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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月7日・エビータの疾走する人生

2015-05-07 | 歴史と人生
5月7日は、天皇機関説の美濃部達吉が生まれた日(1873年)だが、アルゼンチン国民のヒロイン「エビータ」エバ・ペロンの誕生日でもある。

「エビータ」ことマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンは、1919年、アルゼンチンのロス・トルドスで生まれた。母親は25歳の未婚女性で、父親はべつに妻子のある家庭をもつ農場主だった。つまり、エバは、不倫の愛人が産んだ私生児だった。当時のアルゼンチンでは、富裕な男が複数の家庭をもつことはめずらしくなかったというが、エバが7歳のとき、父親が亡くなり、エバの家族は未亡人になった正妻からうとんじられ、エバ母子は貧困の底へ突き落とされた。
エバは、15歳のとき、家出し、首都ブエノスアイレスに出た。彼女は、水着のモデルなどをした後、しだいに仕事の幅を広げ、ラジオドラマの声優、映画女優として活躍しだした。
24歳のころ、出席したパーティーで、軍人のフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会い、恋仲になった。ペロン大佐は、当時のアルゼンチン軍事政権の副大統領を務める大物で、最初の妻と死別し、独身だった。彼女はラジオを通じて、彼のために政治宣伝活動をおこない、二人は貧困層を中心に大きな支持を得るようになった。
第二次大戦集結の年である1945年の10月、米国の支援を受けた将軍によるクーデターが起きた。将軍はアルゼンチンの政権を奪取し、ペロンは逮捕、拘束された。このとき、エバはラジオを通じて、人々に抗議のデモを呼びかけ、その抗議運動の高まりに屈して、将軍は政権を放棄し、ペロンは拘束後4日目に釈放された。
釈放されるとすぐに、ペロンとエバは結婚。盛り上がる貧困層の圧倒的な人気を背景に、ペロンは翌年の大統領選挙で当選した。ここに、エバ大統領夫人が誕生。極貧の私生児だった娘が、26歳にしてファーストレディーの地位にのぼり詰めたのである。
夫のペロン大統領は、賃上げなど労働者の労働環境を改善し、女性に参政権を与え、外資企業を国有化する政策を打ちだす一方で、自分に反対する者は容赦なく逮捕して強制収容所に入れ、独裁者として君臨した。
一方、ファーストレディとなったエバは、慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立し、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設を整備し、ミシン、毛布、食料などの生活物資を配布して、貧しい労働者階級からのペロン政権と彼女自身の人気を圧倒的なものにした。
上流階級、知識人層、保守層などからは、彼女は「成り上がり者」「商売女」などと非難も浴びた。28歳のときには、大統領夫人として、ヨーロッパを歴訪し、各国の元首と交流し、国家間の関係改善をはかり、世界的に有名になった。
アルゼンチンの経済状況は改善されなかったが、「エビータ人気」だけは高かった。そんななか、彼女が子宮ガンにかかっていることが発覚し、1952年7月に没した。33歳の若さだった。首都ブエノスアイレスでおこなわれた葬儀には数十万の市民が参列した。

マドンナが主演した映画「エビータ」を自分は観た。思えば、マドンナも、道ばたに落ちいてるフライドポテトの袋を拾って食べ、ヌードモデルをする生活から、強烈な意志をもってはい上がった女性だった。その意味で、マドンナが歌う「エビータ」の劇中挿入歌「アルゼンチンよ、泣かないで (Don't Cry for Me, Argentina)」は二重に印象深かった。
(2015年5月7日)


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