タイトルは、沼正三さんの名作ですが、表題と内容は関係ありませんので、念のため。
アメリカ産牛肉を使った牛丼の販売が、限定的ですが、開始されました。
BSE―CJD(狂牛病を原因とするクロイツフェルト・ヤコブ病)の防疫方法論はさておいて、どこの国が輸入しても、アメリカの基準で検査した牛肉では、アメリカ国内と同じ程度にBSE―CJDが発生するのは自明の理です。したがって、アメリカ産牛肉の解禁で、BSE―CJDがわが国で発生するのは時間の問題です。唯一、輸入再開の条件としてアメリカの基準に上乗せしたわが国の基準が、万全の防疫であった場合を除きますが、まあ、そんな可能性はないでしょう。
某大手牛丼チェーン店は、真っ先にアメリカ産牛肉の使用を再開しましたが、国内で、数年後にBSE―CJDが発生した時、やはり真っ先に疑われることでしょう。もちろん、牛丼が原因だと断定することは不可能で、仮にできたとしても、基準を通過した牛肉を提供していたわけですから、牛丼チェーン店が法的に責任を問われることはありません。しかし、もはやその店の牛丼を食べようとする者はいなくなり、牛丼チェーン店は、100年の歴史に幕を下ろすこととなるでしょう。
私?もちろん食べませんとも。私はその店を、国民の生命と引き換えに利益を選んだ、人命軽視も甚だしい、無責任極まりない会社だと評価します。また私は、「自ら不幸を招いた者には同情しない」という信念に基づき、ホイホイと牛丼を食べてBSE―CJDに罹った者へは、同情しません。つまり牛丼屋も犠牲者も「それみたことか」というわけです。
(注:「自ら不幸を招いた者には同情しない」というのは、「天は自ら助くる者を助く」という諺の裏返しです。念のため)
さて、基準に従った牛丼チェーン店が、法的に責任を負わないとすると、ではその基準がおかしかったのではないか、という疑問が、当然出てきます。次には、誰がそんな基準を作ったのか、ということになります。誰が作ったのかは自明のことですが、日本では、「当時の技術ではそれが限界だった」とか、「当時最も信頼の置ける基準だった」とかいった屁理屈によって、基準を作った者は、誰も責任を負わない仕組みになっています。ただし、その程度の基準しか作れない無能を、代表として国会に送り込んだのは我々ですから、強いことは言えません。
そうなると、自衛策を講じなければなりません。当面、アメリカ産牛肉を食べないことが最良の方法だと思います。アメリカは、直接的にしろ間接的にしろ、他国民の命や健康を犠牲にしても、自国の利益を優先させる国ですから、我々は、我々の命と健康という利益を最大限守らなくてはなりません。
日本人は、問題のある飼料を食べさせられて太り、アメリカに利益をもたらすばかりの家畜人間ではありませんよ。もう、半分そうなってはいますが。
さて、タイトルの「家畜人ヤプー」。この作品を読んだ方には、より、皮肉が分かると思います。今の日本人が読むべき、おすすめの1冊です。小説が苦手な方には、石ノ森章太郎さんや、江川達也さんが漫画化しています。
アメリカ産牛肉を使った牛丼の販売が、限定的ですが、開始されました。
BSE―CJD(狂牛病を原因とするクロイツフェルト・ヤコブ病)の防疫方法論はさておいて、どこの国が輸入しても、アメリカの基準で検査した牛肉では、アメリカ国内と同じ程度にBSE―CJDが発生するのは自明の理です。したがって、アメリカ産牛肉の解禁で、BSE―CJDがわが国で発生するのは時間の問題です。唯一、輸入再開の条件としてアメリカの基準に上乗せしたわが国の基準が、万全の防疫であった場合を除きますが、まあ、そんな可能性はないでしょう。
某大手牛丼チェーン店は、真っ先にアメリカ産牛肉の使用を再開しましたが、国内で、数年後にBSE―CJDが発生した時、やはり真っ先に疑われることでしょう。もちろん、牛丼が原因だと断定することは不可能で、仮にできたとしても、基準を通過した牛肉を提供していたわけですから、牛丼チェーン店が法的に責任を問われることはありません。しかし、もはやその店の牛丼を食べようとする者はいなくなり、牛丼チェーン店は、100年の歴史に幕を下ろすこととなるでしょう。
私?もちろん食べませんとも。私はその店を、国民の生命と引き換えに利益を選んだ、人命軽視も甚だしい、無責任極まりない会社だと評価します。また私は、「自ら不幸を招いた者には同情しない」という信念に基づき、ホイホイと牛丼を食べてBSE―CJDに罹った者へは、同情しません。つまり牛丼屋も犠牲者も「それみたことか」というわけです。
(注:「自ら不幸を招いた者には同情しない」というのは、「天は自ら助くる者を助く」という諺の裏返しです。念のため)
さて、基準に従った牛丼チェーン店が、法的に責任を負わないとすると、ではその基準がおかしかったのではないか、という疑問が、当然出てきます。次には、誰がそんな基準を作ったのか、ということになります。誰が作ったのかは自明のことですが、日本では、「当時の技術ではそれが限界だった」とか、「当時最も信頼の置ける基準だった」とかいった屁理屈によって、基準を作った者は、誰も責任を負わない仕組みになっています。ただし、その程度の基準しか作れない無能を、代表として国会に送り込んだのは我々ですから、強いことは言えません。
そうなると、自衛策を講じなければなりません。当面、アメリカ産牛肉を食べないことが最良の方法だと思います。アメリカは、直接的にしろ間接的にしろ、他国民の命や健康を犠牲にしても、自国の利益を優先させる国ですから、我々は、我々の命と健康という利益を最大限守らなくてはなりません。
日本人は、問題のある飼料を食べさせられて太り、アメリカに利益をもたらすばかりの家畜人間ではありませんよ。もう、半分そうなってはいますが。
さて、タイトルの「家畜人ヤプー」。この作品を読んだ方には、より、皮肉が分かると思います。今の日本人が読むべき、おすすめの1冊です。小説が苦手な方には、石ノ森章太郎さんや、江川達也さんが漫画化しています。
国家と国家との関係と個々人の意思思想は連動しないし、
(少なくとも現代日本においては)する必要も無い。
個々人の意思が国の方向性に反映されなければならないという正論はひとまず置いておいて。
日本という国が中国や韓国と友好関係を推進する一方で
それらの国を嫌う人がいても問題は無い。
まして某首領様のしろしめす国など・・・って、話が逸れた。
日本が米国の牛肉を輸入したからといって
それを消費しなければならない道理はどこにも無い。
だから米国産牛肉を食べないという選択は
正当であり至極真っ当であり当然の権利でもある。
だから堂々と主張されればいい。
同様に、自分で判断して食べているなら、それはそれでいいのではないかな。
何も考えずに食べてるなら、それは確かに問題だが。
>アメリカ国内と同じ程度にBSE―CJDが発生するのは自明の理です
それはどうかな?
発生のリスクが上がる可能性を否定はできないが
「五十歩百歩」のような気がする…と言ったら言い過ぎか。
それはそれとして、私も進んでは食べない。BSEだけの理由ではないが。
ただ私は、責任というものは無制限に発生するものではないと思う。
少なくとも完全でないことの責任を負えと言われても無理だ。
(完全を目指して努力することの重要性を否定しているのではないよ?)
そのときどきに、良かれと思われる行動に対して
誰にも取れない責任というのはあるのではないだろうか。
アメリカ産牛肉の輸入が「良い」という気は毛頭ない。
ただ、フェイル・ネガティブに対する責任は、
少なくとも基準を検討する識者たちは持っているし
徒や疎かにはしていないように思う。
為政者レベルではどうかわからないけどね。
これも屁理屈のうちかな?
さて、折角夢野久作さんの代表作をいただいた事だし
かの「チャカポコ」を意識しつつ
犬井ヒロシ風に・・・
牛肉のブルース♪牛肉のブルース♪
(ズッズジャッジャジャン♪ズッズジャッジャジャン♪)
待ちに待った牛丼♪
政府の言うこと信じて安全や安全や自分に言い聞かせながら♪
変わらない値段で変わらない味を味わうのと♪
(ズッズジャッジャジャン♪ズッズジャッジャジャン♪)
絶対危ないわ検査もしてないいい加減な肉なんてよう食べんわ言いながら♪
ちょっと高いオージービーフを選ぶのとは♪
(ズッジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャジャン♪)
自由だーーーーーッ!
牛肉is freedom♪牛肉is freedom♪ さあみんな一緒に!
(ズッズジャッジャジャン♪ズッズジャッジャジャン♪)
牛肉is freedom♪牛肉is freedom♪ oh year!
(ズッズジャッジャジャン♪ズッズジャッジャジャン♪)
牛肉is freedom♪牛肉is freedom♪ …
(ズッズジャッジャッジャッジャッジャッジャッジャ♪)
でも、オージービーフも全頭検査はしてないで…
うーん、我ながらお粗末、失礼
「みんなアメリカ産牛肉を食うな」とは、一言も言っていないので、誤解のないように。(言っているのとおんなじだ、と言われれば、まあ、そうかもしれないが)
貴兄と同じく、賛成派の意見も反対派の意見も尊重するし、食う奴を止めはしないし、食わない奴に食えと言う気もない。ただ、食った奴がCJDになっても知らないし、食わない奴が高い牛肉を買うことにも関知しない。
食った奴が○○屋をどう評価しようとも勝手だし、食わない私がどう評価するのも勝手だろう。
責任という点については、別の機会に書こうと思っていたのだが・・・
法でも、そのときに予見できなかったことについて、責任は追及されない。
しかし私は、予見できなかったこと自体に責任があると思っている。別な言い方をすれば、予見する努力を中途半端で終わらせた責任だ。(程度ものだが)厳しすぎるかもしれない。しかし人の命に関わる事項については、これぐらい厳しくてもいいのではないかと思っている。
今回の基準も、識者の出した基準を、為政者が曲げてしまったのではないかという疑念は残るね。
今回の件に関して、特に最後の一文には概ね同感。
できることがあったのに、それを打ち遣った感はある。
幸いにしてまだ我々に為せることも残っているので
これからどのようにはたらきかけていくか
この問題にどう向き合っていくか
様々な角度からしっかり考えていかなければならないと思う。
まあ貴兄の意見と愚見との最大の相違は
BSEのリスク(vCJDのハザードではない)に対する捉え方だね。
「家畜人ヤプー」は、石ノ森(当時はまだ石森だったかな?)版を一部読んだ記憶がある。
いちどきっちり読んでおきたいとは思っているが、なかなか機会が無い。