多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

カタルーニャ――2つの美術館、街、暮らし

2023年11月23日 | 美術展など

ミラノに続き、バルセロナを訪れた。間にフランスを挟むものの飛行機で1時間半ほどと距離は近い。バルセロナはカタルーニャの州都である。
バルセロナは国としてはスペインだが、カタルーニャはスペイン語よりフランス語やイタリア語に近いカタルーニャ語を母語とする自治州だ。フランコ政権時代(1939-1975)にはカタルーニャ語の公的使用が禁じられた。自治憲章をもち、スペインからの独立運動も盛んな地域だ。
画家のパブロ・ピカソやサルバドール・ダリ、チェリストのパウ・カザルスの出身地でもある。芸術家という点では、サルバドール・ダリといっしょに「アンダルシアの犬(1928)をつくった映画監督ルイス・ブニュエルもカタルーニャ出身かと思っていたが、これは誤解で隣のアラゴン出身だった。
またオーウェルがスペイン市民戦争の従軍記「カタロニア讃歌」(1938)を書いているので、カタルーニャとはいったいどんなところなのか20代のころから関心があった。
 
ピカソ美術館へ行った。たまたま特別展ミロ・ピカソの開催中だった。
ピカソが生まれたのはマラガだが1895年14歳のときバルセロナに家族で引っ越し、1904年にパリに出るまで過ごした。ピカソといえど修業時代はあった。それがバルセロナだった。
たまたま「ミロ―ピカソ展」(2023.10-24.2)を開催中だった。ジョアン・ミロ(1893-1983)パブロ・ピカソ(1881-1973)は、1917年バルセロナで出会って以来50年以上にわたって家族ぐるみの親密な友情を保った。
ミロはバルセロナ生まれでピカソと同じく1912年マドリードの美術学校で学ぶ。1924年パリに旅し、帰国前夜、ピカソが舞台美術や衣装を担当したバレエ「メルキュール(作曲:エリック・サティ)を見て感動した。
24年ミロはブルトンと知り合いシュルレアリスムの絵を描くようになる。また1930年代以降、2人は文学と美術の共同を指向し詩集などの挿絵を描いた。ピカソはポール・エリュアールの詩「連帯」の挿絵を描き、ミロはエリュアールとの詩画集やアルフレッド・ジャリの「ユビュ王」にモチーフを得た作品を描いた。
スペイン市民戦争、そして第二次世界大戦勃発と1940年ヴィシー政権成立を機にミロはカタルーニャに帰国し、一方ピカソはパリに残留した。
大戦後、陶器の壺や皿に絵を施す陶画を2人とも始めた。その後2人は芸術家として世界的に高名を馳せ80歳を超えても元気で、ピカソは大きな展覧会を1970年と73年に開き、ミロは74年にパリで展覧会を開いた。
このように2人はさまざまな共通点、共通した芸術活動があった。
この特別展の会場は2階だった。ミロ美術館は町の南西・モンジュイック地区にあるが、この特別展でミロのいい作品をたくさん見られたので行かずにすませた。この特別展でミロの「逃げる少女」(1967)、ピカソの「ベビーカーを押す女」(1950)という立体の珍しい作品をみることもできた。
2階だけでもかなり見ごたえがあったが、その先があった。
1階ではピカソの常設展を開催していた。この美術館はピカソの10代から20代初頭の青の時代初期まで、すなわちバルセロナに住んでいた時期と、パリに行ったものの、たびたび里帰りしていたため郷里との関係が深かった時期のコレクションで有名だ。

「科学と慈愛」(1897)は16歳のときの作、タテ2m×ヨコ2.5mの大作で完成度も高かった。ピカソがこんな写実的な作品を描いていたとは信じられないが、だれにも修業時代はある。ちなみにこの作はマドリードで開かれた国立美術展で入選した。そして首都マドリードの美術アカデミーに入学したが満足しなかった。その他、14歳の「ベレー帽の男」(1895)、15歳のときの作品「初聖体拝受」も見事な写実の出来映えだった。
99年バルセロナに戻ったとき「クアトロ・ガッツ」というカフェで画家ラモン・カサス、サンティアゴ・ルシニョールらバルセロナの「前衛」たちに出会い、影響を受ける。「マラガの山」(1896)、クアトロ・ガッツに顔を出し始めたころの「座るジャウメ・サバルテス」(1900)、青の時代初期の「女性ヌード」(1903)も展示されていた。
あのピカソがこんな画風の作品を描いていたと驚くような写実的な絵、ピカソがピカソになる過渡期の作品があり、知らなかった側面をかいまみられた。

次にダリ劇場美術館に行った。フィゲラスというバルセロナから北東に80㎞、新幹線で1時間、快速で2時間の距離の街にある。サルバドール・ダリ(1904-89)の生まれ故郷である。ダリは17歳のときマドリードの美術学校に入学したが、下宿した「学生の家」でガルシア・ロルカルイス・ブニュエルと親しくなった。1929年夏、ポール・エリュアールの妻ガラを知り、2人は恋に落ち結婚した。ただブニュエルとの関係は疎遠になり、2作目の「黄金時代」も共同制作となっているが、実際にはダリはほとんど関与していないそうだ。
美術館には、ガラをモデルにした絵や浮遊する球体、引き出しのついた「ミロのヴィーナス」など、いかにもダリらしい作品がいくつかあった。
それより、元は市立劇場だったこの建物を活かした立体的な作品に驚かされた。

教会の天井画のような絵なのだが、人を下から見上げた構図の巨大な足の裏が天井に描かれていたり、赤い口紅を塗った女性の口のかたちのソファの奥に巨大な鼻の穴が置かれている部屋(女優メイ・ウェストの部屋)があったり、3階くらいの高さの壁に下からギリシャ・ローマの学者のような座像、イカの足、一番上にサイの頭部のあるインスタレーションの作品、人より大きい貼り絵コラージュの顔がある階段、という具合だ。
最後のほうに「ダリ――ポル・リガット(ダリとガラが暮らした港町)のキリスト」というコーナーがあった。解説文も読めないし意味はわからなかったが、ダリは案外「倫理」にこだわりのある人間だったのかもしれない。
「驚く」ような仕掛けやシーンがたくさんある館(やかた)だった。こんなところに家族旅行や小学生の団体で来て子どもに見せてだいじょうぶかと思ったが、考えるとわたくしがダリ展をみて強い印象を受けたのも小学校高学年だったので、「これでよい」のだと思った。
2つの美術館見学の共通点として「驚き」があったのは確かだ。
ほかにもうひとつ共通点があった。どちらもオンライン予約が原則になっていたことだ。ピカソ美術館は10時オープンなので20分ほど前にいってみた。確かに10時に受付を始めたが、チケットをもっていないわたしは10時45分入場のグループに回された。その程度なら待てるが、ダリのほうは悲惨だった。新幹線を使い駅からバスに乗って美術館には開館15分後に到着したのだが、列に並んでチケットを購入できたのが11時半ころ、入場指定時間はなんと16時45分だった。受付の人も気の毒そうな目をしていた。
ピカソのほうは、クアトロ・ガッツの場所確認に下見に行き時間を潰したが、ダリのほうは5時間待ちではなんともならない。駅まで往復40分歩いたり、カフェに入ったりしたものの途中で小雨が降ってきたり大変だった。美術館の前でおそらくフランスからの中学生グループから、わたしに腕時計の時間を教えてほしいといわれたりした。美術館近くのかなり細かい路地も覚えてしまった。
そしてダリのほうは18時グローズドなので、ミュージアム・ショップを落ち着いてながめる余裕はなかった。その後電車を乗り違えたせいもあるが、帰宅したのは23時すぎになってしまった。
あまり混雑させないため、見学者数を調整する方法なのだろうが、日本とはオンライン化の進展がずいぶん違った
コンサート、美術館だけでなく、おそらくガウディの建築作品や教会など観光スポットも同じようだった。せっかくバルセロナに来たのだからサグラダ・ファミリアを見ておこうと行ってみた。一度目は15時前後に行き当日券は売切れといわれたので、二度目は開館時刻の9時ころ行ったが、今日の分は売切れ、明日の分はオンラインでといわれ、結局外観をながめただけで終わった。
ただガウディ作の建物でもグエル別邸は、祝日の朝一番だったせいもあるが、観客は2-3人しかいなかった。
ウルキナオナという駅の近くに泊まったが、周辺1-2㎞に凱旋門、ピカソ美術館、リセウ大劇場、カタルーニャ音楽堂、などがあり結構歩き回った。

サンタ・カタリーナ市場の精肉店
サンタ・カタリーナ市場とサン・ジュセップ市場という2つの市場があったが対照的だった。サンタ・カタリーナは建物はデザイン的でモダンだが、店は昔ながらで地元の人がたくさん訪れる庶民的な市場、肉が上から吊るしてある光景は50年近く前にみた那覇の牧志公設市場を思い出させた。一方サン・ジュセップの客は観光客が主で、築地の場外市場を思い出させた。どちらも、1時間くらいいても見飽きることがなかった。
バルセロナ最後の日の午前にサン・ジュセップ市場を訪れた。本当はタパス料理を食べたかったが、観光客が多くいかにもスリが暗躍していそうなので落ち着かず、我慢して焼きそばを食べ、もう一軒の店でフルーツを食べるだけにした。おいしかったが、どうしてバルセロナまで来て自分はお祭りの屋台の焼きそばのようなものを食べているのだろうと思った。

カタルーニャ広場のデパート最上階レストランからみたバルセロナ市街
バルセロナは基本的には観光の町だった。周りに丘陵があり古い家が立ち並ぶ点は京都と似ている。ホテル以外は、1階は店だが2-5階は普通の勤め人家族が住んでいる住宅が多いようだった。
宿泊したペンションも築100年以上の5階建て建物の4階東半分にあった。エレベータの二重扉の外側の鉄製ドアは、銀座奧野ビルなどと同じく人の手で開けるもので感動ものだった。経営者は仙台出身で脱サラでここをオープンし、10年以上になるとのこと。幼稚園の子がいる一家で大きな犬がいた。日本語でやりとりできるので大変助かった。
バルセロナは、平日午前でもなぜか歩道をジョギングしている人、犬を連れて散歩している人、車いすを押している人、車道・歩道とははっきり区分された自転車専用道を走っているサイクリストなど地元の普通の人たちを見かけ、生活が想像できるようだった。大小のスーパーにも何度も入った。ドイツほど、チーズ、ソーセージはおいしく感じなかったが、パンやジュースがおいしかった

記念に入ったクアトロ・ガッツは1903年に閉店したが1981年に復活オープンしたカフェ兼レストランだ。店内の「二人乗り自転車に乗るラモン・カザスとペレ・ロメウ」(ラモン・カザス 1897)」の絵は当時のものの復元だそうだ。この店で「それでも恋するバルセロナ(ウディ・アレン 2008アスミック・エース)のロケ地になったそうだ。

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