厳かなるメリハリっ子

モラハラ妻から逃れて20年。70歳に向けて厳かな人生を送る年金受給者のブログです

59 97-147 9035 電気は現代社会の血液だ。

2019-09-14 08:25:48 | 日記
千葉の一部地域ではまだ停電が続いている。

今各地の気温を調べたが、やっと30度を切る日が続きそうだ。

とはいえ、被害を受けた方達の状態は耐え難いものだろう。

東北大震災の後の原発事故を受けて、多くのぱよくさんが、電気などなくても人は生きていける、と騒いでいた。

日本が誇る坂本龍一さんもそんなことを言っていた。こちらの記事をどうぞ。

いい機会だから、是非電気に恵まれたニューヨーク州を少し離れて、千葉の被災地に来て、同じ事を言って欲しい。

いいプロパガンダになると思う。

今回の災害で日本人が全員分かったのではないかな。電気は社会の血液であるとともに、生身の人間に取っても血と同じほどの生命に不可欠なものであることを。

英語の "vital" がまさにぴったりくる。

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このブログのブログ主の意見と、それに対するコメントに大賛成だ。

こういうことはもっと拡散して、国民の了解を得なければならない。

とにかくパヨクの綺麗事では世の中は運営できません。

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先日、現代詩は面白くないという記事を書いた。


その時書き忘れたけど、谷川俊太郎だけは面白いと思っている。

今朝の日経の「詩人の肖像」はまさに谷川俊太郎を取り上げていた。

彼の詩も掲載されている。やはり面白いね。共感できる。

他の現代詩が苦手なのは、共感すらできないことだ。

なんか、無関係なことを無関係な人が書いているな。私と無関係のどんな人がこんなものを読んで愛でているのだろう。

といつも思う。

異世界での出来事のような気分。

しかし谷川俊太郎だけは、この世界にいる、という気が強くする。

私が最初に彼の仕事を目にしたのは漫画スヌーピーの訳者としての仕事だ。その頃私は高校生で英語を勉強する立場だった。この漫画には英語と日本語が並記してあったのか。そのあたりはよく覚えてない。

しかし日本語の「ちぇっ」が英語では "rats" というのだ、ということを未だに覚えているから、おそらく英語・日本語並記だったのだろう。

それで自分なりに英語のサブテキストとして読んでいたと思う。

とにかく、その時思ったというか感じたのは、作者シュルツの絵の巧みさ、ストーリー、そして登場人物のキャラクター作りの素晴らしさに加えて、谷川俊太郎の達者な日本語訳だった。

彼がまだ現役というのは嬉しいと同時に頼もしい。自分もこうやって老いたいなと思わせるものがある。

おまけに離婚していて、独り身を楽しんでいるし。

ただし、彼の場合は何回か結婚と離婚を繰り返しているので、一回の結婚でへこたれた自分とは役者が違う。

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今気になって谷川俊太郎をWikipedia で調べた。

このくだりが気になった。

『1日1食を実践し、夜はセブンイレブンの玄米ご飯のレトルトパックを中心とした食事をする毎日。詩はノート型のマックで、居間や書斎で書く』

後でセブンイレブンに行ってみる。

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今、最寄りのセブンイレブンに行ってきた。

売ってない!店員に聞いても、ここにあるだけ、と言うのみ。

しかたないのでちょっと離れたセブンイレブンに行ってみた。

ここでも売っていない。

もう製造中止になったのだろうか?何故か心引かれる「玄米ご飯のレトルトパック」ではあった。



70 91-146 9065 興味あるもの。

2019-08-25 08:47:16 | 日記
今朝の日経の日曜版の別冊。 The STYLE

二つ記事が目を引いた。

一つはフライフィッシング。

もう一つは革靴。

いずれもこだわりの人が登場する。

私はどちらにも興味がない。父親はよく鮎釣りをしていた。川に連れて行って貰ったことは何度もある。しかし自分で釣りをすることは全くなかった。今、地元で親しくしている友人(高校の同級生)も釣りきちだ。釣りの話をよくするが、私はなんとも興味が湧かない。

革靴は勿論持っているが、普段は全く履かない。希に背広を着て顧客訪問するときに履くだけ。こだわりもないので、適当な靴だ。この年なので、新しい靴を買う予定はまったくない。

よく考えると、人々が愛でる。楽しむ。大事にしている。いろんなものに私は興味がない。変なんだろうか。

ゴルフも興味がなかったが、高校時代に仲間に強く誘われて、仕方なくやりはじめた。もう2年くらいにはなるが全く上達しないし、何が楽しいのか、友人達の熱中振りがよく分からない。

音楽も昔はクラシックの大ファンで、レコードも買ったし、親に買って貰った音楽家伝記シリーズは何度も読み返した。NHKの教育テレビでコンサートを放映するときは必ず見た。

今は、車の中でさえ音楽を鳴らすことはなくなった。ちょっと前まで入れ込んでいたベビーメタルもメンバーが変わってから聞かなくなった。今はたまにYouTube動画できゃりーぱみゅぱみゅを聞くくらいかな。

詩というのが良く分からない。特に現代詩。日経でも土曜日だっけ、詩人を取り上げる連載記事がある。毎回、違った詩人が登場して、代表的な詩が紹介される。ピンと来ない。何が文学的に優れているのだろう?そのセンスは私にはない。

昔の芭蕉とか一茶の俳句や、和歌の中には、文学音痴(文痴?)の私でも「いいね」と思えるものがある。しかし現代のものは駄目だ。

ただ、歌(特に演歌)の詩には「うまいな」と思うものが沢山ある。やはりプロだ、と感心する。

しかし音楽が伴わない現代詩は駄目だ。受け付けない。

昔見た「アマデウス」という映画に、モーツアルトの敵役であるサリエリが、モーツアルトの楽譜を見て、頭の中に音楽が響き渡りそのあまりの素晴らしさに圧倒されるという印象的な場面がある。音楽をする人は、おそらく楽譜を見れば、音が聞こえるのだろう。しかし我々素人が楽譜を見ても、なんの感慨も沸かない。

現代詩を読む、というのは私にとってはそういうことかもしれない。詩心のある人が読めば、音が鳴り、映像が流れ、臭いさえもかげるのだろう。

そういうの才能が全くないということだ。私には。「受容体」の欠落。そういうことだろう。

最近の私はあらゆることに対して「受容体」がないか、劣化して機能していないか、どちらかだ。

草むしりについてはなんとなく「受容体」ができはじめている気がする。さて、今日もやるか。