茫庵

万書きつらね

2012年10月11日 - 子どものための詩文 1

2012年10月11日 22時35分16秒 | 教育、子ども

子どものための詩文 1

1-1. 子どものための詩文とは

 西洋言語には非常に豊富な子どものための詩文の資産があります。日本語や中国語の詩文も決して少なくはありませんが、「子どものための」という前置きがつくといかがなものでしょうか。読み方も書き方も体系的に整理され、様々な人が多様なアンソロジーを作り、想像力と独創性いっぱいの世界を作り上げています。

 なんて書いてる自分もまだその全貌がどれほどのものか測りきれていません。まだその入口に立った、というだけの状態なのです。しかし、広大、という事はそれでも十分に理解出来ます。

 他で言い尽くされているとは思いますが、何故「子どものための」詩文なのでしょうか?
 答えはもちろんひとつではありません。私はここでは子どもの成長の糧としての詩文とその国、民族の文化の根底を形作る骨組みとしての詩文、という両面から見ていきたいと思います。


1-2. 子どもの成長の糧としての詩文

 日本で子どものための詩、と言ってしまうとお花が咲いたとか鳥さんがかわいいとか、いかにも大人が幼い人を騙すようなイメージがつきまとうのですが、西洋のそういったアンソロジーを読んでみると、そういうものもありますが、決して主流ではなく、むしろ大人が読んでも難しかったり面白かったりするクオリティの高いものが多く見受けられます。つまり、欧米で「子どものための」といっても、詩文自体はごく普通の詩として書かれ、「子どものために」という事で選ばれた、という位置づけの作品が多く見受けられる、という事なのです。ですから、凝った表現を使ってる物もありますし、主題も様々ですし、非常に長いものもあります。序文から本筋まで全部詩文、なんていうのも珍しくありません。

 かつては欧米でも子ども向け=教訓的、といった時代もありました。説教臭い詩や大人にとって都合の良い子ども像を植え付ける道具としての詩もありましたが、近代以降、子どもの人権が真剣に考えられる様になり、時代の流れもあり、子ども向けとひと口に言っても単純に片付けられない多様性を帯びる様にもなってきました。

 とはいえ、本稿では以下の3つの観点から「子どもの成長の糧」としての詩文を捉えてみようと思います。

① 知能的な成長
② 情緒的な成長
③ 社会的な成長

 欧米の子どものための詩文は、これ等の観点からどの様にとらえる事が出来るのでしょうか。


① 知能的な成長
 文字を読んで理解する、聞いて分かる、あるいは諳んじる、自分で作ってみる、といった知的活動に直結するだけでなく、詩文を通じての周りの人々(おとな、子ども含む)や動物などとのコミュニケーションも含まれます。

② 情緒的な成長
 優しさ、喜怒哀楽、様々な情緒的体験による共感、反感など、ある時は詩文を思い出す事により感情を増幅する事もあるでしょうし、体験が詩文による感動を呼び起こす事もあるでしょう。また、お気に入りの詩文を目標とする事で人格形成に影響を及ぼす事があるかもしれません。

③ 社会的な成長
 他の優れた芸術的作品と同じく、詩文の中にも世の中や人生について教えてくれる作品があります。そういう作品は、決して説教臭い訳ではなく、かといって、良い事ばかりを述べて子どもに媚びへつらうのでもなく、時には辛辣に、時には優しく、読者に人間とは何か、人生とは何かを語りかけてくるのです。


1-3. 国、民族の文化の根底を形作る骨組みとしての詩文

 詩は言語表現による芸術です。言語とは国や民族の精神文化の骨組みそものです。実際、東洋でも西洋でも文学は詩から始まりました。ある言語で詩文がどのように作られているか、作られてきたかを読み解く事は、その言語や文化に対する理解の助けにもなります。西洋言語の詩文は、多かれ少なかれ古代ギリシャ・ローマの詩文の影響を強く受けながら発達してきました。それぞれの言語において、一方では独自の詩型を追求しながらも、他方ではお互いに他国の詩型を取り入れたりもしているのです。

 その裏方として暗躍しているのが詩学です。各言語には各詩学があり、独自性を追求しながらも多言語特有の詩型を自国語に導入するにはどうしたら良いかを研究したりもするのです。その結果、同じ名前の詩型でも、実際の中身は必ずしも同じではなく、それぞれの言語ならではの特徴を帯びたりもしています。詩学がある、という事は、詩の読み方や書き方の情報が体系的に整理された環境がある、という事でもあります。いずれも現代日本の口語自由詩には無いものです。つまり、日本語の、というより現代日本の口語自由詩には日本民族や日本国の文化的な屋台骨を支えるだけの能力が無いという事です。これもしばしば私が口癖のように述べていることです。

 では、口語自由詩の前はどうだったか、というと、和歌や俳諧を詩とするならそれなりに役目を果たしていたと言えるでしょう。また、文語体で書かれた日本語は、他の外国語並みに口語が通じない昔の日本人にとっては、どの地方の知識人とも意思疎通が出来る共通言語でしたし、詩文(江戸時代までは詩といえば漢詩の事を指した)に至っては、漢字文化圏の共通語でもあったのです。それぞれのお国柄を詩情豊かに表現していた事は言うまでもありません。

 何度でも繰り返しますが、口語自由詩は、名前こそ自由ですが、今まで先人たちが積み上げてきた豊富な表現資産を敢えて捨て去った上で、代替の物を何ひとつ用意してこなかった責任をとらなければなりません。でなければ、私はこれ等にたずさわるすべての人を、民族的、且つ歴史的な裏切り者、と呼ぶしかありません。

 さて、その詩文について、外国語から学ぶ意味があるのでしょうか。ゲーテが「外国語が分からない者は母国語だって知っちゃあいないさ」という様な言葉を残した事からも分かるように、母国語を知る、と言える為にはある程度以上の外国語の素養が必須である事は言うまでもありません。言語は単独で100%成り立つという物ではないのです。例えば、現代の我々が使っている日常の日本語だって、ご存知の様に、固有の文字は使われていません。漢字は元は中国から輸入したものですし、かな文字はその崩し形です。また、言語的にも古代百済語に近いのではないか、などと言われていたりもします。詩文について知ろうとする時、外国語の詩文は避けて通れない物だと知るべきです。逆に言えば、外国語を知らない詩人などあり得ないという事にもなります。

 この様な下地をわきまえた上で、子どものための詩文がどのようにその言語世界に根付いたものであるのかを吟味してみたいと思います。

 随分小難しい事を並べている様ですが、当たり前です。詩とはもともと知的で難しい物だからです。難しくなければ詩ではありません。しかし、そこを教育と学習と研究と実践で乗り越えた所から、詩の本当の世界が拡がっているのです。スポーツでも、ある程度の体力と知識がなければ安全に楽しくプレイする事は出来ません。逆に、生兵法は危険です。詩だって、危険な目に遭う事はないものの、そういった意味での準備は必要です。少なくとも準備があれば、より広く楽しむ事が出来るのです。「子どものため」という目的意識を持つならば、なおさらです。それを疎ましく思う人は、子どもへの愛情が足りないか、そもそも詩の広大な世界に入っていく事を自ら拒否しているのと同じなのです。



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