるものがあると思った。

右はスタッフ作成の「泣き笑いすごろく」
こうした展示の「演出」に気づいたのは、じつはちょうど1年前の10周年記念展「満満腹腹満腹」をみたからだ。変わったタイトルだが、横尾作品の「反復」をモチーフにした記念すべき第1回展「反反復復反復」のもじりだそうだ。
この美術館は開設10年間で31回展覧会を開催した。その10年史というか30回史という構成だった。わたしも31回のうち5回ほど来ているはずだ。この展覧会も「ワーイ!★Y字路」展と同じく担当は館長補佐・山本淳夫さんだった。「担当」という職名で呼ばれていたが、山本さんのほか、平林恵、小野尚子、服部正、林優など5人くらいの実名が出ていた。
美術館・博物館に学芸員という専門職員が所属していることは知っていたが、それまで展覧会の企画・プロデュースもするとは知らなかった。キュレーターというカタカナ職業名は聞いたことはあったが、まさにそういう職種だそうだ。そしてたしかにキュレーターの個性や能力で、異なる展覧会ができあがることもわかった。芝居でいえば演出、映画なら監督だろうか。それ以来、美術展をみるときに、キュレーターの存在を意識するようになった。
もうひとつ「満満腹腹満腹」展で気づいたことがあった。横尾は、高校卒業後、1年余り印刷会社で働いたあと、神戸新聞社、ナショナル宣伝研究社、日本デザインセンター(NDC)で社員としてグラフィックデザインの仕事に従事、1964年に独立、80年ニューヨークでピカソ展をみて「画家宣言」をする。
その間のグラフィックデザイナーとしての体験・経歴が、その後の美術家・芸術家としての核のひとつになっていると思った。以前から状況劇場の「腰巻きお仙」のポスターなどでそう思っていたが、この展覧会の「越後鶴亀 紀元 2000年(上原酒造 1998)や「ONCE UPON A TIME(パルコ 1996)などをみて、その思いを強くした。
劇作家の井上ひさしも放送局の仕事をずいぶんしていたし、作曲家の武満徹や池辺晋一郎も映画や放送音楽の仕事をたくさんしていた。コマーシャル分野の活動は生活費を稼ぐというだけでなく、社会とのつながりという点でも現代の芸術家にとって「意義」があると思う。

話が飛ぶが、国立映画アーカイブで「和田誠 映画の仕事」展をみた。和田はNDCと同じくらい有名なライトパブリシティでイラストやデザインの仕事をした。この展覧会は映画アーカイブでやるのだから当然映画にスポットを当て、日活名画座などの映画ポスター、「お楽しみはこれからだ」「キネマ旬報」など映画関係の雑誌・書籍の仕事、「麻雀放浪記」など監督としての作品、和田の個人所蔵のアメリカ映画のポスター・映画フィルムのコレクション紹介などの展示だった。
調べてわかったが、横尾は1936年6月生まれ、和田は同じ36年4月生まれと同じ学年だ。
横尾は幼いころから講談社の絵本や「宮本武蔵」巌流島の決闘の模写をしていたという。和田は小学生のころから級友や先生の似顔絵を描き人気者だった。
横尾は神戸新聞時代の1958年日宣美奨励賞受賞、和田は1957年学生なのに「夜のマルグリット」のポスターで日宣美賞受賞
和田は多摩美出身なので社会人になった時期は違うが、和田のライトパブリシティ入社が1959年、横尾が上京したのは1960年なので、東京での活躍は似たような時期だ。
和田と横尾を結ぶ人物がいる。カメラマン篠山紀信(1940年12月 - 2024年1月)だ。篠山はライパブで和田の2年後輩、写真部と美術部で部は違うが面白そうなやつだと和田が「飲みに行こう」と声をかけると喜んでつきあってくれた。それ以来、「シノ」と呼びずっと友人だった、とある(「銀座界隈ドキドキの日々」文藝春秋 1993)。一方、篠山は、横尾と横尾にとって「アイドル的な人々」との2ショットを10年近く撮り続け、「記憶の遠近術 ――篠山紀信、横尾忠則を撮る(講談社 1992)が発刊された。横尾忠則現代美術館でも2014年に「記憶の遠近術」展を開催した。1968年の第1回撮影は三島由紀夫と横尾、以降唐十郎、大島渚、鶴田浩二、川上哲治、浅丘ルリ子、ジョン・レノン、瀬戸内寂聴など錚々たる人物とのポートレートが並んだ。
古い言葉では大衆文化だが、20世紀のテレビ・映画時代以降の芸術はコマーシャリズムと切り離せず、その代表例がアンディ・ウォーホルのキャンベル缶だが、日本では横尾忠則が代表の1人といえる、と思う。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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