続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

平等ではない命。一番大切なのは何なのか。制度が不備なら、悪法などくそくらえ

2011-01-11 | 社会学講座
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 難病に苦しみ、日本では認められていない治療によってしか、命を救われる可能性のない人が、多くの善意に支えられ、外国に渡り、無事治療を受けて帰国した、というニュースを耳にします。
 助かった本人はもとより、親御さんのお気持ちを考えると、心底よかったと思います。

 先日も、サッカーの試合を観戦に行ったら、スタジアムで、高校生のボランティアが、難病に苦しむ男の子を救うための募金に頭を下げ、声を張り上げていました。
 私も妻も、通り過ぎようとした足を止め、募金箱へ、幾許かの気持ちを納めさせていただきました。

 そうしていながら、私の気持ちの中には、しっくりこない点があるのも事実です。

 外国の最先端医療を受けるためには、通常、個人ではとても負担できない、途方もない費用がかかります。
 そこで、親や親戚・友人・同僚などが有志となって「救う会」を結成し、広く募金活動などを行い、目標額に達したところで、患者と付き添いの家族が渡航する、といったことが、よく行われています。

 しかし、そうして治療を受ける機会に恵まれた人は、まだ運がいいほうで、助かった人の陰には、ニュースにこそなりませんが、助かる機会さえ与えられず、失意の内に亡くなっていった人が、数多くいるはずです。

 そうした人々のことを思うとき、釈然としないものが残ります。

 じゃあ、皆、平等に命を失ったほうがいいのか、というと、決してそういうわけではなく、たった一人でも、命が助かることに異を唱えるつもりはさらさらありません。
 それどころか、知人にそのような人がいれば、すすんで救う会へ参加するでしょうし、まして我が子のこととなれば、なり振り構わず、泥を喰もうとも、募金に頭を下げて回ることでしょう。

 ではなぜ、難病に苦しむ人は、途方もない費用をかけ、海外まで出かけていって、治療しなければならないのでしょうか。

 答えは簡単です。現在の社会制度が、そのような人を救う制度になっていないからです。

 制度には、大きく分けて、医療費を皆で負担しあう「健康保険」と、医療行為を律する「法律」とがあります。

 まず健康保険では、いわゆる「保険の利く」治療を細かく定めています。
 それに外れたものには「保険が利かない」こととなっており、そうした治療を受けたければ、全額を個人で負担しなければなりません。
 たしかにこの制度は、怪しげな「治療」で金を巻き上げる奴や、必要のない治療や投薬を行うなど、儲け主義の輩を排除するために大切なことです。

 ところが、前述のような最先端医療にも対応しきれておらず、保険の適用範囲になりません。

 これは単なる怠慢です。

 主治医が、「この方法しかない」と言うのなら、第三者の医療チームが、妥当性を検討すればいいことです。
 それが外国にしかない技術ならば、外国に出かけていく費用も含めて、保険適用にすればいいことです。

 また法律では、臓器提供の年齢制限など、さまざまな制約があります。
 理由はいろいろあるようですが、そのことによって、助かる命をむざむざ見殺しにしていることも事実です。

 法律は、世の中の幸福を目的としています。
 不幸や不平等を生み出す法律は、明らかに間違っています。

 難病に限らず、万一、あなたの子どもが命の危機に瀕しているとして、子どもを救うには、あなたが法を犯す以外にないとしたらどうしますか?
 私なら、「法律などくそくらえ」とばかりに法を犯すでしょう。

 「悪法もまた法なり」?
 はい。それでも「くそくらえ」です。

 最も大切なことは何でしょうか?
 言うまでもなく、命を助けることです。

 制度によってその目的が阻害されるのなら、そんな制度は役に立たないものです。
 また、お金持ちの命は助かって、貧乏人は見殺しにされるような世の中が、正しいはずはありません。

 要は、制度にしろ法律にしろ、そこに、人の命を助けるために最善の方法を採る、それを阻害する要素など、毫もあってはなりません。

 我が身につまされなければ、なかなか実感の湧かない問題かもしれませんが、考えておくことは必要です。

 私と妻が募金に協力させていただいた男の子、治療が功を奏し元気に帰国した、というニュースを、一日でも早く聞きたいものです。

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