1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月21日・サハロフの教え

2015-05-21 | 科学
5月21日は、「眠れるジプシー女」の画家アンリ・ルソーが生まれた日(1844年)だが、物理学者アンドレイ・サハロフ博士の誕生日でもある。「水爆の父」である。

アンドレイ・ドミトリエヴィッチ・サハロフは、1921年、ロシア(ソビエト連邦)のモスクワに生まれた。父親は私立学校の物理学の教師だった。
21歳の年に、モスクワ大学を卒業したサハロフは、第二次大戦中は疎開してロシアを離れていたが、戦争が終わると、モスクワにもどり、ソ連科学アカデミー物理学研究所で、宇宙線などの研究をした。そうして、27歳ごろから、ソ連の国家プロジェクトである原子爆弾開発のチームに加わった。
1949年8月、彼が28歳のとき、原爆が完成。
1953年8月、32歳のとき、水爆が完成。この偉業によって、彼は「ソ連水爆の父」と呼ばれるようになったが、核実験による放射能汚染のひどさに驚き、あわてて当時の最高権力者フルシチョフに、核実験の中止を進言した。ここがサハロフの転換点になった。
40歳のころから、民主化要求、人権擁護の発言をするようになり、1975年、54歳のとき、ノーベル平和賞を受賞。世界的な名声は高まったが、ソ連国内では批判も強かった。
1980年、59歳のとき、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議。これが共産党指導部の反感を買い、サハロフはすべての名誉を剥奪され、流刑罪に処せられた。流刑地は、シベリアではなく、ヴォルガ川沿いの大都市ゴーリキー市だった。
65歳のとき、ソ連の最高権力者の座についたミハイル・ゴルバチョフによって、流刑罪が解除され、モスクワにもどった。ソ連では、ゴルバチョフ、シュワルナゼによる「ペレストロイカ(改革)」が進み、時代の空気は大きく変わりつつあった。
67歳のとき、サハロフは人民代議員に選ばれ、以後、政治家として民主化、自由化、平和主義を訴え、「ペレストロイカの父」と呼ばれるようになった。
1989年12月、心臓麻痺のため没。68歳だった。

兵器開発、後悔、思想の転向、栄誉剥奪、流刑、復活、新たな栄誉、というサハロフ博士の人生は「人間は変わっていいのだ」と教えてくれる。
「うわっ、とんでもないことをしでかしてしまった」
と、気づいたら、さっさとやめて、反対の行動をとるべきである。サハロフ博士が、水爆製造を後悔して以後沈黙してしまった場合を考えると、それよりは、その社会的影響力を生かして反核を訴えたほうが、やっぱりよかったと思う。サハロフ博士の転向は、とくに勇気がいったろうし、命を失う危険もあった。
人間は完璧ではない。生きていればまちがいもある。まちがいに気づいたら、謝り、行動を改め、その時点で「いい」と思うことをすればいい。いつまでも非難しつづける者もいるだろうし、心中には疑念もちらつくだろうけれど、それでも萎縮し黙りこみ、ざんげに励むのでなく、たとえあと一日の命しかないとしても、よかれと思う方向へ一歩を踏みだすべきなのにちがいない。
(2015年5月21日)




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5月20日・バルザックの猛烈

2015-05-20 | 文学
5月20日は、経済学者ジョン・スチュアート・ミルが生まれた日(1806年)だが、大作家バルザックの誕生日でもある。

オノレ・ド・バルザックは、1799年、仏国の古都トゥールで生まれた。名前に「ド」と貴族の呼称が入っているのはオノレが勝手に名乗ったもので、実際は彼は平民の子で、父親は軍隊の兵站部長だった。両親は30歳以上の年の差婚で、オノレが生まれたとき、父親は53歳、母親は21歳だった。家は自家用馬車を乗りまわすなど、かなり裕福だった。
オノレが15歳のとき、バルザック一家ばパリへ引っ越した。
17歳のとき、パリの法科大学へ入学。オノレ彼は大学に通い、父親の命により公証人の事務所で働いた。両親は彼が公証人になるのを望んだが、息子は小説家を目指した。
30歳のころ、『ふくろう党』『結婚の生理学』を発表し、32歳のとき『あら皮』で認められた。以後、『ゴリオ爺さん』『谷間のゆり』『従妹ベット』『従兄ポンス』と、生涯にわたって長短90編もの小説群を勢力に書きつづけた。
執筆の一方で、彼には強烈な事業欲もあって、さまざまな事業に手を染めた。出版社が儲かりそうだと見るや、借金をして出版社に出資したが、すぐに倒産した。バルザックはめげず、新たに借金をして印刷会社を買収したが、これも倒産。その後、活字鋳造会社、銀山経営、鉄道会社への株式投資、と手を染めたのがすべて失敗し、借金はばくだいな額にふくれ上がった。文名は高かったが、借金の額はそれ以上だった。彼は借金を残したまま、1850年8月、新たに借金して購入したパリの自宅で、心臓病と肺炎のため、没した。
彼の残した借金は、亡くなる5カ月前に結婚した資産家の夫人が返済し片づけてくれた。

バルザックは、執筆にとりかかると、ひと晩に40杯から60杯の濃いコーヒーを自分でいれて飲み、真夜中から翌朝の8時ごろまでぶっつづけで書いたという。そして、筆をおくと、寸暇を惜しんでサロンに顔を出し、ご馳走をたらふく食べる。そしてまた真夜中には、コーヒーを飲みながら書くことに没頭する。そういう執筆スタイルだった。

バルザックがあるとき、ある場所に金が埋まっていることを小説中に書いていた。と、書いているうちに、本当にそこに金が埋まっているような気がしてきて、いても立ってもいられず、彼はそこの土を掘り返しに出かけていったらしい。
すごいと思う。自分はバルザックのこういうところが大好きだ。

バルザックの小説上の発明に「人物再登場法」という手法がある。これは、あちらの小説に登場した人物が、べつの小説にすこし成長した姿で顔を出し、またべつの小説中に年老いた姿で登場するといったもので、この方法を思いついたとき、バルザックは妹に、
「ぼくに最敬礼しろ。ぼくは今、まさに天才となったところだ」
と言ったという。(小林信彦『小説世界のロビンソン』新潮文庫)
「人物再登場法」はすごいアイディアだが、書く者の脳を破壊する所業である。バルザックの小説群「人間喜劇」に登場する人物はざっと二千人。この方法で書いていれば、いずれ現実と虚構の区別がなくなる。病床にあったバルザックは最期こう叫んだそうだ。
「ビアンション! ビアンションを呼んでくれ! あいつなら……」
「ビアンション」は『ゴリオ爺さん』他数編に登場する小説中の医者の名前である。
(2015年5月20日)



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5月19日・ホー・チ・ミンの闘い

2015-05-19 | 歴史と人生
5月19日は、米国の黒人活動家マルコム・Xが生まれた日(1925年)だが、ベトナム独立を率いた革命家ホー・チ・ミンの誕生日でもある。世界最強の国、合衆国に勝った男である。

ホー・チ・ミンは、当時フランス領インドシナだったベトナムのゲアン省の貧しい家庭に生まれた。父親は儒学者だった。小さいころから『論語』で中国語を勉強していたホーは、フランス語を学び、21歳のとき、外国船に料理人見習いとして乗りこんだ。
船員として世界を見てまわり、宗主国の首都パリで共産主義に目覚めたホーは、ソ連、中国をへて、51歳のとき、植民地だった母国に帰った。30年ぶりの帰国だった。
第二次大戦がはじまり、ナチス・ドイツが宗主国フランスを占領し、ベトナムへは日本軍が侵攻していた。この混乱を、ホーはベトナム独立の好機とみて、帰ってきたのである。
帰国した彼は、中国へ援助を求めたが、逆に中国の国民党に1年間拘束された。
1945年、ホーが55歳のとき、第二次世界大戦が終わった。すると、ベトナムは無政府状態となった。ホーはただちに国内をまとめ、ベトナム独立を宣言した。ところが、フランスをはじめとする欧米諸国はこれを認めない。ホーはふたたび独立闘争に入った。
「わたしを突き動かしたのは、愛国心であって、共産主義ではなかった」
ベトナムは、植民地支配を復活させようとするフランスとの第一次インドシナ戦争をへて、1954年、ホーが64歳のとき、ジュネーヴ協定が結ばれ、フランスは出ていった。
しかし、代わって米国が乗りこんできた。米国が南ベトナムに傀儡政権を立てて、ベトナム進出を目論んできた。これによって、ベトナムは南北に分断され、ホーの側は「北ベトナム」になった。米国側の南ベトナムは、選挙のない、反対派を弾圧する独裁政権だった。
1960年、南ベトナム内に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され、独裁政権側との内戦がはじまった。政府軍側には、増派された米軍が味方して加わり、反政府側のベトコンを、ホー・チ・ミンの北ベトナムが後押しする、という構図だった。
1964年、米国は「トンキン湾事件」を自作自演し、この謀略を口実にベトナムへ本格介入。ベトナム戦争は泥沼化し、1965年、ホーが75歳のとき、米軍はついに北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始し、戦線は南北ベトナム全土に拡大された。
世界最強の米軍は、B52爆撃機を飛ばし、ナパーム弾を落とし、枯葉剤をまき、と、核兵器以外のほとんどの兵器を投入して戦いながら、中国・ソ連の援助を受けた北ベトナム・ベトコン軍になかなか勝てなかった。一方で、バートランド・ラッセル、サルトル、小田実などの世界各国の知識人たちから米国非難があがり、米国内でも、ジェーン・フォンダ、ジョン・ケリーなど、ベトナム戦争反対の反戦運動が盛んになってきた。
米軍は、カンボジアなど周辺諸国まで爆撃を拡大した後、撤退を開始。そんな1969年9月、ホー・チ・ミンは心臓発作により没した。79歳だった。
その後、1975年4月に、北ベトナムが勝利してベトナム戦争は終わった。南北ベトナムは統一され、サイゴンは「ホーチミン市」となった。ベトナムには、障害者や障害児など戦争の被害者が多数いるが、現在にいたるまで米国はいまだに謝罪していない。

ゲバラ、カストロと並び、ホー・チ・ミンは、世界一の軍事大国・合衆国の侵略と戦い、勝利した数少ない英雄である。ホーは日本の植民地主義とも戦った。彼はこう言った。
「いいかい、嵐というのは、松や糸杉がいかに強く、安定しているかを見せる、いい機会なんだよ」(Brainy Quote: http://www.brainyquote.com/)
(2015年5月19日)



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5月18日・バートランド・ラッセルの気骨

2015-05-18 | 思想
5月18日は、テニスプレイヤー、フレッド・ペリーが生まれた日(1909年)だが、英国の哲学者、バートランド・ラッセルの誕生日でもある。

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルは、1872年、英国ウェールズのモンマスシア州で生まれた。3人きょうだいの末っ子で、彼が誕生したとき、祖父は伯爵、父親は子爵で、バートランドの両親は無神論者だった。
バートランドが2歳のとき、母親がジフテリアで亡くなり、続いて4歳年上の姉も亡くなった。4歳のとき、父親が没し、彼は、7歳年上の兄とともに、父方の祖父母に引き取られ、育てられた。引き取ったこの祖父が、元英国首相のジョン・ラッセル伯爵である。
ケンブリッジ大学に入ったラッセルは、数学と哲学を修め、21歳で優等卒業試験を一級合格し、23歳のとき同大学のフェローとなった。彼はケンブリッジ大学で教鞭をとった。
38歳のとき、ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』の出版開始。この本は、ことばの論理を記号化して、数学のような計算によって処理しようとする記号論理学を画期的に発展、体系化した哲学史上の記念碑的作品とされる。
第一次世界大戦がはじまると、ラッセルは平和運動に力を入れ、44歳のとき、国防法に違反したかどで有罪判決を受け、大学をクビになった。そして46歳のときには、反戦の演説をおこない、6カ月間投獄された。
59歳のとき、伯爵位を継いでいた兄が没したのを受け、伯爵となった。
1950年、78歳のとき、ノーベル文学賞受賞。受賞理由は、人道的理想や思想の自由を尊重する著作に対してだった。
83歳のとき、アルベルト・アインシュタインと、核兵器廃絶を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。89歳のとき、英国の核政策への抗議行動をおこない、この高齢で2度目の投獄を経験した。
94歳のときには、ベトナムでの米国の戦争犯罪を裁く国際法廷を呼びかけ、スウェーデンのストックホルムで、いわゆる「ラッセル法廷」が開かれる原動力となり、亡くなる3日前にも、イスラエル軍のエジプト侵攻を非難する声明を発するなど、最後まで国際平和への積極的な発言を続けた。
1970年2月、インフルエンザで、ウェールズのメリオネスシア州の自宅で没。98歳だった。

「ノブレス・オブリージュ」という語がある。「位高ければ徳高きを要す」。財産、権力、社会的地位の保持には責任がともなう、という意味である。英国では伝統的に、このことばが踏襲されていて、貴族は領地からのあがりで優雅に暮らしてもいいが、いざ戦争となったら、国を守るため進んで命を差しだし、戦争に出ていくという考え方がある。それで、英国の貴族には戦死者が多い。
ラッセルは平和主義者で、戦争には行かなかったけれど、彼の言論活動には「ノブレス・オブリージュ」の気骨が感じられる。
ノーベル賞受賞後の80歳すぎで投獄されるなど、たいした肚のすわり方である。

彼は年下の後輩ウィトゲンシュタインの哲学的天才を見抜いて彼を助け、訪ねてきたザ・ビートルズのポール・マッカートニーにベトナム戦争の非を説き、ポール経由でジョン・レノンに反戦運動をはじめさせた。「天性の教育者」だった。
(2015年5月18日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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5月17日・エンヤのヒーリング効果

2015-05-17 | 音楽
5月17日は、作曲家エリック・サティが生まれた日(1866年)だが、アイルランドの音楽家、エンヤの誕生日でもある。

エンヤは、1961年、アイルランドのドニゴール県で生まれた。アイルランド語の本名の発音に近い英語表記で、英語名をEnya Brennan (エンニャ・ブレナン)といい、日本では「エンヤ」と呼ばれている。彼女は9人きょうだいの6番目の子で、父親は元バンド・リーダーの居酒屋経営者で、母親はダンス・バンドの演奏者で、後に音楽教師になった。
エンヤは19歳のころから、音楽一家のきょうだいや叔父たちが組んだ親族バンドに参加し、キーボードとバックコーラスを担当していた。
彼女が21歳のとき、マネージャーといっしょにバンドを離脱し、ソロ活動をはじめた。
インストゥルメンタル曲を発表し、映画「カエルの王子」に曲を提供した後、エンヤは25歳のとき、英国のテレビ局、BBCのドキュメンタリー番組「ケルツ」のサンウンドトラック用に曲を書いた。このサウンドトラックが、英国のレコード会社の社長の目にとまり、アルバムの制作依頼が彼女のもとに舞い込んだ。そうして作ったアルバムが歴史的名盤「ウォーターマーク」だった。
1988年、27歳のとき発表された「ウォーターマーク」は、世界的な大ヒットとなり、シングル曲「オリノコ・フロウ」も世界中でヒットした。当時のことについて、彼女はこうコメントしている。
「ウォーターマークの成功にはびっくりしました。音楽が商業的なものだと考えたことがなかったので。それまで音楽は、自分にとってごく個人的なものだったので」
以後、1曲の録音に数カ月かけ、新しいアルバムを発表するまでに5年ほどかかるという、スローペースで彼女は作品を発表しつづけてきた。
アルバムに「シェパード・ムーン」「メモリー・オブ・トゥリーズ」「ア・デイ・ウィズアウト・レイン」「アマランタイン」などがある。

エンヤの音楽は独特である。
誰もいない、天井の高い大きな教会で録音したかのような、残響音が響く独特の音楽は、144チャンネルの音声を同時録音できるデジタルマルチトラッカーという機械を使って、楽器や声の音を百回以上も重ねて録音しているのだそうで、それでああいう、魂が洗われるような、美しい、不思議な音ができあがるのだった。

エンヤの楽曲を聴いていると、幻想の泉にからだを浮かべているような、ぼんやりとしたいい気持ちになって、とても癒される。
これはアーティスト自身には直接関係のないけれど、米国などでは、マリファナを吸いながら聴く音楽として、エンヤは好まれる。エンヤとか、喜多郎とか、あるいはジョン・レノンもそうだと思うけれど、彼らはドラッグと相性のいい音質、声質をもっていて、それが、彼らの楽曲が世界中でよく売れた一因にちがいないと、自分はひそかに信じている。これは、彼らの音や声の質が、人間の精神のある部分を、根本的なところで癒すヒーリング効果をもっている、そういうことなのではないか。
(2015年5月17日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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5月16日・ロバート・フリップのクール

2015-05-16 | 音楽
5月16日は、映画監督、溝口健二が生まれた日(1898年)だが、英国のミュージシャン、ロバート・フリップの誕生日でもある。「キング・クリムゾン」のリーダーである。

ロバート・フリップは1946年、英国ドーセット州ウィンボーン・ミンスターで生まれた。
彼は21歳のとき、「歌えるオルガン奏者求む」というバンド・メンバーの募集広告を見て、自分は歌わないし、オルガン奏者でもないくせに、それに応募し、バンドに加入したのが、本格的な音楽活動のはじまりだった。そのバンドを解散した後、フリップは別のミュージシャンと新たにバンド「キング・クリムゾン」を結成。
1969年、フリップが23歳のときにファースト・アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を発表。まったく新しい衝撃と感動をもったロック・ミュージックを創造し、世界の音楽ファンに「プログレッシブ・ロック」という音楽ジャンルの誕生を強烈に印象づけた。
この「クリムゾン・キングの宮殿」は、当時アルバム・チャートのトップを独走していたザ・ビートルズの「アビイ・ロード」を、トップの座が引きずりおろしたアルバムとして音楽誌によって宣伝されたために、よけいにセンセーショナルに受け止められた。
当時、フリップは「ロックの神」と呼ばれた。
以後「キング・クリムゾン」は、ロバート・フリップのみを唯一の存続メンバーとして、目まぐるしくメンバーを入れ替え、また長い休止期間をとりながら2011年まで続いた。
ロバート・フリップは、「キング・クリムゾン」としての活動のほかに、ブライアン・イーノ、デヴィッド・ボウイ、ピーター・ガブリエル、デヴィッド・シルヴィアンなどとアルバムを作り、さまざまな音楽の実験に参加し、マイクロソフト社のWindows Vistaの起動音を作曲するなど、幅広い活動をしてきた。
2012年、66歳のときのインタビューで、ロバート・フリップは、ユニヴァーサル・ミュージック・グループとの長い不和について言及しつつ、現役ミュージシャンとしての活動から引退する旨を宣言し、こう述べたという。
「音楽産業のなかで働くことは『喜びをともなわない無益な活動』になってしまった」

ロバート・フリップのCDを、自分はたくさん持っている。こういう音楽は、嫌う人もすくなくないのだろうけれど、自分は「ぞっこん」である。「宮殿」とか「太陽と旋律」とか。デヴィッド・シルヴィアンと彼が作った「ザ・ファースト・デイ」など何度聴いたか知れない。

ロック・ギタリストといえば、首を振ったり、からだを揺すったりして、みんな、なんらかのステージ・パフォーマンスをしながらギターを弾くのが常だけれど、ロバート・フリップは、椅子にすわって、無表情で淡々と演奏する。観客に対して、愛嬌のかけらもふりまかない。こんなギタリストは、ほかにいない。クラシックのオーケストラの弦楽器奏者でさえ、もうすこしステージパフォーマンスをする。
ロバート・フリップはクールだ。
(2015年5月16日)



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5月15日・市川房枝の流転

2015-05-15 | 歴史と人生
1932年に五・一五事件があった5月15日は、芸術家ジャスパー・ジョーンズが生まれた日(1930年)だが、女性運動家、市川房枝の誕生日でもある。

市川房枝は、1893年、愛知県の現在の一宮市で生まれた。生家は農家で、房枝は7人きょうだいの三女だった。彼女の父親は、子どもたちに男女とも教育、進学を奨励する当時としては進歩的な考えをもっていたが、反面、怒りだすと拳骨や薪(まき)で妻を殴りつける封建時代的な一面をあわせもった男性で、小さいころの房枝は母親が殴られると、泣きながらあいだに入ってかばった。
小学校の高等科を出た房枝は、15歳になる年に上京してミッション・スクールに入った。それから彼女は、故郷の村の代用教員、師範学校の生徒、新聞記者、株の仲買人の事務員など、さまざまな職業を転々とした後、キリスト教系の労働団体に関わり、青鞜社の平塚らいてうと合流し、26歳のとき、日本初の婦人団体である新婦人協会を設立。理事となって、女性の権利拡大に向けて活発に運動をはじめた。
当時の日本では、女性の選挙権、被選挙権はもちろんのこと、女性は政党に入ることも、政治演説会などの集会に参加することすら禁止されていた。
市川はこれを変革し、婦人参政権を訴え、それをずっと続けた。
市川が38歳だった1931年に満州事変がはじまり、言論弾圧、思想統制と、日増しに強まっていく軍国主義の空気のなかで、もともと反戦・非戦論者だった市川は、運動の灯を絶やさないために、しだいに体制側に懐柔され、しだいに戦時体制へ取り込まれた。
彼女の機関誌「婦選」は「女性展望」と誌名を変え、市川は国民精神総動員中央連盟の委市川が52歳だった1945年に戦争が終わると、彼女はただちに婦人団体「新日本婦人同盟」を結成した。そうして、同年の12月に、日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)の指導のもとで衆議院議員選挙法の改正がおこなわれ、男女普通選挙、つまり婦人参政権がついに実現した。
翌1946年に衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生したが、そのなかに市川房枝の名前はなかった。彼女は立候補していず、有権者名簿に名前がなかったため投票もできなかった。戦争協力者として、市川は公職追放となり、婦人団体から身を引いた。
そして57歳のとき、追放解除された後は、公娼制度復活反対、売春禁止、再軍備反対を訴えた。
60歳になる年に、参議院議員となり、無所属議員の集まりである第二院クラブに所属し、政治の不正追及などに活躍した。
そして85歳のとき、皇室から勲章の授与を打診されたが、辞退した後、1981年2月、市川房枝は心筋梗塞のため、没した。87歳だった。参議院本会議では現職の参議院議員だった市川への哀悼演説がおこなわれた。

市川房枝の選挙事務所のスタッフから巣立った政治家に、後の首相、菅直人がいる。

日本の女性参政権は、日本人自身の手によってはついに成らず、日本を占領した米国側によって与えられた権利である。進駐軍がやってこなかったら、日本の男性たちは、いまだに女性の参政権を認めていなかったのかもしれない。
市川房枝の業績には毀誉褒貶があるだろうけれども、いずれ、彼女たち日本の女性運動家たちの奮闘は、仰ぐべきものにちがいない。
(2015年5月15日)



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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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5月14日・ロバート・オーウェンの理想

2015-05-14 | 歴史と人生
5月14日は、オーストラリア出身の映画女優ケイト・ブランシェットが生まれた日(1969年)だが、社会事業家ロバート・オーウェンの誕生日でもある。

ロバート・オーウェンは、1771年、英国、北ウェールズのニュータウンで生まれた。父親は馬具・金物商で、ロバートは、7人きょうだいの下から2番目だった。
彼は10歳のとき、スタンフォードの呉服屋へ丁稚奉公に出た。1年目は無給だが、2年目から給料が出る、住みこみ仕事の契約だった。そこでの3年間をふりだしに、オーウェンは、ロンドン、マンチェスターで服屋勤めをした後、紡績工場の共同経営者となり、19歳のときには、単独で人を雇い入れ、紡績工場を経営する経営者となっていた。
勤勉と工夫を重ね、オーウェンは、28歳のころには、ニューラナークにある大工場の共同経営者となり、やがて単独経営権を手にした。彼は工場労働者の給料を上げ、職場の環境と住居環境を整備し、子どもたちのために学校を造り、修学前の幼児のための学校も用意した。そうして、彼のニューラナークは業績がよく、労働環境もよいという、世界の工場経営のお手本となった。
無一文から大富豪となったオーウェンは、54歳のとき、私費を投じて、大西洋の向こうの米国インディアナ州で「ニュー・ハーモニー」というコミュニティーをはじめた。適度な労働と余裕のある人間らしい暮らし、教育と娯楽、そして教養にあふれた人たちとの社交など、人間が理想とする生活の要素が、ひとつコミュニティーのなかにそろっている。そんなオーウェン流のユートピアの実現だった。「ニュー・ハーモニー」は、全米に名を知られた有名人や知識人も参加し、鳴り物入りではじまった。しかし、殺到した希望者を拒まず入れたため、山師や志の異なる者が入って分裂し、彼のコミュニティーは2年ほどで空中分解。彼は英国へ引き上げた。
オーウェンは英国で社会活動、政治活動に邁進した後、1858年11月、故郷のニュータウンで没した。87歳だった。

自分は、オーウェンについて書かれた日本語の本はだいたい読んでいる。岩波文庫の『オウエン自叙伝』はいまでもときどき本棚から取り出す。オーウェンは、当時もいまも、自分がもっとも尊敬する人物のひとりである。

オーウェンの時代には、現代以上に労働者をすこしでも安くこき使おうとする経営者が多かった。経営者たちは、大人は言うに及ばず、子どもでも一日十時間以上働かせて平気でいた。国もそれを放置していた。また、企業を立ち上げたら、さっさと高く売って手を引く、そういう資本家も、現代同様に多かった。
けれども、オーウェンは、そうした金儲け主義を嫌い、子どもは働かせず、大人も8時間労働、よい環境に生活してこそ、生産性は上がる、という信念を貫き、「ブラック企業」「派遣切り」「社員使い捨て」の効率主義とはまったく正反対をゆく経営で、みごと大成功を収めた。そうして得た富で豪邸を建てるのでなく、社会のためにぶちまけた。

オーウェンほどえらい人はなかなかいない。彼は要するに、
「人間が人間を使い捨てにしない、みんなが人間らしい暮らしをする社会」
を目指した。世の中にはこういう実業家もいるのである。
(2015年5月14日)



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5月13日・マリア・テレジアの恋愛結婚

2015-05-13 | 歴史と人生
5月13日は、名短編『アルルの女』の作家アルフォンス・ドーデ生まれた日(1840年)だが、女帝マリア・テレジアの誕生日でもある。神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家の女当主であり、あのマリー・アントワネットの母親である。

マリア・テレジアは、1717年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のウィーンで生まれた。本名は、マリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ。父親は、神聖ローマ皇帝カール6世だった。
当時、ハプスブルク家は、現在のドイツ、オーストリアを含む神聖ローマ帝国を支配し、姻戚関係により一族でスペインも支配していた。
マリアには兄がいたが、早く死んでしまい、ほかに男の兄弟がいなかった。父親が亡くなると、彼女が家督を継ぐことになった。ところが、いざ家督を継ごうとすると、たちまちあちこちから反対の声があがった。
「女が継ぐのは認めない。うちだってハプスブルク家とは縁続きだ」
そう言い、ザクセン公、バイエルン公、スペイン王が反旗をひるがえした。彼らの後ろには、フランスのブルボン家(ルイ王朝)がひかえて糸で引き、プロイセン王が混乱に乗じて乗りこんできた。
マリア・テレジアは、領土について譲歩せず、戦争に踏み切った。オーストリア継承戦争である。彼女は子どもを身ごもっていたが、よく国民の士気を鼓舞し、財政面、外交面でも手腕を発揮して、よく戦時体制を支えた。内政面では、領土内に小学校を作り、義務教育とし、徴兵制度を改革して、全国民に兵役義務を課し、兵隊に給料を出した。これによって、国民の知的水準が上がり、軍隊の士気が上がった。
政治に奔走しながら、彼女は男子5人を含む、16人の子を産んで育てた。男の子は各地の領地の王となり、娘たちは各国の大公や国王のもとへ政略結婚で嫁にやられたが、そのなか、フランスのルイ16世のもとへ嫁したのがマリー・アントワネットだった。長らく対抗関係にあったブルボン家とハプスブルク家とが婚姻関係で結ばれる歴史的結婚だった。が、それがフランス革命という降って湧いた大波に呑みこまれ、マリー・アントワネットは、断頭台の露と消える運命となった。奢侈に流れやすい娘マリーの身を案じていた母マリア・テレジアは、1780年11月に没した。63歳だった。

当時は、王族の子女の婚姻は政略結婚で、恋愛結婚など許されなかった。しかし、マリア・テレジアは例外で恋愛結婚だった。小さいときから好きだった従兄のロレーヌ公子フランツと、19歳のときに結婚。それで2人は16人の子どもをもうけた。
夫のフランツは、結婚の6年後に、神聖ローマ皇帝に即位し、フランツ1世となった。が、実際の政治は、妻のマリア・テレジアが仕切り、フランツはいつもかやの外だった。外国との交渉ごとに夫が出ても、妻の意向をうかがいうかがいで、妻がハンガリー女王として戴冠式に望んだ際には、夫の彼は式場へさえ入れてもらえなかった。観劇に出かけても、格下の席にすわらされ、宮廷内での無礼は日常茶飯事だった。やり手の女房をもつと、いかに夫の存在がかすむかという見本だが、フランツはマリアが48歳のときに没した。
夫の死を悲しんだマリアは、自分の衣裳をすべて宮廷の女官たちに分けてしまい、自分は以後、亡くなるまで喪服しか着なかったという。すぐれた指導力を発揮した政治家ぶりばかりが喧伝されるが、ある清廉な精神性を感じさせる生涯だった。
(2015年5月13日)



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5月12日・クリシュナムルティの真理

2015-05-12 | 思想
5月12日は、伝説の看護士フローレンス・ナイチンゲールが生まれた日(1820年)だが、インドの思想家クリシュナムルティの誕生日でもある(誕生日には異説あり)。

ジッドゥ・クリシュナムルティは、1895年、南インドのチェンナイに近い町に生まれた。代々学者の家系で、父親は宗主国、英国の下で働く徴税局の役人だった。ジッドゥは、小さいころはマラリアに苦しみ、病弱で敏感な子どもだった。ぼんやりした、夢見がちな子だったため、教師や父親によくたたかれたという。
さて、ここに、ウクライナ生まれのブラバツキー夫人らが中心となって、1875年にニューヨークで創立された「神智学協会」という組織がある。これは、宗教や科学、哲学の研究を通して、人種、信条、性別、階級のちがいにとらわれない、人類の普遍的同胞愛の中核とならんとする神秘主義結社だった。この「神智学協会」が、来るべき、世界の教師となる存在がこの世に降臨する際に備えて、その存在を受け入れる「器」として、適任者をさがし、吟味し、一人の少年を選んだ。それが14歳のクリシュナムルティだった。彼は協会による英才教育を受け、彼が16歳のとき、クリシュナムルティを指導者とする「星の教団」が設立された(これに反発して「神智学協会」を離脱したのが、協会のドイツ支部にいたルドルフ・シュタイナーである)。
クリシュナムルティをいただく「星の教団」は世界的な組織で、日本にも1名団員がいて、今東光、今日出海兄弟の父親がそうだった。
1929年、34歳のとき、クリシュナムルティは、真理の追求は組織によってはあり得ない、人は何者にも追従しない、すべてから解放された自由な人間であるべきだ、として、団員が3000人あまりいた「星の教団」の解散をみずから宣言した。
「私は言明する。『真理』はそこへ通ずるいかなる道も持たない領域である、と。いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる宗派によろうとも、諸君はその領域へ近づくことはできない。(中略)いかなる人間も、外側から諸君を自由にすることはできない。組織化された崇拝も、大義への献身も諸君を自由にはしない。組織を作りあげてみても、仕事に没頭してみても諸君は自由にはなれないのだ。(中略)鍵は諸君自身の自己なのだ。その自己の開発と浄化の中に、その自己の不滅性の中に、その中にのみ『永遠の王国』は存在するのである」(「星の教団解散宣言」大野純一訳『クリシュナムルティの瞑想録』サンマーク文庫)
解散後、彼は、信奉者から差しだされた莫大な財産贈与を片っ端から断り、世界各国を旅し、著述活動をしてすごした後、1986年2月、すい臓ガンのため、米国カリフォルニア州で没した。90歳だった。

クリシュナムルティに、自分はいろいろ教わった。こんな彼のことばが印象に強く残っている。
「昨日が死ぬことによってのみ純真な心が生まれる。けれどもわれわれは決して、昨日に対して死なない。われわれは常に昨日の残滓、昨日の断片を引きずっており、それこそは精神を一箇所に固定させ、時間で縛ってしまうのである。それゆえ、時間は純真さの敵である。人は毎日、精神がとらえ、固執しているものに対して死ななければならない。さもなければ、断じて自由はない。自由の中ではじめて繊細な心が花開くのである」(同前『クリシュナムルティの瞑想録』)
(2015年5月12日)


●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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