チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「カイユボット『ヨーロッパ橋』に見る、歌川広重『東海道五拾三次日本橋朝之景』性」

2014年01月05日 21時50分02秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

カイユボット ヨーロッパ橋


昨日の深夜からの新年会で夜明かししたので起きたのが
14時だった。それからシャワーを浴びて軽く飯を食って、
TVをつけたらちょうど競馬中継をやってた。今年は金杯で
中山に行く気もなければ買う気もなかったのだが、
京都10Rの発走直後の2頭の落馬を観て感じるものがあった。
落ちたのは武「幸」四郎騎手と藤岡「康」太騎手だった。
「コウ」-「コウ」である。
裏の中山のメインはゾロ目か?
ネットを立ち上げてみると急遽、買う気が起きた。で、まず、
中山の金杯のデンマヒョウを見た。締切まであまり時間がなかったので、
安直に人気馬2頭が揃った4枠のゾロメを普通馬連で買った。それと、
「金」杯は毎年なにかしら「金」に関連する馬名のようなものが
連体するので探したらなく、わずかに
前走が「金」鯱賞10着馬がいたので、その
03番の複勝も買った。すると、
その03番が勝って同枠の04番が2着に突っ込んできた。
ヤラレた!
2枠のゾロメだった。
とはいえ、複勝は当たった。配当3.3倍。で、欲が出て、
京都金杯まで買う気になった。
中山の勝利ジョッキーが外人ベリーだったから、
ひょっとすると京都もか、と思って、
02番ルメールから人気馬に普通馬連を8点流した。すると、
しんがりから3番手あたりから直線内をついて
糸で引かれるように02番が伸びてきた。そのうしろから
1番人気の06番がやはり追い込んできた。
02-06が的中。ヒモが1番人気馬ながら、
配当はなんと24.7倍。昨夜かかった飲み代を一気に
ポンとうかせてしまった。
こいつぁあ銭を張るから縁起がいい。

昨年の10月10日というゾロメ日付から
日本橋(というか東京駅八重洲口の正面)の
ブリヂストン美術館で開催されてた
「カイユボット展 都市の印象派、日本初の回顧展」は
12月29日が最終日だったらしい。
ブリヂストン美術館はその名のとおり、
貶日売国奴国賊の鳩山由紀夫の母方の石橋ブリヂストンなので、
万が一にも拙ブログを見て観にいくような奇特なかたがいて
国賊一家を少しでも潤すことがないように、その
閉幕を待って話題に取りあげることにしてた。とはいえ、
かく言う私は、友人からタダ券をもらって
ちゃっかり観にいってきてたのだが。

まず、
西洋美術専門家もそう色分けし、一般にもそうすりこまれてる
「カイユボット=印象派」
という認識は、印象派展に数度出品した画家とはいえ、
画風・絵画思想からいえば正しくない。
「印象派」とは、
「脱貴族趣味」「脱宗教画」「向世俗」「向リベラル思想」で
「光の移ろい感」というお題目で絵画などわからぬ
ブルジョワ以下の庶民に絵を売り、
世間的に名を売ることを本願としてた
商業的なミーハー画家モネのことを指す語である。

カイユボットは父親が残した遺産で、
絵を売らなくても生活できるどころか、
金など有り余ってる、その生い立ちはマネ以上の
お坊ちゃんである。しかも、一般学問は苦手な
不肖の息子だったマネとは違って、カイユボットは
きっちりと弁護士資格まで取った秀才でもある。

ともあれ、
カイユボットは同じく裕福な家の倅であるマネがこじ開けた
「絵画の革新」という扉に大きな影響を受けた。
それはモネもルノワールもみな同じだったのだが、
カイユボットはマネ同様にその扉周辺で戯れることに
生きがいを感じる教養人であって、けっして
扉の中の世界の奥深くまでは
足を踏み入れはしなかったのである。
モネはその扉の中の世界のひとつである
絵で金儲けという分野に邁進し、大成功を収めた。
セザンヌ、さらにブラックやピカソはキュビスムの分野を開拓し、
芸術の至上意義である「感動」の美術における終焉を担った。

19世紀半ばの他のフランスの画家らと同様に、
カイユボットは写真機と"ジャポニスム"の洗礼を受けた。
現代のいわゆる広角レンズによる
コンパクト・カメラが切り取る世界が、
浮世絵の世界とほぼ重なるのである。
パンフォーカス的で平面的な描写、
スナップ写真的な画面の切り取りかた、
さらには大胆な構図(ズームアップおよびパノラマ、
俯瞰、低位置から見上げる構図)、デフォルメ。

さて、
前述の「カイユボット展」では、
ありふれた題材ながら
ジュヌヴィリエの風景を描いた諸作や、
「キンレンカ」、「ヒナギクの花壇」、
「上から見下ろした大通り」など、
カイユボット好きにはたまらないものが展示されてた。が、
やはり何といっても、1876年制作の
"Le Pont de l'Europe(ル・ポン・ドゥ・ルロプ=ヨーロッパ橋)"
(ジュネーヴのアソスィアスィオン・デ・ザミ・デュ・プチ・パレ所蔵)
が目玉だっただろう。

印象派が"風景画を描くように"なって、
橋もその題材とされるようになった。が、
離れた位置から橋全体を描くことはあっても、
この絵のように橋にさしかかった地点から
橋を中心にした視点で眼前に広がるものはほとんどない。
日本画でも同様で、俯瞰図や横から全体を眺めたものは多いが、
橋の上を近くからの視点で描いたものは少ない。が、
その代表的なものは超有名な、
歌川広重の「(東海道五十三次の)日本橋」である。ちなみに、
終着の京師(京都)三条大橋の斜め上からの
俯瞰との対比の妙が粋である。

この版画絵の日本橋は現在の橋とはやや位置が異なるが、
概ね同じと考えてさしつかえないので、
現在の橋に置き換えて話を進める。
現在の中央通りが東海道と思っていただいて結構である。
橋の南詰方面(白木屋側)から北詰(三越側)方向を見た図である。
南詰の西側に高札があり、その先に河岸があり、
仕入れた魚や青物を天秤棒に担いで橋のたもとまでやってきた
魚屋八百屋連中が、おりしも、
北詰方面から東海道に向かって国許に戻る大名の行列が
アーチを描く橋のに延々と連なってきてしまったので、
こんちくしょう、間が悪りーな、とばかりに、
河岸方面に退いてるところである。
日本橋より北側に上屋敷がある西方面の大名といえば、藤堂や立花など
数少ないのでどの大名の行列かは推定できるかもしれない。が、
京本政樹と秋野暢子女史の顔を暁七つには判別できない
拙脳なる私には特定できない。ともあれ、
西国大名の参勤交代は基本的に3月4月(現在の4月5月)である。
陰暦では夏でも冬でも夜明けが明け六つなので、
それなりにおてんとさんは出てる時刻である。
遠景に朝焼けの赤い空が描かれてる。それと対照的に
手前には開けられた木戸が大きく描かれ、
開けられたばかりの早朝という感じをかもしだしてる。
カイユボットも含め、当時のパリのフランス人画家連中は
木戸というものを知らなかったに違いない。ともあれ、
画面右手前には犬が描かれてる。当時は
主殺し・女犯僧・心中者(生死を問わず)が晒された
晒し場だったところである。
それも知らなかっただろう。が、いずれにしても、
この版画絵の時代が1830年代だということは認識してただろう。
大名という、フランス人にしたら騎士貴族身分と解される一行と
魚屋や八百屋といった庶民、さらに
犬というペット小動物が同じ橋やそのたもとを行き交う、
という"時代"は感じたかもしれない。別ヴァージョンの「日本橋」では、
南詰にもっと多くの江戸商人・旅人らがいるが、
基本は同じである。

以上がざっと広重の「日本橋朝之景」である。いっぽう、
カイユボットの「ヨーロッパ橋」は、手前右から、
いわゆるウィーン通り、マドリード通り、コンスタンティノープル通り、
向こう左から、サン・ペテルブルク通り、リエージュ通り、ロンドル(ロンドン)通り、
という6つの通りが収斂して広場になってる箇所なので、
ヨーロッパ橋という名が附いてる。
その下にはもうすぐ南にサン・ラザール駅となる線路が走ってる、
というロウケイションである。つまり、
この絵は南南西から北北東に向かった視線で描かれてる。
画面向かって右手の、欄干に肘をついてる男は
サン・ラザール駅を眺めてる、ということになる。が、
カイユボットは人物や犬や欄干の影の向きや長さを統一してないので
太陽が高い位置にも思えるし、それほどでもないともとれる。つまり、
整合性がなく、時間帯や季節がいまいち判然としない。ともあれ、
手前に誇張された上下欄干の各平行線はいずれも、
シルクハットの男性の顔に消失する。この男性の顔はカイユボット自身なので、
この絵は風変わりな自画像とスキャンすることもできる。

ともあれ、
1)橋の上をほぼ正面から(南詰から)近景で描いてる共通点
2)手前に開いてるデフォルメされて大きく描かれた木戸、に対し、
 手前に寄るほどにデフォルメされて大きく描かれた欄干、
3)橋の上やたもとにさまざまな身分(階層)の人物が配されてる共通点
4)にもかかわらず誰一人目線を合わせてないという共通点
5)画面手前に犬が描かれてる共通点
という、実に多くの類似した特徴が広重からカイユボットの脳に
インスパイアされてちりばめられてる。
ジャポニスムの塊なのである。マネやカイユボットの絵は、
意図も寓意も思想もなく、ただだた、庶民受けするような
心地好い明るい彩りで見てくれだけを糊塗した
安っぽいモネの絵とは、まったく違うのである。
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「Parisの審判とマネの右手の法則/草上の昼食(エドゥアール・マネ画)」

2013年12月29日 23時08分06秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

エドゥアール・マネ 草上の昼食


今年は、
"Edouard Manet(エドゥワル・マネ、1832-1883)の
"Le Dejeuner sur l'herbe(ル・デジュネ・スュル・レルブ=草上の昼食)"
が完成されて(1863年)から150年の年だった。現在、
新展示なったオルセー美術館の目玉作品となってるが、
官展である1863年のサロンに出品して落選となった。
現実の女性の裸を描いたことが不道徳極まりないとして、
落選展でもプロ・アマから非難を浴びた。

マネの絵では晩年の「フォリ=ベルジェールのバール」がもっとも好きだが
(cf;「フォリー=ベルジェールのバー/マネによるキュビスムの萌芽」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/c037e2612965b6281c70b37166fff531 )
「草上の昼食」にも強烈に惹きつけられる。
虚心坦懐に観ててもジーンとくる感動的な絵である。が、ともあれ、この絵は、
ルヴル所蔵のジョルジョーネ(最近ではティッツァーノ作とされてる)の「田園の合奏」に、
ラファエッロの「パリスの審判」をもとにした
マルカントニオ・ライモンディの銅版画の右下の3人を素材にして、
アガサ・クリスティが「エルキュール・ポワロ」の
"Lord Edgware Dies(邦題=エッジウェア卿の死)"でネタにした、
ギリシャ神話のパリスと語源は別ながら同じスペルの町である、
大改造されつつあるパリ(Paris)の当時の
現実を象徴的に描いた絵画である。

「3人」ということにまず、
「キリスト教」を連想させるようになってる。が、
後方の川にもう一人、沐浴をしてる白い衣服の女性がいる。
キリスト教においては沐浴は洗礼である。その女性の上には
【赤い】鳥が描かれてる。ステッキを左手に持つ男性の右手の
親指がその沐浴をする女性を通過した先に
指し示してるアトリビュートである。いっぽう、
人差し指の先には裸の女性を透過して絵の左下の
赤(聖母マリアの服色=神聖な愛)とは補色関係にある遠い色である
【緑の】蛙を指し示してるのである。
神聖な愛の正反対の色ということは、
下世話な性欲を表してるということである。すなわち、
親指の指す方向は、
川の中→セーヌの中之島→シテ島のノートルダム寺院とその北北西の
ヴァンドーム広場前の破毀院の象徴であり、
パリ(シテ島が町の発祥といわれてる)から西南西の、
当時はもうなくなってたブルボン朝のヴェルサイユ宮殿であり、
人差し指の指す方向は、
Maitresse royale(メトレス・ロワイヤル=公妾)が堂々と存在した
それは腐敗の象徴であった。

画面全体は深い緑の森に囲まれてる。が、
この指が指し示す二方向は白や明るい色が配されてる。
かつ、後方の白衣の女性よりも、手前左の裸体の女性のほうが、
はるかに明るく描かれてる。つまり、
キリスト教の戒律よりも現実の性風俗のほうが脚光を浴びてる
現実を映し出してるのである。

かように、マネの絵というものは意味深く、
単に屋外の"移りゆく光の中の一瞬を切り取った"という
だけの印象派といわれるモネやルノワールのような、
商業的な絵とはまったくその意義を異にしてるのである。
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「さざなみの水面の点描の妙/ポール・シニャック生誕150年」

2013年11月11日 16時10分13秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

ポール・シニャック 生誕150年


本日は、
点描画法で知られる新印象派の画家、
Paul Signac(ポル・シニャキ、1863-1935)の
生誕150年にあたる日である。
若死にしたスラが開拓した点描画法を継承し、
かつ先人を超えなかった奥ゆかしい人物である。
スラやゴッホやゴーギャンなどと違って、
人間関係を通常に築ける常識人だった。
海を愛し、サントロペの海岸でヨットに興じ、画作もする、
といった、ごく一般的な人物だった。
ということで判るように、
スラのような理論派でもなく、画風も
言葉は悪いがちゃちなものだったが、
その中にときどき光るものがある、
というレヴェルの画家である。そのいっぽうで、
対象物を点にぶっこわして絵画に再構築する、という画作ゆえか、
政治思想的には同じく点描芸風のピサロとともに
無政府主義者だった。とはいえ、
仕事に穴を開ける、といった芸風ではなかった。

シニャックの作品は多いはずで、東京でも
国立西洋博物館、松岡美術館、ブリジストン美術館が
それぞれ1枚ずつ所蔵してるが、それでも、
個人蔵が多くを占めてるのでポピュラーではない。
フランスの最西に近い、ビスケ湾のConcarneau(コンキャルノ)も、
シニャックお気に入りの港町だった。
そこでのレガッタやイワシ漁船などを描いた絵も、
ほとんどが個人蔵である。10年ちょっと前までは、
日本で"印象派展"の類が開催されても、
ごったがえす会場ではみなモネやルノワルに集中し、
カイユボットのコーナーには人はまばらだったものだった。が、
そのカイユボットが今では人気画家のひとりとなってる。
シニャックも所有してる個人がここ数十年で死んでって
美術館などに寄贈されるようになれば、ひょっとすると
もう少し知名度が上がって人気も出てくるかもしれない。

ともあれ、
そうした個人蔵のシニャックの絵……たとえば……
上記のようなコンキャルノの港の風景、
「コンキャルノーのレガッタ」「コンキャルノーのイワシ漁船」では、
紫の帆がおだやかな波の水面に映えるさまが、
絶妙な点描で配されてるのである。これはまた、
個人蔵のものだけではなく、オルセーに収められてる
"Bords de riviere, la Seine a Herblay
(ボル・ドゥ・リヴィエル、ラ・セヌ・ア・エルブレ=エルブレ近郊セーヌ河岸)"
という1889年に制作された絵や、
NYのMoMAに所蔵されてる
"Concarneau, Calme du soir(allegro maestoso).Opus 220
(コンキャルノー。キャルム・ドゥ・ソワル=夕方の静寂(アッレーグロ・マエストーゾ)、オピュス(作品)220)"、
"Concarneau. Peche a la sardine.Opus 221(adagio)
(コンキャルノー。ペシュ・ア・ラ・サルディヌ(イワシ漁)。オピュス(作品)221(アダージョ)"
という1891年に描かれたものでも、
見て取ることができる。
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「鳥と十字架/ジョルジュ・ブラック没後50年」

2013年09月01日 19時02分35秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

ジョルジュ・ブラック 没後50年


昨日は、
明治政府が迎えたお雇い外国人のひとりだった医者、
Erwin von Baelz(エアヴィン・フォン・ベルツ、1849-1913)の
没後100年にあたる日だった。
"Mongolenfleck(モンゴーレンフレック、Mongolian Spot=蒙古斑)の
命名者である。
草津温泉大好き外人としても知られ、また、
箱根富士屋ホテル滞在中に女中の手があかぎれてるのを見て、
グリセリンやエタノールを含む「ベルツ水」を処方したことでも知られる。

水仕事で荒れてしまったわけではないかもしれないが、
バルセロナのアビーニョ通りの売春宿で荒れた生活をしてた
売春婦たちを描いたピカソの
"Les Demoiselles d'Avignon
(レ・ドゥムワゼル・ダヴィニョン=アヴィニョン通りのお嬢さんがた)"が
西洋絵画におけるキュビスムの創始だといわれてるが、
昨日はまた、
ピカソとともにキュビスムの元祖とされる
Georges Braque(ジョルジュ・ブラック、1882-1963)の
没後50年にあたる日でもあった。キュビスムは、
その前衛性によって印象派にも多大な影響を与えた
マネが発見した多視点性、対象再構成性という新たな扉を、
セザンヌがこじ開け、ピカソとブラックがその中の世界に
飛び込んでった画法である。とはいえ、
ブラックはキュビスムだけの画家ではない。ピカソ同様、
デッサンの巧い画家だった。ときどき、
秀逸な"古典的"な絵を描いた。1946年に制作した
"Les Pavots...Vase a anse
(レ・パヴォ...ヴァズ・ア・オンス=ポピー(ひなげし)...取っ手附きの花瓶)"
のような、美術的史的には価値がない陳腐な作品ながら
黄色と深紅色の色彩配置の妙と抜群のデッサン力に基づく絵も、私は
大好きである。

braqueとは、
braquer(ブラッケ=目を向ける、銃口やカメラのレンズを向ける)という動詞の
直説法現在単数一人称および三人称の活用形なのである。
いろんな位置や時間からの視点で物をとらえるという
キュビスムの画家に生まれながらにしてなるようなサーネイムである。
私が若い時分には、ピカソの名は認知してても、
ブラックを知ってる者は、美術を専攻してる者でも少なかった。
かつて「まんがはじめて物語」のお姉さん役で知られてた
女子美出身の女優岡まゆみ女史がデビュー当時に好きな画家として
ジョルジュ・ブラックを挙げてたので驚いた覚えがある。

パリのルーヴル美術館のシュリー翼1階(日本式にいうと2階)の
第33番展示室(閉鎖されてることが多い)は、かつて、
アンリ2世の控えの間だった。その天井には、
ブラックの「鳥の絵」が3点描かれてる(1953年制作)。
( http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=16335 )
結果として、これらがルーヴルにある作品の中でもっとも新しいものらしい。
この独特の意匠の鳥(oiseau=オワゾー)を、晩年のブラックは多く描いた。
それがなぜかということは、
「あまちゃん」の能年玲奈女史と福士蒼汰の顔の違いが
なかなかに判別できない拙脳なる私には解りかねる。が、
ブラックのデザインした鳥は、
頭部と尾部、それにクロスする両翼、という
十字架なのである。
ピカソもブラックも、
本当のイケメンというわけではなかったが、
ともに大きな目をした高くて大きな鼻の、
存在感のある顔をした、女性ウケする男だった。が、
ピカソはスケをコマすことに精力を注ぎ、多くの女性を"鳴かせ"てきたが、
ブラックはただのダンディなシャレ者だったので、女たらしの罪滅ぼしに
十字架のフォルムの鳥を描いたわけでもない。
生まれたのが、アルジャントゥイユという、
Oise(オワズ。今年遷宮のオイセではない。
ゴッホの終焉の地オーヴェール・スュル・オワーズのオワーズである)県だったから、
というオヤジギャグではなかったことは確かである。

南仏ニースの西約12kmにあるSaint-Paul-de-Vence(サン・ポル・ドゥ・ヴォンス)の
マーグ財団美術館のチャペルの十字架のイエスの像の上には、
ブラックが最晩年の1962年に制作した、
"Oiseau Blanc et Mauve(オワゾ・ブロン・エ・モヴ=白色の鳥とゼニ葵色)"
というステンドグラスがある。この美術館は
美術収集家のエメ・マーグとマルグリト夫妻が、
1954年に11歳で死んだ息子ベルナルを偲ぶために
チャペルを建てたところに築いたものだったのである。いっぽう、
ルーアンの北約50kmにある、イギリス海峡の海沿い(いわゆるノルマンディ)の町、
Varengeville-sur-Mer(ヴァロンジュヴィル・スュル・メル)に、
ブラックと年上妻マルセルの墓がある。その墓石にも、
「鳥のモザイク」がはめ込まれてるのである。
トリにて、一件、落着。
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「十字軍のコンスタンチノープル占拠/ドラクロワ没後150年」

2013年08月13日 17時42分00秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる
「のらくろ」は田河水泡の漫画である。
のらくろはもともと野良犬ではあるが、
折り重なる革命派同胞らの死体の山を踏みつけて
民衆を導いたりはしなかった。本日、
2013年8月13日は、フランスの画家
Eugene Delacroix(ウジェヌ・ドゥラクワ、1798-1863)、
いわゆるウジェーヌ・ドラクロワの没後150年にあたる日である。
政治家ジャック・テュルゴの秘書官だったシャルル・フランスワ・ドラクロワの子、
ということになってるが、大物政治家で大貴族の
シャルル・モリス・ドゥ・タレロン=ペリゴル(いわゆるタレーラン=ペリゴール)の
隠し子だったというのが本当のところのようである。
容姿が似てるのと、ドラクロワが
なぜか画壇やフランス政府に優遇されたことが、
その裏付けの一部となってるという。たしかに、
古今東西の名を残してる絵描きの中で、
ドラクロワのデッサンほど目も当てられないほど
ヘタクソな者はいない。

加えて、
「ダンテの小舟」
「ミソロンギの廃墟に立つグレース」
「女とオウム」
「サルダナパールの死」
「民衆を導く自由の女神」
「ヴァイオリンを弾くパガニーニ」
「アルジェの女」
「怒れるメディア」
「新世界から戻ったコロンブス」
「トラヤヌスの裁定」
「十字軍のコンスタンチノープル占拠」
など、例の"三角構造"構図の
ワンパターンが特徴である。が、題材自体のドラマティック性と、
補色対比の妙がその欠点を補った画家である。いわゆる、
「ヘタウマ」の代表格である。

男装作家George Sand(ジョルジュ・ソンド、1804-1876)、
いわゆるジョルジュ・サンドと親交があり、また、
その相方だったフレデリク・ショパンとは
相当にウマが合ったようである。ちなみに、
「モーパン嬢」(ノーパン嬢でなかったのが残念だが)で知られる
文筆家のTheophile Gautier(テオフィル・ゴチエ、1811-1872)、
いわゆるテオフィル・ゴーティエは、「ファウストの劫罰」を聴いて、

"Hector Berlioz nous parait former,
avec Hugo et Eugene Delacroix,
la trinite de l’art romantique."
(エクトル・ベルリオズ・ヌ・パレ・フォルメ、
アヴェキ・ユゴ・エ・テュジヌ・ドゥラクワ、
ラ・トリニテ・ドゥ・ラフ・ホマンチク)
「(拙大意)エクトル・ベルリオーズ(作曲家)は、
ユーゴー(作家)、ウジェーヌ・ドラクロワ(画家)と
芸術の三位一体を成してるように思われる」

と言ったらしい。晩年のサンド女史とポール・ゴーギャンの顔を
ときどき間違えてしまう拙脳なる私にはその意味が解らないが、
ドラクロワはベルリオーズやユーゴーを毛嫌いしてたのである。

ともあれ、
ドラクロワの絵の"下手さ加減"は、その代表作のひとつとされ、
"de la Croix"を"名にし負う"「十字」軍を描いた
"La prise de Constantinople par les croises(1841)"
(ラ・プリズ・ドゥ・コンストンチノブル・パフ・レ・クワゼ(1841)"
「(拙大意)十字軍によるコンスタンチノープル占拠(1841年制作)」
でも、如実に現れてる。この題材の
「第4次十字軍」はフランス軍が主力だった。そして、
占領した異教徒の都で残虐・悪行の限りを尽くしたのである。が、
ドラクロワの絵の人物たちは、
学芸会の子が演技してるような、
迫真とはほどとおい表情やしぐさをしてる。
精緻さに欠ける筆致や、中途半端な彩、
ゴチャゴチャしすぎた人物配置など、
稚拙きわまりない。が、
方法論は間違ってなかったがただ技術が伴ってなかった
ドラクロワの絵は、ふた世代のちの画家たちに
多大な影響を及ぼしたのである。

1838年の夏、ドラクロワは
「ジョルジュ・サンドが聴く前でピアノを弾くショパンの肖像」
を描いた。この絵もサンド女史の顔もショパンの顔も
じつに下手である。構図にもセンスがない。ちなみに、
絵の巧拙とは無関係に、
サンド女史もショパンもじつに辛気臭い表情をしてる。
二人が熱をあげてまもない蜜月の時期だというのに。
のちの決裂を予言するかのように、
くそおもしろくもなさげな顔である。この絵は、
未完成のままドラクロワが死ぬまで手元に所持してた。が、
その死後10年の間に、サンド女史とショパンは
"切り離され"てしまったのである。現在、
サンド女史はコペンハーゲンのOrdrupgaard(オードルップゴー)美術館に、
ショパンはパリのルヴル美術館に、それぞれ
引き裂かれたまま収められてる。

(ドラクロワが二人を描いてた頃、ショパンは
「24の前奏曲(op.28)」を作曲してました。その
第10曲(嬰ハ短調)を木管七重奏にしてみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/chopin-prelude-op-28-10-wind )
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