映画食い倒れ。

~映画は人生のデザートです~

個人的覚え書きのため、たまにネタばれありです。

「ブラス!~ Brassed Off ~」

2008年09月24日 | 映画~は~
1996年 イギリス映画


この映画、本当に好きで何度も何度も観てます。好きすぎて、感想を書くのが本当に難しい。

1992年。舞台はイングランド北部のヨークシャー州リムリー。100年の歴史を誇る炭鉱夫たちの名門ブラスバンド「グリムリー・コリアリー・バンド」も、炭鉱閉鎖の問題に頭を抱えていた。炭鉱閉鎖、生活苦、失業。全英選手権出場権を手に入れたが、出場するための資金が無い。さらに炭鉱閉鎖が決定される。そこでメンバーは解散を決意するが・・・。


90年代のイギリスの不況、特に炭鉱閉鎖によるあおりを受けた市民生活をテーマにした映画、何本かありますよね。『フルモンティー』や『リトル・ダンサー』(どちらも大好きな映画です)もそう。この『ブラス!』はその中でも、炭鉱閉鎖によって苦境に立たされた人々を真正面から捉えています。観ていて胸が苦しくなるほど。私の父は九州出身で、炭鉱の閉鎖を実際に見ているだけだけに、この映画は見ていて辛くなる、と言います。

とにかく俳優たちの演技がすばらしいんです。それぞれの登場人物たちの状況がきちんと丁寧に描かれていて、すぐに引き込まれます。

特に印象に残っているのが、バンドの指揮者であるダニーを演じたピート・ポスルスウェイト。ピート・ポスルスウェイトは、さすがアカデミー賞ノミネート経験者。数々のヒット作に出ている俳優ですが、この作品の演技も圧巻です。本当に引き込まれてしまうんです。彼が演じるダニーという人物が本当に魅力的で、ブラスバンドを心から愛し、彼の中にある情熱や怒り、悲しみが見事なまでに表現されています。彼のスピーチ、最高です。実話を基にした映画ですが、このスピーチは実際のものなのかしら。もしそうだとしたら、鳥肌ものです。映画のための台詞だったとしたら、良くぞこんな名台詞と生み出した!と脚本家に拍手を送りたいくらい。

そしてもう一人。ダニーの息子のフィルを演じたスティーヴン・トンプキンソン。この人、私はこの映画以外では見たことありませんが、この映画の中の彼はもう圧倒的です。演技だともちろんわかっていますが、これほどまでに本物の、もしかしたら本物以上の「涙」を流す俳優を見たことがありません。たくさんの複雑な感情が一気に押し寄せてきた涙を、見事に表現しています。映画にはたくさんの感動的な場面がありますが、この映画の中で一番印象に残ったシーンは?、と言われたら、私は迷わず「フィルの流した涙」と答えることができるくらい。

フィルの奥さんが買い物でお金が足りなかった時に、「がんばって」と握手を差し出したレジ係の手には彼女に渡すための紙幣が。誰もが苦しんでいる時代。それを象徴したワンシーンだと思います。

ダニーの入院先の病院の庭で、「ダニーボーイ」(選曲もニクイ!)を演奏するブラスバンドの姿。

少しでも小銭を稼ごうと、ピエロになって誕生会に呼ばれたフィルが人生の屈辱を子供相手に罵るシーン。

本当に観ているのが辛くなる。目を逸らしたくなるのではなく、胸に迫ってくる。だからといって「泣かせよう」としていないのがいい。「ここで泣いてね」という感動ポイントを作りこまないところが、私はイギリス映画のいいところだと思います。さらに、細かいことろにちょっと笑いを入れてあるところ。このさじ加減が最高。ロイヤル・アルバート・ホールで、ほかの出演者たちの演奏中は全く聴く耳持たず、編み物を始める主婦たち。夫たちの晴れ舞台を観にロンドンまで来たはいいけど、別に音楽やブラスバンドに興味があるわけではない、というこの姿勢!編み物持参って、始めから編む気満々だし。別にこういうシーンが無くても映画は成立するのだけど、あえてこういう部分を入れてくるイギリス映画の「遊び」部分が、私は好きでたまりません。

演技者が物語りの中に漂う悲壮感を、映画全体としてだけではなく、一人ひとりがかもし出し表現しているその演技力の高さ。ため息が出ます。楽しめる娯楽として映画を見たい人には向かないと思いますが、私の中では「必見」といえる一本です。



おすすめ度:☆☆☆☆☆+α

「イルマ-レ ~The Lake House~」

2008年09月18日 | 映画~あ~
2006年 アメリカ映画


2000年の韓国映画『イルマーレ』のリメイクです。実は本家の韓国バージョンも見たことがあるのだけど、ええ、毎度のことながらうろ覚えでございます…だから、そう、こういうことが何度もあったから、あたくしこのブログ始めたのよね。物忘れ防止のために。

おぼろげな記憶なのだけど、ものすごく透明感のある美しい映画だったことは覚えているのよ。細かいところは覚えてないんだけど、韓国映画が得意とする「純愛」路線はもちろんのこと、うまいひねりのあるストーリー展開で映画に引き込まれた記憶が。

そんな繊細な映画のハリウッドリメイク。アメリカ映画がどこまで作りこめるか。

正直、この映画見るの、怖かったのよ。ほとんど覚えていないとはいえ(おい)、美しくて面白みのある映画だったから、良いイメージが残っているじゃない?だからハリウッド版の出来がいまいちだったら、通常のがっかり具合では済まない訳よ。落差が激しいわけ。主演の二人は豪華だけど、うーーーん、どうなんだろう、と。だって、『スピード』の2人よ?いや、2人とも好きだけど、「カーアクション&勢い映画」で共演していたからって、だからなんだって言うの??…というのが正直な気持ちだったわけで。だって、趣が全然違うじゃない? 同じシリーズで共演するのとはわけが違うし。そしてこれは私の個人的な見解なんだけど、キアヌの映画って当たり外れ激しいし・・・。


映画を見始めて10分くらい。「ああ、嫌な予感が当たっちゃったかなぁ…」とすでにあきらめモードだったんだけど、これがね、意外に良かったのよ!全く「序章」と言うものがなく、もう初っ端から物語が始まっちゃっていて、最初の10分は「え?えっ??展開早い、っちゅうかいきなり話の核心に触れすぎていて状況が飲み込めない」というがっかりがあったの。いきなり詰め込みすぎてる感じがして。あ、あくまで「あたくしは」よ。そらどんなに展開が早くても、「ばっちこーい」とついていける人も大勢いるんだろうけどさ。あたくしには早かったわ。でもその後すぐに回復。

私はサンドラ・ブロックがとても好きなの。役の幅が広くてものすごくシリアスな社会派ドラマもうまいし、コメディーは抜群に面白いし。でも強面じゃない、彼女?だからベタベタのラブ・ストーリーのサンドラ・ブロックを見るのも、実は怖かったりしたのよ。なんか、逃げ道がほしくなっちゃうような。見てるほうが恥ずかしくなっちゃうのよ。

でもね、この映画、全く持ってコメディーではないし、王道のラブストーリーなんだけど、所々にちょっと笑えるユーモアのある会話があったりして、それがすごく良かったわ。そのユーモアの根源はもちろんサンドラね。あ、サンドラというかケイトね。主役の。ケイトは医者で、ものすごく聡明な女性。それで冗談のひとつも言えないまじめ一本の人物像だと、映画の中でのキャラクターが弱いのよね。でもユーモアが加わることで、ケイトという役柄に息吹が吹き込まれたように思う。もっと身近で親近感の持てる人物像が確立される。もちろん台詞として台本の中に存在している言葉なのだから、誰が演じようと「ユーモアのある女性」という役柄になるのは当然なんだけど、サンドラがうまいのはこの部分。ただの「台詞」ではなく、その一言や会話のテンポで「クスっ」と笑わせるのよ!これってものすごく難しいことだと思うのよ、あたくし。台詞に「言わされてる」感がないの。

この相手役がキアヌ(アレックス)なんだけど、キアヌが相手だからこそ、この台詞回しの「間」が生きてくるのかもね。相手がへたくそだったら、笑いとまでは行かないけど、この「クスッ」が殺されてしまうわけだし。この「クスッ」って、この映画の中でものすごく大事な要素だったと思います。ケイトと恋人との会話の中では出てこない「クスッ」なんです。アレックスのときは出てくるの。この笑いにも満たないかもしれないけど、心を開いているからそのユーモアが伝わる間柄=ケイト&アレックスの絆の強さが伝わる「クスッ」なんです!!!


2004年のケイトが登場するシーンでは、たった2年なんだけどその「古さ」がきちんと出ていて面白かったです。髪型とか表情とか。細かいところだけど、ただ設定が「2004年(2年前)」なのではなく、ビジュアル的にも「ちょっと前」の雰囲気が出ていました。


キアヌって、どこと無く陰のある静かな役どころが本当に良く似合うと思いました。


そうそう、韓国版では「イルマーレ」は海辺に立つその家の名前だったんだけど、このアメリカ版では、街にある高級レストランの名前なのね。アメリカ版はそもそも海ではなく湖に建っているし(だから、原題は『The Lake House』ね)。一応、そのレストラン『イルマーレ』は話のキーにはなっているんだけど、映画の題名として使うほどかと言えば全くそうではない。ただ、韓国版『イルマーレ』と言う名前のイメージが日本では強く定着しているから、リメイク版の名前も同じものを使うと言うのは仕方が無いことだな、と思います。

アレックスが建築家なのは韓国版と同じ。でもケイトの人物像や、物語の舞台である「家」の歴史などは全く異なるもの。話のベースは同じなんだけど、アメリカ版独自の性格を持った映画だったと思います。全く別のものではないけど、韓国版・アメリカ版、それぞれがそれぞれの良さを持って独立しているような。


アレックスの弟が、なんか役に地に足が着いていなくて、ちょっと浮いている印象だし、絶対にアレックス(キアヌ)と兄弟には見えないんだけど(笑)、それでも映画は良かったです。




おすすめ度:☆☆☆☆


「恋愛小説家 ~As Good as It Gets~」

2008年09月11日 | 映画~ら~
1997年 アメリカ映画


偏屈親父が、全うな人間としてなんとか「普通に」暮らせるようになるまでを描いたお話。この映画を見るのは約8年ぶり。こんなに年月が経っているのに、今回見てもあまり感想が変わらなかったという、ある意味稀な映画でした。

偏屈親父は恋愛小説家なのですが、そんなロマンチックな話をこのおっさんが書いているとは到底信じられないほどの奇人変人ぶり。これがジャック・ニコルソン演じるメルヴィンです。もちろん映画なのでジャックは「演じて」いるはずなんですけど、私にはこれはジャックの素なのではないかという気がしてなりません。もちろん私、ジャック・ニコルソンの生い立ちや性格を知っているわけではありませんが、私の勝手なイメージの中のジャック・ニコルソンは、映画のメルヴィンのようにものすごくアクが強い偏屈親父なのです。顔からすでに「奇人オーラ」を出してるでしょ?あ、言っておきますけど、これ批判じゃないですよ。俳優としてのオリジナリティーとしてです。

演技がどうとか話の内容がどうのこうの以前に、この映画を見てジャック自体を嫌いになりそうでしたもの。私のイメージするジャックがそのままの姿で、いやそれ以上の偏屈ぶりで映画の中にいたからです。そしてこの映画の主人公メルヴィンが、まあどうしようもなくひどい男なんです。やさしさはあります。でも近くにいたら、日常生活がストレスにさいなまれそうな嫌な奴加減。わたし、絶対彼と同じアパートには住めませんし、同じレストランやカフェにも近寄れません。そのくらい苦手。

・人の飼い犬をゴミ箱に捨てる。
・行き着けのカフェでは必ず同じテーブルでないと気がすまない(先客がいるときは、彼らを追い出す)。
・お店のカトラリーの清潔性を信用していないのか、フォーク・ナイフは持参したプラスチック製。
・このお店で唯一彼と対等でいられるのはキャロル(ヘレン・ハント)だけ。
・公共の道路では人に触れないようにして歩く。
・道路の継ぎ目は踏まない。

もちろん、皆の鼻つまみ者。当然です。

そんな彼がふとしたことから隣人のゲイでアーティストのサイモン(グレッグ・キニア)の犬を預かることに。いつも潔癖症で他人には全く関心が無く、見事なまでに自分中心だった彼が、犬との生活を始めたことをきっかけに、少しずつ「普通の人の生活」や「ギリギリまかり通るかもしれない一般常識」が持てるようになっていく。


でも正直、犬との生活やカフェのキャロルとのかかわりを通しての彼の変化は、「強引」過ぎるし、稀に見せる「優しさ」は、もともとがマイナススタートなので通常以上に評価されすぎる。その優しさの形も、ものすごく危うくて、相手がキャロルやサイモンだから項を奏しているけど、私だったらそれが「優しさ」とは受け入れられない範囲のもの。とにかくメルヴィンの性格の設定が、常人の範囲を大幅に超えていて受け取りきれないんです。「映画だから」という免罪符が、この映画に関しては私にはあまり通用しない。どんな恋愛映画でも、人が結ばれるまでに「危うい」出来事が起こるけど、ドラマチックな展開で最終的には「地固まる」になるのが常。でもこの映画、「たくさんの危うい状況」(=メルヴィンの言動・行動)はちりばめられているんだけど、「危うい…」と言うよりはその時点で完全に「アウト」なんです。ま、個人の感想なので「いいじゃん。メルヴィン、かわいいじゃん」という人も大勢いるでしょうが。


それでも映画としては楽しめるんですけどね。


この映画の見所は、なんと行ってもヘレン・ハント。とにかく彼女の美しさや魅力が、この映画には凝縮されています。サイモンがキャロル(ヘレン)をスケッチしているシーンなんて、画面の明るさが2段階ほど強まったんじゃないかと思うくらい、本当に輝いていて、見ていてうっとりしてしまうほど。そういえば、この数年後に『ペイ・フォワード』に出ていましたが、それ以降あまり彼女を見ないですね。

そしてメルヴィンの隣人サイモンはグレッグ・キニア。「この人の顔、どっかで見たことあるけど…」と思っていたら、なんと『リトル・ミス・サンシャイン』の9段階成功法を唱えるあのパパでした。 『恋愛小説家』の中では、見事にゲイちっくな雰囲気をかもし出す美青年でしたが、12年後には恰幅のいいパパに。俳優ってすごいわ。どちらもはまり役だもの。

このサイモンの恋人役がキューバ・グッティングJr.だったんだけど、この人ただのマネージャーか何かだと思ってました(ごめんなさい、私の英語力この程度です)。まさか恋人だったとは。なんかちょっと物足りなかったなぁ。

映画全体としては、ヘレン・ハントに引っ張られるようにものすごく良いテンポで話が進むので、飽きずに楽しめる作品。好きな人はものすごく好きな作品よね、これ。


おすすめ度:☆☆★  …それでもやっぱりこの映画の中のメルヴィンがものすごく苦手。

「ダークナイト ~The Dark Knight~」

2008年09月07日 | 映画~た~
2008年 アメリカ映画

3日前に見てきました。イギリスでは7月半ばに公開となりましたが、9月現在も引き続き上映中。2時間半以上にわたる長い映画ですが、中だるみが全く無く、とにかくその世界に引き込まれていきます。

実はわたくし、バットマン・シリーズって今まで1本も見たこと無かったのです。興味が無かったの。アメ・コミ物だし、スーパーマンとかみたいに超人的で現実離れなSFというイメージが強かったし(私は基本的にSFが苦手)、私の中ではスーパーマン(見たことあります)もスパイダーマン(未見…というか見る気なし)も、バットマンも同じカテゴリーだったのです。でも今回はなんかものすごく興味を引かれた。それはやっぱりヒース・レジャーがジョーカーだったから。彼が亡くなったからとかではなく、ポスターや予告編のなかの彼のジョーカーは、私が今までイメージしていたアメリカン・コミックの登場人物とは全く異なっていたから。同じジョーカーでも、20年位前のジャック・ニコルソンのは、もう見た目が苦手。デザインがコミカルすぎて。まぁ、監督がティム・バートンだったから、コミカルさは仕方ないのだけど。その後ダニー・デビートが演じたペンギン男も。人間とは完全に違う生き物で、地球外生物。私には宇宙人と一緒。でも、ヒースのジョーカーには「人間」を感じたのです。

それは私が特別に何かを感じ取ったのではなくて、もちろん映画を見る前なので彼の演技力が云々でもなく、キャラクターデザインによるものなんだと思う。困ったときのウィキペディアでこの映画についての記述を読んでみると(2008年9月6日付)、「ジョーカーの外見は、彼の性格を反映したもの」とある。まさに彼の心の内の狂気や苦しみを体現したキャラクターデザインだと思う。ほかのバットマン・シリーズを観た事が無いので内容は比べようが無いのだけど、外見に関してはジャックが演じていたジョーカーには、悪事の中に「お遊び」的な気分が含まれているような外見だった。あくまで外見の話なのだけど、そのひねくれた性格の原因とかはどうでもよくて、ただ単純に「悪者」のイメージ。でもヒースのジョーカーは、もともとは普通の「人間」で、苦しみや辛さを知っているからこそ突き抜けた「悪魔」になってしまったように見えるし、凶悪さと心の闇を持つ繊細さも垣間見えて、あの強烈な外見はだからこそ余計に恐ろしい。生まれ持っての悪魔ではなく、いろんなきっかけや経験がそうさせてしまったという怖さ。


見る前の期待を全く裏切らないどころか、期待以上。「ヒースがジョーカーを演じている」のではなく、あれがジョーカーそのものだった。外見と彼の性格が見事に一致していて、一寸のブレもない。こんなに「映画」という枠の中ですべてがぴったり合致するキャラクターって、私は今までに見たことが無いかもしれない。私の中のジョーカー像は、完全に固定されてしまった。

皺が浮き彫りになる白塗り、未完成な目の縁取りや裂けた口に塗られた口紅。場面によってそのメイクにムラがあって、警察で身柄を拘束されていたときは全体的にメイクが取れたりして薄くなり、肌色が見えて人間の生々しさがある。次に別の場面で登場するときには、また色が塗られているのだけど、毎回同じではなくやっぱりムラがある。ジョーカーがジョーカーと言う人物になるために施すメイク。そのときの状況や気分でムラが生まれ、全く完璧ではないところに「心の不完全さ」が表れているようでものすごく異様だった(褒めてます)。



ジョーカー以外の見所も満載。とにかくすべてを見逃したくないくらい。

あの映画を作った俳優・スタッフたちの並々ならぬ意気込みを感じる作品でした。あんなに豪華な俳優陣なのに、それぞれが良さを引き立てあっていて、映画は人間(登場人物たち)の心の闇を見事なまでに表現していて、とにかく細部にいたるまで手を抜くことなく、攻めるように作りこまれたすばらしい映画だった。この映画の撮影、絶対にきつかったと思う。その厳しさが伝わってくるほど、ストイックで、「映画が好きだから」という映画への尊敬を感じる。ものすごい大作で時間も長いのに、ここまで丁寧に作られている映画ってどのくらいあるのだろう。映画館で見ることの幸せを感じることができる、たぶんものすごく稀な作品だと思います。


長編映画で興行的に成功した映画というと、どうしても私には『タイタニック』が思い浮かんでしまうのだけど、一言で「長編」「興行収入○○ドル(円)」と言っても、いろいろあるんだなぁと映画を見ながらふと考えてしまいました。いい映画、面白い映画が必ずしも当たるわけではないし、逆に言うと興行的に成功している作品がすべて面白いわけでも優れているわけでもないと言うこと。その点、この映画はすべてを満たしていて、本当に驚いた。

わたし、ものすごく褒めちぎってますね。いや、ほんとに良かったのよ。


やっぱりどうしてもヒース・レジャーに目が行ってしまうのだけど、バットマン役のクリスチャン・ベイルのナルシストっぽい雰囲気もバッチリだった。もしバットマンを演じていたのが別の人物だったら、もう比べようが無いくらいジョーカーに食われた、バランスの悪い映画になっていたと思う。ベイルだったからこそ、いやそれでもやっぱりヒースはものすごくすばらしかったけど、なんとかバランスを保てたように思う。

それでもトゥーフェイスのところとかは、ものすごくアメコミ風味だったし、驚きの無い「やっぱり感」はどうしてもあるのだけど、それは仕方ないよなぁ。だって原作コミックだし、そこは忠実にしていかないとまずいんだろうし。それ以前に私がそういうテイストが好きではないから、どう描いたとしても受け入れられないと思うけど。

あのトゥーフェイスの人、『ブラックダリア』に出てたジョシュ・ハートネットの相棒役の人だったんだね。どこかで見たことあるけど気づかなかった。そしてレイチェル役のマギー・ギレンホール。前作はケイティー・ホームズだったようだけど、これはタレ目つながりの配役と言うことでしょうか?マギーって結構癖のある映画に出ているイメージが強かったし、そういう役が合っていたので、なんかうまくいえないけど「驚き」ました。ああ、「ヒロイン役」なんだ…って。でも、周りがものすごく個性的な俳優だらけだったから、このくらい強い個性のある女優でないと無理かもしれない。ケイティーだったら、ただの「きれいな人」になってしまったかも・・・と無理やり納得しようとしてます。というか、いいのかしらわたくし、レビューがこんな終わり方で…。


とにかく。この映画、圧巻です。


おすすめ度:☆☆☆☆☆


『プリティー・ウーマン ~Pretty Woman~』

2008年09月04日 | 映画~は~
1990年 アメリカ映画

そうか、1990年かぁ。もう18年も前なの、この映画!?まさにジュリア・ロバーツを頂点に押し上げた作品よね。先日テレビで放送していたので、なんとなく見てみました。

これを最初に見たのは中3か高校1年のときで、ビデオを借りてきたような気がする。この作品、日本でも大ヒットで、テレビCMもすごかった。観客の男性が「最高のラブストーリーですっ!」ってなんかやけに興奮して話してたCMの映像が今だに鮮明に思い出せるもの。あれが本当に観客だったのか仕込だったかは知らないけど。

さて、感想。映画としては、まぁ面白い。でも入り込めない。・・・これは最初に見たときも、今回見直したときも同じ。とても映画らしい映画なんだけど、なんだか腑に落ちない。このモヤモヤは何なのかしら。

そこでね、このモヤモヤの原因を自分なりに探ってみたのよ。誰にも頼まれちゃいないけど、探ってみたわけ。そしたら、いくつか原因らしきものが見つかったの。


日本の映画サイト(Yahoo!映画とかgoo映画とか)でこの映画を調べてみると、ジュリア・ロバーツ演じるヴィヴィアンを「コールガール」と紹介してるの。決して「売春婦」とは書いていないのね。でも日本で「コールガール」っていう言葉ってあまり使わないじゃない?いや、使うんだけどどちらかというと「売春婦」のほうが一般的なわけで、「コールガール」と「売春婦」いう言葉からイメージされるものってなんか違わない?「コールガール」ってなんかものすごく西洋な香りで、やや高級っぽくて「売春」よりもきれいな感じしない?なんか言葉のマジックっていうの?そこでさ、ウィキペディアで「コールガール」を調べてみたの(2008年9月3日付)。するとね、『電話等の手段で呼び出しや交渉を行い、売春に応ずる者』と書いてあるわけ。結局は売春なのよ。でもさ、『プリティー・ウーマン』のヴィヴィアンって、電話でエドワード(リチャード・ギア)と交渉を行ってであったわけではないよね?あの人、立ちんぼしてたわよね?コールガールじゃないじゃん!!!

それから、エドワードはなんでヴィヴィアンを買い、さらにはパートナーにしたのか?ホテルのペントハウスに住むビジネスマン・エドワード。ヴィヴィアンをホテルにつれて帰ればホテルの従業員はみなその事実を知るわけだし、いくら上客のエドワードだからといってヘソ出しボディコンで一目で売春婦とわかるヴィヴィアンとホテルを歩き回ってたら、ホテル的にも迷惑だし。あ、そこは何?エドワードとホテル側の信頼関係が成り立っているから・・・という風に理解すればいいのかしら?そうね、きっとそうなのね。そういうことにしておくわ。


ヴィヴィアンはエドワードに見初められ、ものの1週間で素敵なレディーに変身するのだけど、もうさ、服を着せれば何でもにあっちゃうわけよ。シンプルな白いシャツを着ただけでも、てヴィヴィアンは着こなしちゃうわけ。襟とか小粋に立たせたりなんかしちゃって。初めてこの映画を見たとき、確かに中学生だったし良くわかっていなかったというのはあると思うけど、「え?この人なんでこんなに棚ボタ式に成功していくの?あれ、もしかして売春婦ではなかったりするわけ?」と混乱するくらい、なんか描き方が美しすぎるのよ。そもそも、ヴィヴィアンが「売春婦」という設定である必要があったのかどうかさえ疑問です。


そして最大の謎が(まだあるわよ)、エドワードのビジネスパートナーのジェイソン(フィリップ・スタッキー)に売春婦呼ばわりされてせまられた時のヴィヴィアンの「あなた、なんて失礼なことをっ!」みたいな態度。エドワードのパートナーは性格悪そうだし、過去をちらつかせて弱点を責めるのは汚い。でも、短期間できれいさっぱりそういう過去を取っ払いきって、まったくなかったことにして、それが映画上での「正義」になっていることにもちょっともやもや。その後、同級生に久々に会って、「あなただって変われるわ!」とものすごく上から目線でアドバイスをくれてやるヴィヴィアン、根性座ってる。


でもさ、ここまで貶しておいていまさらだけど、やっぱりヴィヴィアンが変身していく姿を見るのは心躍るものがあるのよね。ロデオドライブに買い物に行って、試着の嵐。ポーズとったり踊っちゃったりなんかするヴィヴィアンは、只者じゃないオーラが出ていて、「磨けば光る」何かを持っているというのを、ジュリア・ロバーツは見事に演じきっていて、あの役を別の女優がやっていたらここまでこの映画は評価されなかっただろうし。


今回映画を見てて、ふと思ったこと。この映画の中でヴィヴィアンはへそ出しボディコンでロデオドライブの高級ブティック(グッチだっけ?)に行って冷たくあしらわれるのだけど、今もそうなの?LAにもロデオドライブにも行ったことが無いからわからないのだけど、今のLAの女性のファッションってものすごく露出じゃない?こういう高級店に行くときはそれなりの格好をしていくものなのか、それとも時代の違いで現在は大丈夫とか?


『マイ・フェア・レディー』(未見)の現代版…というふれこみだったらしいけど、設定的に『マイ…』と比べる(あるいは肩を並べる)というのは失礼なんじゃないか、と思ってしまいます。だって『マイ…』は花売りの女性なんだもの。体は売っていないもの。

そうそうリチャード・ギアのこと、一言も書いてないわね。ま、いっか。



おすすめ度:☆☆☆★ ・・・けなした割には高評価。見たことが無い人は見ておいて損はないかも。