チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「清朝269年あるいは277年の礎/『ヌルハチの都』」

2009年04月30日 01時17分41秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
地デジのキャンペイン・キャラが「地デジカ」君になった、
ということらしい。会見では、
その地デジカの着ぐるみを着てるのが、確と見れば実は
剛君だった、というサプライズはなかったようである。
つまらない。いっぽう、
内館牧子女史が朝青龍にスキンシップされて
デレデレしてたそうである。女史のごとくに、
自分のスジを貫かないヒトはじつに人間的である。
度量が狭い私には、とうてい真似できない所作である。が、
同女史には脚本というクリエイティヴな才がある。ところで、
顔がマズいという言葉の範囲をはるかに超越してるゆえの
負のエネルギーが、創作物という正の化身を産みだす場合がある。
小説家やレディ・コミ作家らによくあるタイプである。
容姿への劣等感から、ありあまるドロドロした欲望・煩悩が生じ、
しかしまたその劣等感を克服しようとする支配欲求が、
叶えられない願望をエロ小説・エロマンガに昇華させるのである。いっぽう、
きれいなおねえさんやカッコいいおにいさんが書いた
陳腐な随筆や日記の類なんかには、たいていは感動もなければ
ありがたみもない。そもそも、生物としてそこそこ成功してるのだから、
創作になど手をつけるのは欲張り、強欲というものである。
米国のあるドラマでは「ミシマはインテリ向けポルノだ」という台詞があった。
ポルノというと安易なエロみたいだが、たしかに
ミシマには強烈な劣等感に加えて屈折した美意識があったし、
作家としての成功がある程度までは克己となるのである。が、
醜さの極みのような私には、そんな才のかけらもない。
クリエイターでもない凡人が独身・子なしでは無意味である。まぁ、
無意味な大多数がいるから、生物界はうまく事が運ぶから、
まったく役に立ってないというわけでもない。
微々たる貢献はしてるのだろう。縁の下の力なし、としては。
50歳になった昨年、大久保彦左衛門でもないのに、
50歳を期にそれまでの放蕩生活を改めて婚活を始めた。
それまでの合コン仲間のひとりが結婚したこともある。彼は
普通部→塾高→経済学部→今回の不況にも動じない某一流企業、
というバリバリの广KOboyである。いっぽう、
私は低収入・中年過ぎ・高コレステロールという、
ヘレン・ケラー女史もびっくりな三重苦である。だから、
無理だろうことは自明だった。
その手のパーティや相談所などをかたっぱしから試してみたが、
あんのじょう、「無理です」「ちょっときびしいですかねぇ」
「もう少し条件をひろげてみたらよろしいのでは……」
などと、率直・婉曲にダメ出しされた。私が出した条件など
かなり緩いと思うのだが……
1.タバコを吸わない
2.ペットを飼わない
3.左翼・反日思想の持ち主でない
4.宗教・占い・オカルト・スピリチュアル・自己啓発セミナーの類を信じない
……こんな、たった「4つのお願い」だけである。が、
これでもダメなんだそうである。私の身の程分際では、
とくに2番がネックらしい。いっぽう、
知り合いの紹介でブラインド・デイトみたいなこともいくつかしたが、
みなさんから、「これから忙しくなる時期なので……」と、
異口同音に、次回以降がないことを告げられた。というわけで、
諦めがはやい私にしては1年も婚カツをしたがダメだったので、
新年度の今月からまた女性とはその場だけの享楽だけ、
の附き合いを復活することにした。といっても、
ただ飲み食いするだけ、であるが。昨日は、
ハケン先でいっしょになった二十歳のW大学生の子を連れ立って
焼肉を食いにいった。大久保の焼肉屋はけっこう行ってるが、
麻布十番は知らないとのことだった。それなら、
オジサンがごちそうしてあげる、というものである。
私がその子に興味を持ったのは、
昨今プチ流行の「歴女」らしいからだった。
「家康派」だという。私も同感である。
天下は転がるべくして家康に向かってった、のである。が、
話の流れの中で、私はヌルハチのことを持ち出してしまった。というのも、
「ヌルハチの都」という新刊本を最近読んだばかりだったからである。

「ヌルハチの都/満州(マンジュ)遺産のなりたちと変遷」
(三宅理一著/ランダムハウス講談社刊)

徳川幕府と大清国はその成立の事情・過程はまったく異なるが、
時代的にはほぼ同じである。そして、
ヌルハチが明国に対して反旗を翻し抗戦することができた一因に、
秀吉による文禄・慶長の役に明が忙殺されてたことがある。が、
それでも天下の明である。東夷北狄が容易く討てる相手ではない。
どこかの書評で广KO大准教授などという偉い先生が
<ホンタイジが北京に入城したとき>などと誤認してたが、
ヌルハチ→ホンタイジ、という「2代」までは、
女真族後金は山海関を越えることはなかった。
叔父の摂政ドルゴンに連れられた3代の幼帝順治帝のときに、
初めて清は明の都北京に入ったのである。そして、
以降、中国を満州女真族が治めるのである。順治帝は
「12歳からの親政」を経て、23歳で突然消える。
皇帝の地位を捨て愛人との生活に入ったのか、
福臨門のコックになる修業を始めたのか、
天然痘で死んだのかは、
西片凌女史とアムロちゃんの顔の区別もままならない
拙脳な私には知るべくもない。満州族は
漢民族に辮髪を強制した。が、信教は自由にした。
これを、我々エセ歴史学者は
「意思だジュンチテイによる『フリンは満州文化だ』」
と言ってるのである。それはともかく、
「ヌルハチの都」では、ヌルハチとホンタイジが築いた
「満州時代」の清の都と政治体制についてが
詳細に見聞・研究されてる。なにしろ、
清という国は、人口比100対1以下の満州女真族が
漢民族を支配した、という恐るべき国家なのである。
そんな彼らからは学ぶことが大きい。
明の属国だった李氏朝鮮は「忠義に厚く」大清国に楯つく。が、
ホンタイジが派遣した女真族にコテンパンにやられてひれ伏すと、今度は
大清国に忠誠を誓うのである。同様に、近隣の諸民族も
飲みこまれてくのである。が、ものすごい版図に広がった大清国も、
やがては衰退し、英国によって食い物にされ、
明治政府の日本にも負けてしまう。李氏朝鮮の独立は、
日清戦争戦勝国の日本が清に対して要求した条項のひとつである。
現在のチベット問題も、清朝によって従えられた同族が、
辛亥革命以降、中国共産党にもそのまま継続して
帰属させられたことに起因してるのである。また、
いわゆる「チャイナ・ドレス」は漢民族のものではない。
もともとは満州族の民族服なのである。食事の帰り、
大学生の女の子を送ってくとき、現在は
中華人民共和国大使館となってる前の道を通って、
そこが旧満州国大使館だったこと、そして、その前は
東京市長で東京の都市再開発に関わった
後藤新平の邸宅だったことを教えてあげた。
後藤新平の末期の言葉は、
「金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ」
というものだったそうである。
私は下の下の下、ということになる。が、
カルビは特上を食った。
100円で買えないことは言うもでもない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「チャイコフスキー『1812年... | トップ | 「エカチェリーナ・マクスィ... »

コメントを投稿

語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ」カテゴリの最新記事