山形県米沢から米坂線で30分(16㎞)ほど先に羽前小松という駅がある。この地は劇作家・小説家の井上ひさしが生まれ、中学3年になる春まで暮らしたところだ。
駅東口から北東400mくらいのところに遅筆堂文庫がある。文庫は川西町フレンドリープラザという3階建て、延べ床面積4600平方mのかなり大きな施設の中にある。建物東側の1階が遅筆堂文庫で井上の蔵書が並び2階が町立図書館、西側に717席の劇場がある。劇場ではこまつ座の芝居も出張公演される。井上も最後列の座席で自分の芝居をみていたそうだ。
井上は1934年11月生まれ、2010年に75歳で亡くなった。遅筆堂文庫は井上が52歳のとき、蔵書7万冊を川西町に寄贈して1987年にオープンした。フレンドリープラザが94年に新設され移設、井上が亡くなった2010年井上ひさし展示室が開設され、さらに2023年4月に書斎が復原された。当初7万冊で始まった保管書籍は、その後も井上家からの寄贈が続き22万冊の蔵書になっている。
遅筆堂文庫の入り口に、井上が自筆で原稿用紙に書いた「遅筆堂文庫堂則」を拡大したものが貼られている。
「遅筆堂文庫は置賜盆地の中心にあり、置賜盆地はまた地球の中心に位す。我等はこの地球の中心より、人類の遺産であり先人の智恵の結晶でもある萬巻の書物を介して、宇宙の森羅万象を観察し、人情の機微を察知し、あげて個人の自由の確立と共同体の充実と二兎を追わんとす」で始まる320字の宣言がある。格調高い文である。
遅筆堂文庫に入り、まず目に入るのが「本の樹」だ。5-6mある大きな木のような木製柱の外周は13段もあるラックになっていて井上の著作が展示されている。残念ながら館内の撮影はできない。
なんといってもすごいのは、昨年開設された井上の書斎の復原だ。
井上はユリさんと再婚し、1989年鎌倉に家を新築した。石川県で解体された旧家の構造材の一部を使った家だ。2階に14畳(約23平方m)の書斎をつくった。そのうち机周りの8畳(約13平方m)が再現された。
机の上の正面には愛用ワープロ文豪(NEC)が置かれている。普通ならこれで執筆したと思ってしまうが、井上は特製原稿用紙にもっぱらペンで書いた。ワープロは、順番の入替などが自由にできるので、プロット作成などに使ったのではないかとのこと。ただ案内チラシによると安倍公房に勧められて使い始め、「ある八重子物語」(1992.3)が初めてワープロで書いた作品、とあるので後半の18年はワープロも使ったのではないかと思われる。
このワープロはインターネットやメールの送受信もできる機能を備えているが、インターネットは主義として使わなかったそうだ。机上右側にはきれいに削った赤鉛筆が数十本、左側にはかなり大きい灰皿がある。
スタッフの人と一緒だったからだと思うが、井上が使った椅子に座り、左右の引出しを開けさせてもらえた。原稿用紙などが整然と収められていた。文字と同様、基本的に几帳面な人だったのだろう。井上本人が使った赤鉛筆を握ることもできた。
なんといっても、興味深いのは周囲の蔵書だ。配置順も変えず、そっくりそのまま並べたそうだ。机前方の6段くらいの木製本棚には国語辞典など辞書類が並ぶ。左手は窓だが、3段くらいの低めの本棚があり嵌め込み式のミニサイズのステレオ・コンポもあった。
背面にも書棚がある。スパイ大事典、複雑系の事典 果実の事典などマニアックなものも含め辞書・事典が多いが、講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズが10冊ほど並んでいた。アドルノ、デリダのほか中岡成文「ハーバーマス:コミュニケーション行為」があるのに注目した。その近くには「ハーバーマスとアメリカ・フランクフルト学派」(マーティン・ジェイ編 1997.10 青木書店)もあり、かなり驚いた。
なお前面の本棚との間に1m弱の空間があり、床にムートンのようなものと寝袋が置かれていた。ソファベッドとして使われたそうだ。この空間で仮眠を取っていたのだろう。
作家の書斎は、たとえば石神井で檀一雄、入谷で池波正太郎のものを見たことがあったが、ここは直接手に触れたり間近で見ることができ、臨場感のレベルが違った。
書斎の写真は、このサイトをクリックすれば、引出しを開いた光景まで見られる。
辞書は、書斎だけでなく遅筆堂文庫の本棚にもたくさんある。岩波の広辞苑は6版まで、複数冊所蔵のものもあるので8冊並んでいた。文芸年鑑(新潮社)もかなり長期間の分があった。
なお文庫の入り口スペースで企画展「吉里吉里忌2025によせて」を開催していた。井上が20代のころ、浅草フランス座でストリップの幕間のコントの台本作者をしていたことは知っていたが、三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗のてんぷくトリオの座付き作者であったことは知らなかった。150本以上の数があったという。それは「井上ひさしコント集」にまとめられている(「てんぷくトリオのコント」を改題)。今年は4月に伊東へのビデオ・インタビュー「てんぷくトリオ時代の井上さんの思い出」のほか、赤川次郎と山口昭男(井上ひさし研究会会長、編集者・評論家、元岩波書店社長)の対談「物語を書き続けて――いま戦後80年に想う」が行われた。
企画展以外の時期には、井上ひさし展示室という生涯と作品を紹介するコーナーになっているそうだ。
小説や戯曲以外に、井上は放送作家として「ひょっこりひょうたん島」(1964-69)は有名だが、「ひみつのアッコちゃん」(1969)、「ムーミン」(1969)もつくった。だから今も歌われている「アッコちゃん」の主題歌の作詞までしている。
ウィキペディアに掲載されているものだけ数えても、井上の著作は、小説が52冊、戯曲が60本、随筆が53冊と多作である。小説、戯曲、テレビ・ラジオの多彩な活動のバックにはこの文庫にある22万冊の書籍・雑誌があり、そこから得た膨大な知識やデータに裏打ちされていることが実感として理解できた。
司書の方に、井上が川西のことを書いた作品や町内の地理などを教えていただき、屋外に出た。あいにく曇天で小雨の日だった。
駅西口から長井街道を300mほど北に歩いたところに井上ひさしの生家跡地がある。いまは民家が建っている。
90年前にはここに祖父母が営む薬局(薬種商)があった。「あくる朝の蝉」(1973)によれば店兼家屋の裏に200-300坪の畑があり、祖母が自家用のトマト、なす、キュウリ、さやえんどうなどを育てていた。ただ、この作品を読んだのは帰京してからなので、そういうスペースが過去あったようかどうかまでは確認していない。
駅から今度は西に150mほど歩いたところに3階建ての喫茶店がある。井上はこの場所に幼児のころに引っ越した。母がパーマ屋を営んでいた。小学校まで100m、目と鼻の先である。
小学校はいまもある。もちろん校舎はすっかり建て替わっているだろう。門はもしかするとそのままかもしれない。校庭は相当広い。おそらく敷地は昔のままだろう。入学は1941年、戦時体制で小学校尋常科が国民学校に改設された1期生に当たる。
小学校から300mほど北に行くと、草むらの先に多目的運動広場があった。たしかにゲートボールなどができそうだ。この広場の東側に、石柱が2本、草から頭を出して並んでいた。門のようで左は「新山神社」、右は「小松城」と書かれている。かなり先にみえるのは新山神社だ。たしかに南のほうにあるのは土塁にみえる。
戦国時代よりずっと前の南北朝時代に築城され1590年ころ廃城となった。そして井上が通った新制中学と、野球をした公園になった。城址まである町だとは思いもしなかった。
わたしには中学校跡地と公園の境界はよくわからなかった。「下駄の上の卵」(1980)に少年野球チームが試合のための場所取りを新山神社前の原っぱでする話がでてくる。
井上が通った中学は、その後合併を重ね小松中学として別の場所にある。しかしその校歌は、1996年に井上が依頼され作詞した「人らしき人」を校名だけ変えていまも使われている。
生家跡から信号を越えて50-60m行くと樽平酒造があり、杉玉が架けられていた。じつはここの当主が井上と小学校の同学年で、よく遊んだとガイドブックに書かれていた(このガイドは2015年発行なので、いまの当主・井上京七は子孫かもしれない)。また樽平酒造の当主が1932年に開設した私立美術館・掬粋(きくすい)巧芸館が長井街道と道路を隔てて建っている。この美術館のことも「下駄の上の卵」に出てくる。子どもたちが老館長から軟式野球のボールを失敬しようというやりとりである。
帰るため、再び駅舎に向かった。寺や立派な瓦葺の家があった。味噌醤油こうじ製造所の看板がかかっていた。しばらく行くと右手に小松小学校の校庭がみえた。大きいグラウンドだ。左手にはかなり大きい三菱鉛筆の工場があった。1944年操業なので井上が小学生のころからあったはずだ。
米どころ山形なので、たしかに水田が広がるが、井上は酒蔵、味噌醤油製造所、寺が並ぶ街道筋で育ったことがわかった。また自身の実家も商家だった。このあと、岩手に転居し、仙台の孤児院に入ったり、東京の上智大学に進学したり波乱万丈の人生をたどる。井上の生まれ育ったまちを歩くことができた。井上は、よほどこの町が好きだったから「遅筆堂文庫」に蔵書を寄贈したのだろう。わたしが川西町という地名を知ったのは、こまつ座の芝居のプログラム「座」の巻末のほうにあった記事からだ。井上は毎年「生活者大学校」という講座をゲストを招き川西町農村環境改善センターなどで開催した。そして「生活者大学校の報告」という記事を掲載していたからだ。
駅待合室に駅ミニミュージアムというコーナーがあった。ひょうたん島のキャラクターを地元の人が手づくりでつくった人形も置かれていた。ネコ関連のものが多いが、これは井上が猫好きだったという意味ではなく、2019年から駅に住みついた野良猫を「しょこら駅長」としてマスコットにしているからだそうだ。たしかにずいぶん大きい黒ネコが歩いていた。
わたしは川西に2時間半しか滞在できなかった。というのも時刻表をみると米沢方向でいうと、朝7時台に3本あるのが最高で、9時、11時、15時、16時、18時台に各1本とかなり不便だからだ。
今回は、遅筆堂文庫は書斎周り中心にみただけで終わったが、次回もし来る機会があれば文庫の書架を少なくとも1時間、井上に関する展示を30分は見たい。また屋外も樽平酒造の予約見学、ダリヤ園・温泉体験もしてみたい。
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