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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

横浜散策 中区の博物館巡り

2011年10月03日 | 博物館など
台風一過で本当の秋晴れになり、気温は急に低くなった。暑さ寒さも彼岸までというが、まったくそのとおりだ。
横浜市中区には、横浜山手・テニス発祥記念館、シルク博物館など19もの博物館がある。そのうち3館を訪ねた。
まず根岸線山手の駅からどんどん丘を上がり、頂上の根岸森林公園の一角にある馬の博物館を訪れた。緑が広がる公園は丘陵地なので傾斜が多い。名古屋市郊外の愛知県森林公園と似た風景だ。この場所には1867年から1942年まで日本初の競馬場があった。1859年の横浜開港でアメリカ人やイギリス人が居留地に住み始め、やがて練兵場(現在の諏訪町)や射撃場(現在の山手駅)で競馬が始まった。そして66年12月この丘の上に競馬場が建設された。1周1600m、現在の森林公園の外周がコースで、アップダウンの激しい難しいコースだった。天皇賞(当初はMikado's vase race、その後、帝室御賞典)も1880年にここで始まった。1908(明治41)年5月の競馬場の写真が展示されていた。全員洋装、女性は花飾りのついた帽子で日傘を差していて、日本の風景にはみえない。いわゆる社交の場だったようだ。

遠野から移築した曲屋
地下で、特別展「神田日勝 北の大地から――馬と歩んだ画業」を開催していた。神田日勝は1937年12月東京・練馬生まれ。練馬駅の北東200mくらいのところで開進2小に入学した直後に北海道鹿追町に転居し、高校生のころから油絵を描いた。酪農のかたわら64年に独立展に入選、70年8月敗血症で急逝、享年32。馬、静物、風景など、しっかりした絵が並んでいた。
この日は特別展開催で半分ほどしか見られなかったが、通常は、馬の歴史や人間と馬の暮らし・文化に関する多くの展示があるようだ。たとえば岩手県遠野市より曲屋が移築されていた。
森林公園でジョギングをしている人を多数みかけた。一方ポニーは歩いているので、ここは人が走り馬が歩く公園だった。

次に2駅移動し、関内の駅から横浜球場を回り込み、みなとみらい線日本大通り駅に接する日本新聞博物館へ向かった。この付近は開港時に幕府の役人が居住していた地だそうだ。
導入部で15分の映画が上映される。新聞の歴史を、古代ローマ時代のカエサルの「アクタ・セナトゥス」から説き起こす。言論の自由を求める闘い、イエロー・ペーパーの隆盛を経て、新聞倫理綱領制定(1946年7月23日)のように業界内の自主規制が重要という結論になっていた。それはそのとおりなので、新聞労連が97年に制定した「新聞人の良心宣言」のようなものが一日も早く成立することを願う。
展示は、新聞の発生期(1850-1900)、近代新聞の成立期(1901-1930)、戦時統制期(1931-45)、日本の民主化と新聞(1945-1960)、新聞の高度成長期(1961-1979)、多メディア時代の新聞(1980-2000)の6期に分かれている。そのなかで1875年ごろから1930年ごろが興味深かったのでその時期を中心に紹介する。
展示物は、新聞記事や報道写真が中心で、新聞広告、大小の活字や組版など新聞製作の道具、新聞売りが着た半纏などもあった。たしかに展示物1点1点に説明は付いているが、数が多すぎて「流れ」や「脈絡」を捉えるのはむずかしい。図録をみてはじめて理解できたこともある。
日本の日刊新聞のはじまりは1871(明治3)年の横浜日日新聞である。そのわずか4年後、政府は民権論や征韓論の高まりをみて、名誉毀損法である讒謗律と新聞紙条例を制定した。これに対し新聞は猛烈に批判し、朝野新聞の成島柳北は禁獄28日、郵便報知新聞の植木枝盛は2ヵ月の刑で収監された。
1900年ごろには新聞社間の論戦が盛んになった。たとえば日露関係が悪化し、東京日日・毎日・二六新報は非戦論、東京朝日、大阪毎日、時事新報は開戦論の立場に分かれた。堺利彦幸徳秋水内村鑑三らも非戦論で論陣を張った。日露講和の日比谷焼き打ち事件は有名だが、徳富蘇峰の国民新聞社も焼き打ちにあった。
大正期には桂太郎内閣や山本権兵衛内閣が世論(新聞)の勢いで退陣した。逆にシベリア出兵や米騒動を批判した大阪朝日は1918年の白虹筆禍事件で新聞紙法違反で起訴され、社長の村山龍平、鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長らが退社を余儀なくされた。
このころ、神近一子(東京日日)、市川房江(名古屋)、磯村春子(報知)、羽仁もと子(報知)など女性記者の活躍が始まった。
1925年には普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が成立した。これに対し東京日日は「生まれ出づる悪法案、遂に衆院を通過す」と大見出しの記事を掲載した。現在の4大紙以上の見識の高さを感じる。
昭和の初期になると経済恐慌と社会不安のなか、井上準之助、団琢磨が連続射殺される血盟団事件が起こった。報道機関でも時事新報の武藤山治社長が1934年に鎌倉で射殺され、読売の正力松太郎社長が日米野球を行い神域を汚したと35年に本社前で首を切られ重傷を負った。そして爆弾三勇士(1932)など戦意高揚の記事が増え、新聞小説でも朝日は林芙美子の「戦線」(1938)、東京日日は火野葦平の「海と兵隊」(1939?)を「戦争文学の最高峰」として売り出す時代に向かう。

このように日本でもジャーナリズムと政府(権力)とのあいだには厳しい緊張関係があった。たしかに現代でも87年の赤報隊のようなテロや朝日への「主権回復を目指す会」の抗議活動はあるが、いまや朝日、毎日、読売、日経の大手4紙、(さらに新聞ではないが)NHKの5つは政治部を中心に、自民・公明・日本経団連の機関紙のような紙面づくりを続けている。かつては政府や社会の構造がいまほど複雑ではなくシンプルだったという事情もあるだろうが、四大紙のデスクは「ジャーナリズム」の存在意義についてもういちど考えてほしいと思う。東京新聞や沖縄タイムス、琉球新報など地方紙を評価するのはわたくしだけではないようだ。
またこの博物館は2000年にできたので仕方がないが、新聞を自宅で定期購読しない人が増え、それどころか新聞を読まずヤフーニュースで間に合わせる若者が増えている現状と将来をどう考えるのか危機感がまったく感じられなかった。
博物館の片隅に紺色のファイルが何冊かあった。新聞協会賞受賞記録である。1957年に始まり第1回は親さがし運動、「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」などだった。今年は、大相撲八百長問題、東日本大震災の一連の報道などである。54回分ざっとながめれば何か発見があるかもしれない。

日本新聞博物館と同じ横浜情報文化センターの8階に財団法人放送番組センターが運営する放送ライブラリーがある。NHKの放送博物館と似ているが、NHKのほうはNHKの番組しかない。こちらは民放の番組やCMもある。プレイバックシアターというコーナーがあり1950年代から2000年までの報道やCM、番組を流していた。たとえば50年代では第五福竜丸、プロレス中継、「ジェスチャー」、セイコーの時計のCM、「光子の窓」、60年代では、東京オリンピック、文明堂のカステラ、「てなもんや三度笠」「巨人の星」である。報道の部分はNHKと変わらないが、CMや民放番組があったほうが「あの時代」を思い出しやすい。しかしそれもせいぜい1980年代までのことだ。わたしの生活に民放はほとんどかかわりなくなってしまった。

☆この日の最後に、野毛の焼き鳥屋末広に立ち寄った。福田フライから50mくらい南にある有名店だ。たいていいっぱいなのだが幸い1人だけ席があいていた。
レバ、タン、砂肝 ナンコツなどメインメニューは2本ずつの注文、それも肉が大きく6本食べるとお腹いっぱいになった。燗酒は“おおダヌキ”とか“こダヌキ”という名で、タヌキの形の陶器で出てくる。店を出ると5―6人若い男女のグループが並んでいた。

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