1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月9日・伊集院静のタバコ

2024-02-09 | 文学
2月9日は、サッカー元日本代表のラモス瑠偉が生まれた日(1957年)だが、作家、伊集院静(いじゅういんしずか)の誕生日でもある。

伊集院静は、1950年、山口の防府で生まれた。父親は挑戦半島からの移民で、伊集院は在日韓国人の2世になる。本名は、チョ・チュンレで、帰化して西山忠来となった。
野球少年だった彼は、長嶋茂雄の出身大学である立教大学に入学し、日本文学を修めた。卒業後は広告代理店に入社し、コマーシャル・ディレクター、音楽イベントの演出などをした。
31歳のとき、小説雑誌に『皐月』を発表し、小説家としてデビュー。
42歳のとき、『受け月』で直木賞を受賞した。
小説に『乳房』『機関車先生』『海峡』などがある。また、作詞家としての作品に、近藤真彦が歌ったヒット曲『愚か者』『ギンギラギンにさりげなく』などがある。
私生活では、20代の会社員時代に結婚した最初の夫人と30歳で離婚し、34歳のときに夏目雅子と再婚。翌年、死別し、42歳のとき、篠ひろ子と再婚した。
70歳になる年にくも膜下出血で倒れたが復活。ギャンブラーの無頼派作家として人気を博したが、がんのため2023年11月に没した。73歳だった。

認識の順番がおかしいのかもしれないけれど、伊集院静を、まず女優の夏目雅子と結婚したモテモテの広告マンとして知り、次に女優の篠ひろ子と結婚したモテモテのバクチ打ちとして認識し、その後で彼が小説家だとようやく知った。

伊集院静は麻雀や競輪の旅打ちをするバクチ打ちで、元広告マン、さらに小説家だというのだから、彼の言うことはおよそ信じられそうもないのだけれど、ずっと以前、彼が週刊誌のエッセイのなかで、こんなことを書いていた。
結婚して間もないころ、彼はふと駅前までタバコを買いに出て、知り合いに麻雀に誘われ、そのまま三日帰らなかったことがある、と。
世の中にはすごい人がいる。

伊集院静は以前、週刊誌の対談で、こういう意味の発言をしていた。
「女優と結婚すると、ただそれだけで男たちから憎まれる」
憎む男たちの気持ちがよくわかる。でも、新婚時代のたばこ買い三日話を聞き、むしろ、夏目、篠の両女優の度量の大きさに感心するようになった。
ひじょうに屈折した言い方になるけれど、そういう意味で、伊集院静は、伴侶になった女房の株を上げる、夫の鑑(かがみ)かもしれない。
(2024年2月9日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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2月8日・ジュール・ヴェルヌの一周

2024-02-08 | 文学
2月8日は、ファッションデザイナー、山本寛斎が生まれた日(1944年)だが、SF(空想科学小説)の父、ジュール・ヴェルヌの誕生日でもある。

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌは、1828年、仏国西部のナントで生まれた。父親は弁護士だった。ジュールは5人きょうだいのいちばん上だった。
11歳のとき、ジュールはインド行きをもくろみ、ボートで海に漕ぎ出して、インドへ向かう帆船に乗せてもらうことに成功した。しかし、行方をつきとめた父親に追いつかれ、下船させられ、インド行きはかなわなかった。家へ連れもどされたヴェルヌ少年は、
「これ以後は旅行は夢のなかだけにする」
と約束させられた。
法律科へ進んだジュールは文学青年で、とくにヴィクトル・ユゴーの熱烈なファンで、ユゴーの長編『ノートルダム・ド・パリ』は全ページを暗唱できたという。
やがて、彼はパリの法律学校へ進み、ナントへ帰郷した折には父親の手伝いをするようになった。パリでは、『三銃士』を書いた大デュマ、『椿姫』を書いた小デュマのデュマ父子と知り合い、それが縁でヴェルヌが書いた処女戯曲『折れた麦わら』が大デュマのプロデュースで舞台にかかった。ヴェルヌが22歳のときのことで、彼は法律の勉強をしながら、戯曲や冒険小説を書くようになった。
23歳で弁護士の資格をとったヴェルヌに、父親は執筆をやめて弁護士の仕事に専念するよう説き、24歳のとき、父親がついにナントへ帰ってくるように指示してきた。そのとき、ヴェルヌはついに弁護士への道を捨てることを決心した。
28歳のとき、友人の結婚式の介添人となったヴェルヌは、花嫁の姉妹で2人の子持ちの未亡人と恋に落ち、彼女と結婚するために、株式取引の仕事をはじめた。彼は朝早く起きて小説を書き、株式市場へ出勤し、夜はクラブで自然科学の調査をするというハードな生活を送り、29歳で結婚した。
35歳のとき、冒険小説『気球に乗って五週間』がヒットし、ヴェルヌは一躍流行作家となった。以後、彼は雑誌と長期契約を結び、執筆に専念した。そうして『地底旅行』『月世界旅行』『海底二万里』『八十日間世界一周』『インド王妃の遺産』『バウンティ号の叛徒たち』『十五少年漂流記』『悪魔の発明』などの科学・冒険小説を書いた後、1905年3月、糖尿病のため、仏国北部の街アミアンで没した。77歳だった。

これまで生きてきたなかで、文字通り寝食を忘れて読みふけった本が何冊かある。ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』はその一冊である。
若いころのある日、夕食後に文庫本を買ってきて読みはじめ、止まらず、真夜中をすぎ、
「もしも明日死ぬようなことがあったら、悔いが残る」
と読み続けた。朝方に読み終えた。すごくいい気分だった。

ジュール・ヴェルヌの成し遂げたことはまさに偉業である。ロケット、潜水艦、ミサイル、世界旅行、宇宙旅行……人類の進歩の歴史はすべて、ヴェルヌが書いた夢と冒険の実現を目標に文明を発展させてきた結果にすぎない、そんな気さえする。
(2024年2月8日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、文学の可能性をさぐる。読書家、作家志望必読の書。


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2月7日・ポール・ニザンの手紙

2024-02-07 | 思想
2月7日は、英国の国民的作家、チャールズ・ディケンズが生まれた日(1812年)だが、作家のポール・ニザンの誕生日でもある。

ポール・ニザンは、1905年、仏国のトゥールで生まれた。祖父、父親とも鉄道会社の従業員だった。ポールはリセ(高等中学校)では、後に哲学者のサルトルと同級で、二人は似ていて、よくまちがえられたという。当時から、ニザンはマルクス主義に傾倒していた。
学校を出て、21歳でイエメンのアデンへ行き、そこで家庭教師をして、1年ほど暮らした。現地では、先進国の植民地主義を目の当たりにし、資本主義と戦う決意を新たにした。後にこのときの体験を書いたのが紀行『アデン・アラビア』である。
フランスへ帰国した22歳のとき、フランス共産党に入党。
24歳で哲学の大学教授資格を取得し、いったんは哲学教師になったが、すぐにやめて、パリで共産党系の出版社の雑誌に原稿を書き、また編集をするようになった。
29歳のとき、小説の処女作『アントワーヌ・ブロワイエ』を発表。
ニザンが34歳のとき、ヒトラーのドイツと、スターリンのソビエト連邦が不可侵条約を結び、これをフランス共産党が支持したため、ニザンは共産党を離党した。
ニザンは軍隊に二度召集され、第二次世界大戦中の二度めの軍隊では、工兵隊の書記をしていたが、1940年5月、ダンケルクからの撤退中の戦闘で戦死した。35歳だった。
著書に『トロイの木馬』『陰謀』『九月のクロニクル』などがある。

マルクス主義作家のポール・ニザンは、日本ではよく引用もされて、人気が高い。
ニザンの『アデン・アラビア』は、書きだしがかっこよくて有名である。
「ぼくは二十歳だった。それが人生でもっともすばらしい年齢だなどと、ぼくはだれにも言わせはしない。」(花輪莞爾訳・角川文庫)
これは、きっとつぎの英語のことわざを踏まえていったものだろう。
「二十歳で美しくなく、三十歳で強くなく、四十歳で富貴でなく、五十歳で賢明でない人間は、ついに美しくも強くも富貴にも賢明にもなれない」

ニザンの書簡集をおもしろく読んだ。ニザンは戦場から妻に宛てた手紙のなかで、こう書いている。

「ゆうべ任地へついて、イギリス軍に配属された。(中略)たかが一兵卒にイギリス軍の将校なみの生活をさせるとは、実におかしなことさ。町を歩いてると、僕にはなんの恩義もないような兵隊がいっせいに敬礼するんで、まったく身の置きどころがないよ。」(1940年3月8日、野沢協訳『ポールニザン著作集9』晶文社)

「このところ、ひどく技術的な仕事をやらされてるんだ。インチをミリメートルに換算したり、フランをポンドに換算したりして日を送っているよ。」(1940年3月29日、同前)

「でも、英語で生活し英語でものを言うのはくたびれるね。」(1940年4月3日、同前)

これを書いた翌月に彼は戦死した。同じ連隊のイギリス人将校も大部分死んだ。
友人のサルトルが戦争を生き延びて、ニザンのことを語り継いでくれたのが、死後の復権に大きく寄与した。
(2024年2月7日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月6日・ボブ・マーリーの希望

2024-02-06 | 音楽
2月6日は、映画監督のフランソワ・トリュフォーが生まれた日(1932年)だが、レゲエ音楽の神さま、ボブ・マーリーの誕生日でもある。

ボブ・マーリーは、1945年、ジャマイカのナイン・マイルで生まれた。出生時の本名は、ロバート・ネスタ・マーリー。父親は白人のヨーロッパ系ジャマイカ人で、プランテーションの監視役。母親は黒人のアフリカ系ジャマイカ人だった。
父親は妻子と離れて暮らしていて、めったに顔を見せなかった。
ボブが10歳のとき、父親が没し、12歳のとき、ボブは母親とともに、首都キングストンのスラム街であるトレンチタウンへ引っ越した。
音楽に熱中していたボブは、14歳で学校をやめ、18歳でバンドを結成してデビュー。21歳で結婚し、25歳のときに自分のスタジオ、レコード・レーベルをもった。
そのころからボブ・マーリーのレゲエ・ミュージックに西欧のロック・ミュージシャンたちが注目しだし、マーリーが27歳のとき、英国のスター、エリック・クラプトンがマリーの楽曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」のカヴァー・ヴァージョンを出し、これが全米ナンバーワンヒットとなり、ボブ・マーリーとレゲエ音楽は一気に世界に広まった。
マーリーは世界をツアーしてまわり、ジャマイカ国内では、その絶大な人気によって政界にも強い影響力をおよぼした。
足の指にできたガンがもとで、マーリーは1981年5月、米国フロリダ州のマイアミで没した。36歳だった。ジャマイカでは国葬がおこなわれた。

マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」を聴くと、なぜだか涙しそうになる。トレンチタウンで苦しい今日を生きながら、未来はきっとよくなるから、さあ、涙をふいて生き抜こうというような歌詞は、自分のために書かれたと感じてしまう。

「ジュリー」沢田研二が主演した長谷川和彦監督の名作「太陽を盗んだ男」を見た。映画のなか、高校教師のジュリーが原発からプルトニウムを盗み出し、小型原爆を自作するのだけれど、アパートの自室でついに原爆が完成したとき、ジュリーはボブ・マーリーの「ゲット・アップ・スタンド・アップ」を大音響で流し、歓喜に踊り狂う。美しい感動的なシーンだった。映画館を出たその足でレコード屋に行き、ボブ・マーリーをさがした。

ボブ・マーリーは、ラスタファリ思想の信奉者だった。ラスタファリは、アフリカ回帰主義で、マリファナを神聖視し、髪をドレッドヘアーに編む自然食主義者である。この思想のために、マーリーはガン患部を切除する外科手術を拒否し、ガンが全身に転移した。
「起き上がれ、自分の権利のために立ち上がれ。闘争をあきらめてはいけない」
と歌う「ゲット・アップ・スタンド・アップ」も、ラスタファリの思想が反映されている。
この歌を聴くと、強く心を揺さぶられる。
「レゲエって、最高だよね」
と、かつて一級上の先輩が言ったけれど、まったく彼女の言う通りである。
(2024年2月6日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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2月5日・シトロエンの派手

2024-02-05 | ビジネス
2月5日は、自動車タイヤで有名なダンロップが生まれた日(1840年)だが、自動車メーカー、シトロエンの創業者、アンドレ=ギュスターヴ・シトロエンの誕生日でもある。

アンドレ=ギュスターヴ・シトロエンは、1878年、パリで生まれた。父親はユダヤ系のダイヤモンドの商人だった。アンドレは、5人きょうだいの末っ子だった。一家の苗字は元は「シトルーン」だったが、ネーデルランド(オランダ)から引っ越してきたときに、フランス風に「シトロエン」と改めた。パリへきて5年目にアンドレが生まれた。
ジュール・ベルヌの小説やエッフェル塔に刺激を受けたアンドレは、技術者を志した。
22歳で技術系の学校を卒業すると、彼は母親の故郷であるポーランドを旅した。そのとき、大工が自作の歯車を使っているのを見かけ、その歯車の効率のよさと、騒音のすくないのに感心した。シトロエンは大工にお金を払ってそのアイディアを買い取り、フランスへ帰って改良を加え、特許をとった。この歯車の合わせ目にあるくさび形の歯形が、現在のシトロエンのマークになった。
第一次世界大戦時には、兵器の生産に乗りだし、砲弾を大量に受注、生産して成功した。
戦後、41歳のとき、シトロエン自動車会社を設立。大衆車を大量に生産して、彼が54歳のころには、フランスで第1位、世界で第4位の自動車会社になった。
派手好みのシトロエンは、あのエッフェル塔を広告塔に使った。塔全体にシトロエンの文字の照明を付けて夜間広告塔とし、それを11年間続けた。その文字は40キロメートル離れた場所からも見えたという。
全盛を誇ったシトロエン社はその後、事業は急速に傾き、彼が56歳のとき経営破綻。会社再建にあたり、外部(ミシュラン)資本を受け入れ、彼は引退。1935年7月、胃ガンのため、没した。57歳だった。歯車から砲弾、自動車へと事業を発展させた事業家だった。

ギャンブル好きで、万事にわたって派手好み、拡大主義者で、堅実な事業家ではなかったと言われるアンドレ・シトロエンの生き方に共感を覚える。

かつて20年以上シトロエンに乗っていた。
外車は古くなってくると、メインテナンスにお金がかかってつらい。車検を通すのに、30万円かかった。ヒーターコアという部品が壊れ、12万円かけて交換した。ほかにも……。
かんたんに交換できない構造になっているのが外車で、別のいいかたをすれば、日本車とちがって、ほとんどの外国車はメインテナンスのことはほとんど考えずに組み立てられている。
少なくともシトロエンと、その前に乗っていたポルシェはそうだった。でも、好きなクルマに乗る、というのは、そういうことである。
マセラッティに乗っている友人は言った。
「外車に乗っている以上、多少のリスクはしかたあるまい」
(2024年2月5日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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2月4日・ジャック・プレヴェールのパリ

2024-02-04 | 文学
2月4日は、米国の人権運動家、ローザ・パークスが生まれた日(1913年)だが、詩人、ジャック・プレヴェールの誕生日でもある。
自分は昔、仏映画「天井桟敷の人々」のシナリオを書いた脚本家としてプレヴェールを知った。それから、シャンソンの作詞者でもあると知った。しかし、彼の本分は詩人で、歌手の「ユーミン」松任谷由美がプレヴェールの詩のファンだということを、ごく最近テレビで見て知った。

ジャック・プレヴェールは、1900年、パリの西郊外の街、ヌイイ=シュル=セーヌで生まれた。
15歳のころ、学校をやめ、パリの有名な百貨店であるル・ボン・マルシェで働きはじめ、18歳のとき兵役につき、第一次世界大戦後、パリにもどった。
24歳のときから、友人と3人で共同生活をはじめたプレヴェールは、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンといったシュルレアリストたちと交際しながら、詩を発表し、劇団のために演劇の脚本を書いた。
36歳のころから映画の脚本を書くようになり、第二次世界大戦中に、占領下のパリで撮影され、戦後になって公開された映画「天井桟敷の人々」の脚本を担当した。
戦後は、シャンソンの名曲「枯葉」の歌詞を書き、46歳のとき、初の詩集『ことば』を出版。大ベストセラーとなった。
詩集のほか、童話も書き、また、ピカソ、シャガール、ミロといった画家たちの美術書の編集をした後、1977年4月、肺ガンのため、英仏海峡に面したノルマンディー地方のオモンヴィーユ=ラ=プチットの自宅で没した。77歳だった。

パリのキャバレーにムーラン・ルージュがあって、店の名でもある赤い風車が目印だけれど、あの風車のすぐ裏手のアパルトマンに、ジャック・プレヴェールは住んでいたらしい。ベランダに出ると、風車がすぐそこに見えるロケーションで、そこをユーミンが訪ねていくというテレビ番組をやっていた。

プレヴェールの詩は平易で、「恋の都」パリらしいムードがある。
たとえば「Paris at night」はこんな短い詩である。

「三本のマッチを一つずつ擦ってゆく夜の闇
  一本目は君の顔全体を見るため
     二本目は君の目を見るため
     最後の一本は君の口を見るため
あとの暗がり全体はそれをそっくり思い出すため
     君を抱きしめたまま。」(安藤元雄訳『フランス名詩選』岩波文庫)

ユーミンやフランス人たちに人気のあるのが、なんとなくわかる気がする。
(2024年2月4日)


●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?

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2月3日・シモーヌ・ヴェイユの知性

2024-02-03 | 思想
2月3日は、ゴロ合わせで「乳酸菌の日」。「にゅう(2)さん(3)」という発想らしい。
また、2月3日は、米国出身の作家、ガートルード・スタインが生まれた日(1874年)だが、フランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの誕生日でもある。

シモーヌ・ヴェイユは1909年、仏国パリで生まれた。父親はユダヤ系の医者で、シモーヌの上には後に数学者になった兄、アンドレがいた。成績優秀な兄に対する劣等感に悩んでいたシモーヌは、13歳のころ、深刻なうつ状態となった。そして21歳のころから、彼女は頭痛の発作に悩まされるようになり、それは生涯続いた。
22歳で哲学の大学教授資格を取得した彼女は、哲学の教師になった。しかし、休職して、貧しい人々の状況を理解するため、工場に飛び込み、そこで働いた。また、彼女は農業や漁業にも飛び込んでいって体験した。
左翼系の新聞に論文を書いたヴェイユは、27歳でゼネストに参加し、スペイン内戦に義勇兵として駆けつけ、アナーキストとともに戦った。足に大火傷を負って帰ってきた。
第二次世界大戦がはじまり、ナチスがパリに迫ると、彼女はマルセイユへ避難した。
33歳のとき、米国にいた兄を頼って亡命したが、すぐに大西洋をとって返し、英国で亡命政権を樹立していたドゴール将軍のもとで働きだした。
34歳のとき、自室で倒れているのを発見されたヴェイユは、肺結核と診断された。医者に療養と栄養のある食事をすすめられたが、彼女は占領下のパリ市民たちが食べている割当以上のものは食べない、と、食事を拒否するようになった。このため栄養失調と衰弱が進み、1943年8月、心不全のため、英国ケント州のアッシュフォードで没した。34歳だった。没後『抑圧と自由』『工場日記』『重力と恩寵』『根をもつこと』など出版された。

『幸福論』を書いたアランは高校教師だったが、シモーヌ・ヴェイユはアランの教え子だった。ヴェイユの文章は、キリスト教臭が強いけれど、刺激的である。

「不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。」(田辺保訳『重力と恩寵』ちくま学芸文庫)

「弱者たちはみなほのおにひかれる蛾のように力にたなびく」(『歴史的政治的著作集』。ガブリエッラ・フィオーリ著、福井美津子訳『シモーヌ・ヴェイユ』平凡社刊)

「この世においては、辱しめの最後の段階におちこんだ人びと、乞食の境涯よりもはるか以下におちこみ、社会的に重んじられないばかりか、人間の尊厳をなす第一のものである理性を欠いているとすべての人たちから見られている人びと──こういう人びとだけが、真実を告げることができる。ほかの者はみな、嘘をついている」(田辺保、杉山毅訳『ロンドン論集とさいごの手紙』勁草書房)

「結婚とは強姦への同意である」(田辺保訳)『超自然的認識』勁草書房)
(2024年2月3日)


●おすすめの電子書籍!

『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒され、きっと心が幸福に。しあわせへの近道、ここにあります。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月2日・ファラ・フォーセットの歯

2024-02-02 | 映画
2月2日は、『ユリシーズ』の著者、ジェイムズ・ジョイスが生まれた日(1882年)だが、女優ファラ・フォーセットの誕生日でもある。ファラ・フォーセット・メジャースのほうが通りがいいかもしれない。

ファラ・レニ・フォーセットは、1947年、合衆国、テキサス州のコーパス・クリスティで生まれた。父親は石油業界にいた。アイルランド、英、仏、ネイティブ・アメリカン(チョクトー族)の血をひくファラは、2人姉妹の妹のほうだった。
高校時代に「もっとも美しいクラスメイト」に選ばれたファラは、テキサス大学に入ると、1年生で「キャンパスのもっとも美人10人」に入った。1年生が選ばれたのは初だという。彼女の写真はハリウッドに送られ、21歳のとき、ハリウッド入りし、ファラはエージェントと契約した。そして歯みがきやシャンプーのコマーシャルに出演した後、テレビ番組や映画にも出演するようになった。
26歳のとき、テレビシリーズ「600万ドルの男」の主演男優、リー・メジャースと結婚。彼女はファラ・フォーセット・メジャースとなった。
29歳で、テレビドラマシリーズ「チャーリーズ・エンジェル」に出演し、たちまち人気女優となり、1970年代を代表するセックスシンボルになった。
たてがみのような髪型の彼女がワンピースの水着姿ですわり、白い歯を見せて笑っているポスターは全世界で2000万枚を売り上げ、世界記録となった。
その後、映画「キャノンボール」「サンバーン」「シャレード'79」などに出演し、私生活では、映画俳優のライアン・オニールとの不倫関係が発覚し話題を巻いた。
結局、ファラはメジャースとは35歳で離婚し、38歳のときにオニールの子どもを出産したが、オニールとは入籍することはなかった。
肛門部のガンにかかり、闘病生活を送った後、2009年6月に没した。62歳だった。

ファラ・フォーセットは、デヴィッド・ボウイや北野武と同い年生まれ。団塊の世代である。

ネイティブ・アメンリカンの血をひく女優というと、キャメロン・ディアスもそうだけれど、ファラも彼女も二人とも歯がきれいで、陽気な笑顔がよく似合うのが共通点である。

その昔、ファラ・フォーセットがライアン・オニールとつきあっていたころ、ファラは、ライアンの娘であるテイタム・オニールといっしょに歩くこともあり、テイタムが当時インタビューでこう語っていた。
「ファラといっしょに歩くのは、ほんとうにすごい体験なの。すれちがう男という男が、ひとり残らずみんな振り返るんだから」

ビートルズのポール・マッカートニーであったか、
「有名になって、ときには誰にも知られずに通りを歩きたいと思いませんか?」
と問われ、こんな風に答えていた。
「ぼくはいつだって、ポケットにわずかな小銭しか入っていないのを知られずに歩いているよ」
(2024年2月2日)



●おすすめの電子書籍!

『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月1日・石橋正二郎の心

2024-02-01 | ビジネス
2月1日は、映画「駅馬車」の名監督、ジョン・フォードが生まれた日(1894年)だが、実業家、石橋正二郎の誕生日でもある。タイヤ・メーカー「ブリヂストン」の創業者である。

石橋正二郎は、1889年、福岡県の久留米で生まれた。家は仕立屋で、正二郎は次男だった。
17歳のとき、商業学校を卒業し、兄とともに家業を継いだ。
18歳のとき、家業の仕立屋を足袋(たび)製造専業に変更し、29歳のとき、徒弟制だったのを会社組織に変更。社長となった。
32歳で、足袋の裏にゴムを付けた地下足袋の製造を開始。
40歳のとき、タイヤの試作をはじめた。
46歳でブリヂストンタイヤ株式会社を設立。取締役社長となり、自転車用タイヤ、ゴルフボールの生産をはじめた。
ブリヂストンタイヤを巨大な企業に育てた後、1976年9月に没した。
仕立て屋から足袋屋、ゴムのついた足袋、ゴムのタイヤと、時代の流れを読んで事業を発展させていった事業家だった。

石橋正二郎の長女は、創業者である父親からブリヂストンタイヤの株式を相続し、大蔵省事務次官をへて政治家になった鳩山威一郎と結婚した。そして後に首相になる鳩山由紀夫を産んだ。鳩山由紀夫と邦夫の政治家兄弟が資産家になったのは、もちろん祖父が首相という父方の資産もあったろうが、そういう脈絡による。

「私は朝早くから夜遅くまで、日曜も祭日もなく一生懸命に働いた。タイム・イズ・マネーを実行したので人の3倍くらいは仕事したろう。」
と言う石橋正二郎は、モーレツ型の仕事人間だったようだ。

ご存じの方の通り、社長の「石橋」の名を英語にすると「ストーン・ブリッヂ」、そこから「ブリヂストン」の社名を付けた。なぜ「ストンブリッヂ」でないか、そのココロは、タイヤだけに、よく転がるようにひっくり返した、と。
もちろん、米国の「ファイアストーン」にあやかるところもあったろうが、この洒落心は、見習うべきである。
(2024年2月1日)



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