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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「The Man Who Shot Jack Palance(ジャック・パランスを撃った男)/アラン・ラッド没後50年」

2014年01月29日 23時48分40秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
本日は、米映画俳優の
Alan Ladd(アラン・ラッド、1913-1964)が死んで
50年の日にあたる。昨年死んだ
Julie Harris(ジュリー・ハリス)女史
(cf;「映画音楽『エデンの東』(ヴィクター・ヤング編曲)/ジュリー・ハリスの死にあたって」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/df7c4a9ee555418a536986cc0e7efd44 )が
TVスィリーズ「コロンボ」の
"Any Old Port in a Storm(邦題=別れのワイン)(1973)"
の中で、夜分に自宅にまで捜査に来たコロンボに対して、
10時からアラン・ラッドの映画を観たいんですけどと
いやな顔をする場面があった。その映画は
グレアム・グリーンの小説"A Gun for Sale"を映画化した
"This Gun for Hire(1942)"
というフィルム・ノワールで、(対戦中につき)日本未公開作品である。
ヴィデオ化されて「拳銃貸します」という邦題がつけられた。が、
それらは出放題の誤訳である。
Gunは銃そのものではなく「ピストルを使う殺し屋」という意味の名詞、
for Hireまたはon Hireで「雇われてる状態」を表す副詞句、で、
拳銃を貸すわけではない。もっと高度な(higher)な意味である。
原作のほうも「拳銃売ります」などと訳されてるが、
「拳銃での殺し屋、仕事受付中」という意味である。映画も
「拳銃の殺し屋として雇われてるのはこの男だ」
というような意味である。ともあれ、
この映画の女性主人公役ヴェロニカ・レイク女史は
殺人の依頼者に騙されて警察に追われるアラン・ラッドを
"助ける"という役柄なのである。コロンボの中のハリス女史も同様に
犯人ドナルド・プレザンスを庇う証言をして妻の座を得ようとする。が、
それくらいだったら捕まったほうがいい、
嵐のときには選り好みできないのだから
どんなにしょぼい港でもいい(だろうか、いや違う)、
というように、プレザンスはコロンボにお縄になるのである。つまり、
同じく男を助けるとはいっても、レイク女史のほうは、
地味で辛気くさい設定のハリス女史のキャラとは正反対の、
セクスィな女という設定なのがウィットである。

ともあれ、
アラン・ラッドといえばやはりなんといっても
"Shane(邦題=シェーン)"(1953)である。カムバック! である。
カムバックでもいい、逞しく育ってほしい、である。
帰ってこいよ、である。松村和子女史、ではないである。
"Shane(シェイン)"とは、Johnのケルト族における呼びかたである。つまり、
ヨハネなのである。預言者なのである。シェインとは、
悪辣な家畜業者Ryker一家を撃ち殺して、
このワイオミングの善良な開拓者たちに神の意志を示し、
自らは犠牲となって消え去る預言者だったのである。ちなみに、
NYの刑務所であるRikers Islandは、Rikerと改名した
オランダ人入植者Abraham Rycken(アブラハム・ライケン)の子孫から
NY市が1884年に購入して以来刑務所の島となってる。ひょっとしたら、
この映画の悪役の名はここから採ってる(iをyに替えて)のかもしれない。

精神的に問題があったアラン・ラッドの代表作となった「シェーン」だが、
ディレクターのジョージ・スティーヴンズは、「陽の当たる場所」で起用した
モンゴメリー・クリフトをシェイン役に、ウィリアム・ホウルデンをスターレット役に、
キャサリン・ヘプバーン女史をその夫人役に想定してた。いずれにせよ、
スティーヴンズは「ジャイアンツ」のジェイムズ・ディーンといい、
実生活でも危うく脆く常に影が付きまとう俳優を好んで起用した。
この映画の最後でシェーンはヴァン・ヘフリン扮するスターレットに代わって
ライカーとその用心棒ジャック・ウィルスン(ジャック・パランスが演じてる)を
ボブ・マンデンとまではいかないまでも
「超早撃ち」で仕留める。が、
実際にはアラン・ラッドはリヴォルヴァーをほとんど扱えなかったという。劇でも、
二階に潜んでたライカーの弟のモーガンのショットガンに撃たれてしまうのである。

"Shane, look out!"
と叫ぶジョウイ少年の声で振り向きざまに撃ち返して仕留めたものの、
自らも被弾してしまう。
悪党を仕留めて去ろうとするシェインにジョウイ少年はここに留まってと言う。が、
"Joey, there's no living with, with a killing.
There's no going back from it.
Right or wrong, it's a brand, a brand that sticks. "
「(拙大意)ジョウイ、人を殺したらお終いなんだ。
もう取り返しがつかないんだよ。
どんな理由があったとしても、人殺しっていう烙印は一生消えないんだ」
とシェインはジョウイに悲しい目で訴える。そして、こう続ける。
"There's no going back.
Now you run on home to your mother and tell her,
tell her everything's alright,
and there aren't any more guns in the valley."
「(拙大意)だからもう君の家には戻れないんだ。
さあ、早く家に帰ってお母さんに知らせるんだ。
全部片付いたよってね。
この(山間の村)あたりにはもう銃で脅かされる心配はなくなったってね」
そう諭すシェインにジョウイは縋る。が、
"Shane, it's bloody. You're hurt."
「(拙大意)シェイン、血が出てるよ。撃たれちゃったの」
とシェインが銃弾を浴びて深傷を負ってることに気づく。が、
" I'm alright, Joey.
You go home to your mother and your father.
And grow up to be strong and straight.
And Joey, take care of them, both of them."
「(拙大意)おじさんは大丈夫だよ、ジョウイ。
お母さんとお父さんが君の帰りを家で待ってるぞ。
いいか、強いまともな大人になるんだぞ。
それからな、ジョウイ、お母さんとお父さんを大事にするんだぞ。
お母さんもお父さんも二人ともだからな」
とシェインは騎乗で気丈に振る舞うのだった。その言葉にジョウイは、
"Yes, Shane."
「(拙大意)うん、わかったよシェイン」
と素直に頷く。が、
強いと信じてたシェインが撃たれてしまったことに動揺の色を隠せない少年は、
"He'd never have been able to shoot you ... if you'd have seen him."
「(拙大意)あいつはシェインを撃つことなんかできなかったよね……シェインにあいつの姿が見えてたら」
と悲痛な疑問をぶつける。が、
"Bye, little Joe."
「(拙大意)じゃあな、可愛いジョウ」
とだけシェインは穏やかに別れの言葉を口にするのだった。
まともに対決したらやつには抜く暇もなかったさとはっきりと言ってほしかったジョウイは、
"He never even would have cleared the holster, would he, Shane?"
「(拙大意)あいつはベルト(ホウルスター)から抜くことさえできなかったよね、そうだよね、シェイン?」
と食い下がる。が、
シェインはもう何も答えず、その背中は次第に小さくなって遠ざかってくのだった。
そして、あの有名な、
「シェイン、カム・バック!」
という呼び声がこだまするのである。
シェインを乗せた馬は小高い丘に進むが、すでに馬上のシェインに生気はない。そして、
そのシェインと馬が墓場を進むところでディ・エンドとなる。

この一巻の終わりの場面で、ヴィクター・ヤングの
"The Call of the Faraway Hills"(邦題=遙かなる山の呼び声)
が感動的に被されるのだが、この主題は、
♪ドー<ミ│<ソーー・ーーー・・ーーー、・>ドー<ミ│
<ラー>ソ・ーーー・・ーーー、ドー<ミ│
<ソーー、・<ラー>ソ・・<ラーー・ーー>ソ│
<ラーー・ーー>ソ・・<ラー>ソ・>ミー>ド│
<レーー・ーー・・ーーー・ーーー│
ーーー・ーーー・・ーーー、レー<ミ│
<ソーー・ーーー・・ーーー・ーーー│
ーーー、・<ラー>ソ・・<ラーー・ーー>ソ│
<ラーー・ーー>ソ・・<ラー>ソ・>ミー>ド│
<レーー・ーー・・ーーー、>ドー<レ│
<ミーー・<ソー<ラ・・>ソーー・ーー>ミ│
>レーー・レー<ミ・・>レー>ド・>ラーー│
<ドーー・ーーー・・ーーー・ーーー│
ーーー・ーーー・・ーーー♪
という、ラフマニノフばりに息の長いものである。が、前半は
【ド<ミ<ソ】と【ラ>ソ】が執拗に繰り返され
【ラ>ソ>ミ>ド】が添えられる。これはつまり、
♪【ド<ミー<ソ<ラーー>ソ>ミ>ド>ラ>ソソ】♪
というベートーヴェンの【レオノーレ】なのである。
レオノーレはフィデーリオという男に化けて夫を救う。
シェインはスターレット一家や村の民を"救った"のである。
後半の
【ド<レ<ミ<ソ<ラ>ソ>ミ】は、
やはり7人のマグニフィセントな男たちがメキシコの民を救う
「荒野の七人」でエルマー・バーンスタインが
♪【ドー・<レー│<ミー・<ソー・・ーー・<ラー│
>ソー・>ミー】・・>ドー・ーー│ーー、<ドー・・ドー>ラー│
>ソー・<ラー・・>ドー・<レー│ミー・>ドー・・ーー・ーー♪
と踏襲した。

アラン・ラッドは1962年に心臓を狙った拳銃自殺未遂を起こし、
その2年後、アルコールとドラッグを大量摂取して死んでるのを発見された。
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「フランキー・マシーンの妻の黄金の笛/エリノア・パーカー女史の死にあたって」

2014年01月04日 22時02分08秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
先月9日に、
著名な映画「ザ・サウンド・オヴ・ミューズィック」で
男爵夫人エルサ・フォン・シュレーダー役を演じた
Eleanor Parker(エリノー・パーカー、1922-2013)女史が
肺炎による合併症のために
パーム・スプリングズの医療施設で91歳の生涯を終えた。
高卒後にワーナー・ブラザーズと契約して、
1941年のエロウル・フリンがカスター将軍役で戦死する映画
"They Died with Their Boots On
(邦題=壮烈第七騎兵隊)"
に映画初出演した。が、
同女史のスィーンはカットされてしまった。もっとも印象深いのは、
1955年のフランク・スィナトラ主演の映画、
"The Man with the Golden Arm"(邦題=黄金の腕)
でのいわゆるシナトラの妻ザッジュ・マシーン役である。ちなみに、
音楽はエルマー・バーンスタインが担当してる。

パーカー女史も知的な顔の美人だったが、やはり、
男の性的な欲望をかきたてるタイプではない。
この映画の配役にもそれは如実に表れてて、
シナトラの愛人役キム・ノウヴァク女史のほうが
生物的な側面からは男好きがするのである。
そうした自分の特質を心得てか、パーカー女史は
美人ながらも演技派でもあった。フランキー・マシーン役の
シナトラは腕のいいカード・プレイアーだが、ヤク中だった。
足を洗ってドラマーになろうとしてたのだが、
パーカー女史はカード師として稼いできてほしいと思ってる。
シナトラが車で事故って下半身不随になってた……
のだが実はもう歩ける……のを
ヤクの売人に見られて階段から突き落として殺してしまう。
終い、それがバレて警察に連行される、というとき、
パーカー女史は裏手から逃げ、身障者用の
ホイッスルを吹きながら飛び降りて死ぬのである。
このときの顔の怖さといったら、
黒木香女史のホラ貝芸以上である。

(この映画の「フランキー・マシーンのテーマ」と、
ヤナーチェクの「スィンフォニエッタ」1楽章のファンファーレと、
「キューティ・ハニー」のテーマをミックスしてアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/jan-ek-bernstein-e-kamomeno
にアップしました)
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「Remember what I told you; Andante, very slowly!/ジョーン・フォンテーン女史の死にあたって」

2013年12月26日 18時09分03秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
去る15日に、英国人から米国人になったオスカー女優、
Joan de Beauvoir de Havilland
(ジョウン・ダ・ボヴワル・ダ・ハヴィランド)、いわゆる
Joan Fontaine(ジョウン・フォンテイン、1917-2013)女史が、
かつてクリント・イーストウッドも市長を務めたカリフォルニアの
カーメル(バイ・ダ・スィー)市の自宅で就寝中、
自然に心臓が止まって96年の生涯を終えた。
その本名から判るように、「風と共に去りぬ」のメラニー役、
Olivia de Havilland(オリヴィア・ダ・ハヴィランド、1916-)女史は
実姉である。ただし、映画界で超有名な
犬猿の仲でありつづけた。ケンブリッジ出の父親が
東京帝大のお雇い外人英語教授だったため、ともに
東京で生まれ、幼少期を現在スウェーデン大使館となってる
土地にあった邸宅で過ごした。フォンテイン女史はのちにも、
離婚して日本人家政婦と暮らしてる父がいる東京に戻り、
聖心女子学院と東京のアメリカン・スクールに通った。

本名のde Beauvoirはあのフランスの女流作家と同じ、
いわゆるドゥ・ボーヴォワールである。
ハヴィランド家は現在は英国王室属領となってる
ガーンズィー島出身である。イギリス海峡においてむしろ
フランスに近い位置にあり、実際、ノルマンディー公国の領土だった。
それがいわゆるノルマン・コンクェストで英国に帰属したのである。ちなみに、
この島は19世紀半ばにフランスの作家ヴィクトル・ユゴが
ナポレオン3世から逃れて"亡命"してた地である。それはさておき、
ジョウンの芸名であるフォンテインは、姉とかぶるために、やはり女優だった
母親が名乗らせなかったという噺もある。事実、
事実上離婚状態だった母のもとを離れて
父のいる日本に行ったのは妹ジョウンだけである。ともあれ、
そのフォンテインという名は、母親が再婚した、サンノゼの
ヘイル・ブラザーズ百貨店の共同経営者だった
ジョージ・ミラン・フォンテインの名である。ところで、
犬猿の仲で長寿まで競う形だった姉妹だったが、
父親も95歳、母親も88歳という長寿家系である。

さて、
ジョウン・フォンテイン女史といえば、
「レベッカ」、アカデミー主演女優賞を獲得した「断崖」、「ジェイン・エア」、
などをあげるのが普通かもしれない。が、
30歳を過ぎてからのB級映画(1950年制作)、
"September Affair(セプテンバー・アフェア=九月の情事。邦題=旅愁)"
が私はもっとも好きである。
フォンテイン女史はクラスィカル音楽のピアニストを演じてる。
音楽担当はフォンテイン女史がビング・クロスビーと共演した
「皇帝円舞曲」のときと同様にヴィクター・ヤングである。
妻子ある男性、デイヴィド役Joseph Cotten(ジョウセフ・カトゥン、1905-1994)、
いわゆるジョセフ・コットンの妻役には、後年(1989年)、
「ドライヴィング・ミス・デイズィー」で歴代最高齢のアカデミー主演女優賞に輝く
Jessica Tandy(ジェスィカ・タンディ、1909-1994)女史が、
薄倖の女性を演らせたら右に出る者なしな
マリア・シェルのような風貌で演じてる。

映画はライト兄弟のおかげで容易になった移動手段、
飛行機で隣席になったコットンとフォンテイン女史が搭乗した
ローマ発NY便が燃料ポンプの不具合で
ナーポリに緊急着陸したところから始まる。で、
修理を待つ間、二人はナーポリ湾の景観麗しいリストランテで食事。
戦死した米兵が置いてったレコードに聴き入る。
竹内まりあ女史ならぬクルト・ヴァイル作曲の"September Song"である。
イタリアだからどうせ修理は遅くなると思いきや、
予定どおりに離陸されてしまい、結局、
二人で本格的にナーポリやカプリ島を見物するのである。が、
乗るはずだった便が墜落して二人は死んだことにされてた。
そこで、別の人生をやりなおそうという、いかにも
安直な筋立てである。そして、二人は
フィレンツェに瞬間移動。まあ、
ナーポリとフィレンツェという"観光地"を巡る
名所巡り映画みたいな低級映画である。が、
だからこそ私のようなミーハーには向いてるのである。
フィレンツェのリストランテで二人はナーポリのを懐かしがる。
ピアノが置いてあったので、コットンはフォンテイン女史に
"September Song"を弾いてくれと言う。すると、
フォンテイン女史演じるマニーナのピアノに乗せて、
たまたま店にいたトリエステ駐屯の米兵が歌い出す。
結局はコットンは妻に見つかり、二人は米国に帰る。が、
NYカーネギー・ホールでのコンサートの後、フォンテイン女史は
次の公演先のフィラデルフィアへは行かず、
身を引いてラガーディアから南米へと旅立つ。
ジョセフ・コットンのエンディングはかくしてまたもや
女性が遠ざってくのである。

姉のオリヴィアもそうだが、この姉妹は
とても端正な顔立ちをしてる。知的でもある。が、
男の本能を喚起させる魅力というものではない。
その色気のなさがまたいいのである。
この映画の中でピアニスト役のフォンテイン女史が
コンサートで弾くのがラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」である。が、
マリアがアドヴァイスしたようには、ラフマニノフは遅く弾いてはならない。
映画の終わり近くでそのエンディング部分が演奏される。
(フォンテイン女史の死を悼み、
ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」第3楽章のエンディング部分を
再現してみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/rachmaninov-piano-concerto-2 )
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「Good-bye Mr.O'toole/ピーター・オトゥールの死にあたって」

2013年12月25日 18時17分07秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ
去る14日に、アイルランド出身の英俳優、
Peter O'Toole(ピーター・オトゥール、1932-2013)が死んだ。
「アラビアのロレンス」も「何かいいことないか子猫チャン」も
「おしゃれ泥棒」も「チップス先生さようなら」も
「冬のライオン」も、映画館では観たことがない。
ジェイムズ・ディーンと同様に、あの
エクセントリックな顔がまず虫が好かなかった。
本当はいい顔をしてたのだが。そんなまだ二枚目だった
若い頃なら「大岡越前」を加藤剛とダブル・キャストで演じれば
それも一興だったかもしれない。
オトゥール主演の映画を劇場で初めて観たのは、
「ラ・マンチャの男」だった。果たして、
マーイヤ・プリセーツカヤ女史とヘレン・ミレン女史の顔を
瞬時には判別できない拙脳なる私には
退屈きわまりなかった。が、
同人が名優だということは解った。
何しろあれだけ"異彩を放つ"のだから。まあ、
クセが強い舞台向きの俳優だったということかもしれない。
そんなオトゥールの主演作品の中では、上記の
「チップス先生さようなら」のときのが好きである。

そんなキャラをかわれてか、
グラナダTVの「プライム・サスペクト(第一容疑者)」スィリーズの
テニスン警視役を経て熟してから世界的女優となった
ヘレン・ミレン女史とともに、
正真正銘のポルノ映画「カリギュラ」にキャスティングされ、
出演したのである。
俳優の鑑である。
オトゥールをそれで少し好きになった。
老いてさらに異様な風貌となったオトゥールは、
TVドラマ「THE TUDORS 背徳の王冠」で、
常人を超えた風貌の教皇パウルス3世役で
"大物感"を醸しだしてた。

が、
おそらく、私だけでなく、日本人にとって、
この怪優の"インパクト"は、
平成4年に開業した佐世保の
「長崎ハウステンボス」のTVCMの、
大仰な演奏のチェロに乗って運河を行く
死に化粧のようなメイクの不審人物だったろうと思う。
そんなキモさハウス百テン万点の初老人を、
道端の美少女が大好きなおじさまに会えたのが
心からうれしいというように、
手を振ってゴンドラの行方を追うという、
奇妙奇天烈な絵は、まさに、
バブル崩壊ジャパンを象徴してるものだった。
CFの最後に怪人は園の名を口にする。
「ハウス・テン・ボーース」
なぜボを異様に伸ばすのか、よく解らないところがまた、
ミステリアスでキモよかったのである。
南無・アムステルダム、である。

(そのCMで使われてた大バッハのいわゆる
「無伴奏チェロ組曲第1番」のプレリュード(ト長調)を、
ピッコロ、フルート、オーボエ、イングリッシュホルン、
クラリネット、バス・クラリネット、ファゴット、コントラファゴット、
という「木管8重奏」にアレンジしたものを
こちらにアップしました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/bach-js-kamomeni-iwao-cello )
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「小津の魔法数使い/12という小津安二郎のドデカい奇妙な数字」

2013年12月12日 01時02分51秒 | 寝苦リジェ夜はネマキで観るキネマ

小津安二郎 数字 12


本日は、1863年12月12日にノルウェー人画家の
Edvard Munch(エドヴァルト・ムンク、1863-1944)が生まれてから
150年の日である。同人にはたしかに超有名な
「叫び」(全5点。1893年の油彩がもっともポピュラー)があるが、
「Munch(ムンク)とカイユボットと広重と富士とゴッホ没後120年展」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/aacd8ff026061f9f9e632deb3465d6d9
で少しふれたとおり、ゴッホやカイユボットの影響を大きく受けてる。
「叫び」の構図もカイユボットの構図のパクリである。
生年的にもはや写実絵画も印象派も時代遅れで、
不安・恐怖を題材にして自身も鬱っぽい芸風で生き残った
ニッチ画家である。病弱、精神に破綻をきたしてたといいながら
80歳まで生きながらえた。が、
その最期はやや悲惨だった。ノルウェーは第二次世界大戦で
ナーツィスに侵攻された。ムンクはオスロ近郊の家を砲撃され、
家に風穴があいてしま、地下室で生活することを余儀なくされた。
北欧の寒い1月、老体には過酷だった。
衰弱して心筋梗塞を起こして死んだのである。が、
その葬儀はナーツィスによって執りおこなわれたため、
ナーツィス協力者というレッテルを貼られてしまった。ともあれ、
「叫び」といえば「盗難」というイメージが強い。同じく「絵画盗難」といえば、
もっとも有名なのがレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。
1911年8月にルヴル美術館から忽然と姿を消した「モナ・リザ」が2年4か月後、
フィレンツェで犯人からウフィッツィに売却の話が持ち込まれて発見された。
そうしてルヴルに戻ったのが100年前の1913年12月30日のことだった。
ダ・ヴィンチといえば「12使徒」の動揺を描いた「最後の晩餐」でも知られるが、
ムンクは"Freia(フレイア)"というノルウェーのチョコレイト工場の工場長と旧知だったよしみで、
社員食堂に「12」枚の"壁画"を描き残してる。いっぽう、
ゴッホはアルルで「12」人の画家の理想郷を作ることを夢見た。
ゴーギャンしか来なかったが、「12」脚の椅子を用意してたのである。
「ひまわり」も「12」本のものが多い。ゴッホは牧師の家に生まれ、
牧師になれなかった落ちこぼれである。自分をユダに喩え、
その服飾色である「黄」のひまわりを描いた。

日本では公家出身のくせに武者小路実篤が左翼思想に基づいた
「理想郷」を夢見た。武者小路や
日本の国語をフランス語にしろと書いたドアホウ
志賀直哉などが徒党を組んでた白樺派のひとりに、
里見とん(1888-1983)がいる。
(cf;「不良華族事件と里見トンのペンネイム(ゴンドラの唄スピンオフ:その1)」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/fd98b7a540b1a8ada1f3f1efae09e83e )
同人は有島武郎の実弟でもある。
母方の山内(やまのうち)家を継いだので、
本名は山内英夫である。同人と
"鎌倉仲間"だったのが映画監督
小津安二郎(おづ・やすじろう、1903-1963)である。同人は、
「12」月「12」日に生まれ、還暦を迎える年の「12」月「12」日に死んだ
ゾロ目男である。ベヴィ・スモウカーらしく、喉頭癌に冒された。また、同人は
生涯「独身」だった。といっても、
容姿・人格がキモく頭髪も稼ぎも薄い私とは違って、小津は
洒落者で顔も整ってた。だから、モテたらしい。そのいっぽうで、
同性愛者だったという説もある。
里見とんには実際、少なくとも精神的にはそのケがあった。
兄有島武郎や有島生馬同様、里見とんも美男の部類に入る。
里見とんの四男坊で松竹映画のプロデューサーだった
山内静夫は現在88歳で健在であるが、やはり
美男(ナベツネを柔軟剤に浸けて品よくした感じ)である。

小津は戦前戦後を通じて54本の映画を撮ったらしい。そのうち、
最後の6作がカラーで、それより前はすべてモノクロだった。この頃、
ドイツのアグファ社の20年の特許権が消滅したのが、
各社総天然色に移行するきっかけとなったのである。そして、小津の
最後のモノクロが1957年(昭和32年)の「東京暮色」であり、
最初のカラーが1958年(昭和33年)の「彼岸花」だった。この
「モノクロ」→「カラー」
という変革作品それぞれに、小津は
「共通」の記号を配置した。「12」である。

JR東日本が3日前に、
上野駅と東京駅とを結ぶ新線「東北縦貫線(愛称は「上野東京ライン」)を
平成26年度末に開業すると発表した。これによって、
上野駅が終点だった東北・常磐・高崎の各3線が
東京駅まで乗り入れる形となるらしい。

モノクロ最後の「東京暮色」の終わりから2つ前のスィーンを、
北海道に帰る山田五十鈴とその相方中村伸郎が
上野駅の「12」番線、21時30分発急奥羽線廻り青森行き津軽号
に乗車させる演出にした。山田の実の娘のひとりである
原節子はついに見送りに来なかった、という場面である。そのとき、
プラットフォームでは明治大学の学生が同大の応援歌で
仲間を見送ってる箇所がある。小津は明大とは無縁だが、
現在の江東区深川で生まれた。
海辺橋の南、採茶庵のもう少し葛西橋通り寄りである。そして、
10歳で父の故郷である三重県松阪市に移るまで、
現在も存続してる公立の「明治」尋常小学校に通ってた。また、
盟友里見とんは40代のときに新設された明大文学部の
教授になってた時期があったのである。ちなみに、
この映画もその倅山内静夫がプロデューサーである。

片や、
カラー最初の「彼岸花」(これも山内静夫がプロデューサー)の初っ端のスィーンは、
東京駅「12」番線、15時21分の伊東行きの湘南電車が出たあと、
掃除人のふたりによる、新婚旅行に向かう花嫁たちについての
品評辛口問答である。当時の東京およびその周辺の新婚の
ハネムーンは熱海・伊豆がオーソドックスなものだったのである。ともあれ、
かようにして、小津は自らの生誕日である
「12」にこだわった演出をした。まるで、
仕様を替えたG1レイスで変更前年と変更後年に
同じ枠や馬や馬主や騎手や厩舎を起用するJRAのようである。

小津にはキリスト教への傾倒はなかったとは思うし、
この映画にもそうした宗教色はまったくないのだが、
「彼岸花」の里見とんの拙い原作小説には
「キリスト教」というキーワードが出てくる。
主人公平山の旧友三上の娘文子は映画では
本物の公家(明治には華族久我(こが)侯爵家)の生まれである
久我美子(こが・はるこ。芸名読みは、くが・よしこ)が演じて、
家出して男と同棲してスナックで働いてるが、原作では
同棲してた男が死んで平山に金銭援助を頼みにきたり、
修道院に出家してしまうつもりだから身元保証人になってくれとか、
キリスト様と結婚する道を選んだんです、みたいな話になってる。
里見とんの実兄有島武郎は人妻と不倫して
その夫に脅迫されて追いつめられて首吊り心中をした。
プロテスタントとはいえ、原則的には不倫も自殺も禁じられてるはずの
クリスチャンだったのに、である。また、
京都の浪速千栄子が娘山本富士子の縁談の工作に東京の病院へ
人間ドッグに入りにくるのだが、その病院が築地の、
もちろん、中沢新一が教義を指導したといわれる
オウムのサリン事件で治療にあたった新築の建物ではない
旧「聖路加国際病院」(聖公会)なのである。それから、
「彼岸花」の最初のほうの、中村伸郎の次女の結婚披露宴のスィーンで、
田中絹代:「三上さん、お見えになってないわね」
佐分利信:「うん。どうしたのかな、三上」
北竜二:「うん、来てないね、三上」
というセリフを3人に続けざまに言わせてる。これは、
日本語の会話としてはじつに不自然なので、故意に
「三上」を「3回」言わせてるとしか思えない。
(三上は笠智衆の役名)

それにしても、
セリフも不自然きわまりない拙い台本だったとはいえ、
当時の日本の演劇界はドヘタばかりだった。
「東京暮色」では中村伸郎、杉村春子の文学座組と山田五十鈴、
「彼岸花」では浪速千栄子、山本富士子、中村伸郎、十朱久雄、
以外は大根役者しかいない。ただし、
笠智衆はその大根ぶりが実直な日本人の姿をよく表してて
胸を打つのである。

さて、
映画にはタイトルの「彼岸花」は金輪際出てこない。が、原作では、
文子に会ってきた三上の妹が三上にその話をするときに、
こんなふうに「彼岸花」が登場する。三上の妹が
文子の大森のアパートから鎌倉の三上の家まで戻るときの話である。

[「あのね、往きには気がつかなかったんですけど、
帰りの電車で、程ケ谷へんからかしら、
あっちこっち、真ッ盛りの彼岸花で、それを見てるうちに、
……すうすうすうすう背後に流れて行く紅いもんが、だんだんぼやけだして、
……あんな華美な色で、どうしてこうも、
……いいえ、ちっとも悲しいわけじゃアないんですけど、
どうしてだか、へんに涙が零れちゃってね……」
「ふーん、彼岸花でなア」
 次第に兄妹の眼前を、にじんだ紅さがいっぱに立ちこめて行った。]

昭和23年、皇太子(現、今上天皇)御誕生記念日である12月23日に
東條英機以下7人の絞首刑を池袋の巣鴨プリズンで執行した戦勝国軍
(つまり、天皇陛下の身代わりとして
この7人のA級戦犯を死刑にしたんだぞ、という脅し)は、
神奈川県横浜市保土ヶ谷区の
久保山火葬場でその遺体を火葬し、その遺骨を遺族に返さず、
勝手にどこかに散骨したという(つまり、捨てた)。
彼岸花は全部が有毒で、とくに鱗茎は猛毒である。
「死人花(しびとばな)」とも呼ばれる。
6枚の花弁をつけるがその染色体は3倍体なので減数分裂ができず、
種で増えれない、という花なのである。

小津は初めてカラーで撮るにあたって、米国イーストマン・コダック社製でなく、
ドイツ・アグファ社製のフィルムをあえて使った。そのため、
全体の発色が"くぐもった"感じになってて、
カラー作品とはいえ、侘び寂びの趣である。ただし、
赤い小道具をこれでもかこれでもか、というほど
小津は画面に配してもいるのである。

また、
佐分利信の旧制中学の同窓会では、笠智衆が詩吟を唸ったあと、
皆で唐突に唱歌「桜井の訣別」を歌い出す。
小津は少年の頃、尾上松之介のチャンバラ映画を観て、
映画好きになったという。尾上松之介は初期の主演作
「石川軍記」で楠木正具役を演じたとき、目をかっと見開いた演技をした。
そこから「目玉の松っちゃん」と呼ばれるようになった。
小津はこういうのが好きだったのである。ともあれ、
その「楠木」は正成・正行父子の「楠木」と血縁関係はないものの、
ひょっとしたら小津は同族と思いこんでたのかもしれない。

モノクロ最後の「東京暮色」では笠智衆の次女役有馬稲子が
踏切に飛び込んで電車にはねられて死ぬ。いっぽう、
カラー最初の「彼岸花」では今度は長女役有馬稲子が
佐田啓二と結婚することに猛反対だった佐分利信が
二人を許して広島に会いに行くという
列車のスィーンで終わりとなる。が、
実生活では子がいなかった小津は、映画では
娘が結婚であれ死であれ父から離れてく際の悲しみを題材にした。
実生活で長年同居してた母親が死んだ翌年、小津は
御茶ノ水駅を眼下に見る東京医科歯科大病院で、
誕生日である「12」月「12」日に死んだ。というわけで、
本日2013年12月12日は、小津安二郎の
生誕110年、および、没後50年の日にあたる。その死はちょうど
60歳となった日であり、ドロシー・ゲイルのように
「12」歳ではなかった。だから
小津の墓はエメラルド・スィティでも小日向でもなく
北鎌倉(鎌倉市山ノ内)の円覚寺にある。ちなみに、
一列おいた列の同じく端には、やはり同性愛者説があった
木下恵介の墓がある。
「二人の世界」があるから、だから強く生きるんだ。が、
竹脇無我ではなく、小津の墓石にはただ
「無」と書かれてるだけである。
コメント
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