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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月24日・フィッツジェラルドの宿命

2016-09-24 | 文学
9月24日は、イタリアの天才、ジェロラモ・カルダーノが生まれた日(1501年)だが、米国作家スコット・フィッツジェラルドの誕生日でもある。

フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドは1896年、米国ミネソタ州のセントポールで生まれた。父親はWASPの血を引く籐製の家具工場の経営者だった。一方、スコットの母方の祖父は少年時代にアイルランドから渡ってきたアイルランド移民で、祖父は雑貨屋の見習いから身を起こし、商店を開業し、卸売業となって成功、一代にして富豪となった人物だった。その娘がスコットの母親である。
スコットが1歳のとき、父親の事業が破綻した。父親は会社勤めのセールスマンとなり、一家は米国東部でたびたび転居を繰り返した。
プリンストン大学に入学したスコットは、詩を書く学生だったが、在学中に第一次世界大戦がはじまると、大学を中退して陸軍に入った。軍隊に勤務中も小説を書いていたスコットは、22歳のとき、ゼルダ・セイヤーと出会った。上流WASP出身の彼女は美しい奔放な娘だった。彼らは恋に落ち、婚約した。そして、いったんゼルダ側から婚約を破棄した後に、ふたたび婚約し直し、結婚した。スコットが24歳、ゼルダは20歳だった。
結婚の前月に出版されたフィッツジェラルドの『楽園のこちら側』がベストセラーとなり、彼は一躍流行作家となった。
29歳になる年に『華麗なるギャツビー』、翌年には短編集『すべての悲しき若者たち』を出版して、ジャズ・エイジ、フラッパーという当時の風俗をとらえた米国の代表的作家となった。そして、フィッツジェラルドは、彼よりすこし遅れてデビューしたアーネスト・ヘミングウェイらとともに「失われた世代」と呼ばれるようになった。
フィッツジェラルドの文名は高まったが、彼の作品はそれほど売れず、国外旅行や豪奢な生活を好む妻ゼルダとの生活を支えるため、フィッツジェラルドは新聞や雑誌に短編小説を売り、映画のシナリオ書きをし、出版社に前借りをした。
1929年のウォール街での株価大暴落に端を発した世界恐慌のなか、パリ滞在中に妻ゼルダが精神病を発症した。当時ゼルダは、バレエのレッスンと飲酒に熱中してかろうじて精神状態を保っていたが、極度の不安状態におちいり、妄想を口走るようになった。彼女は何度か自殺未遂を起こし、パリ郊外の病院に入院したが、医師にさからって退院した。
その後、ゼルダの精神状態は1、2年ほどの小康状態をおいて繰り返し悪化した。妻にふりまわされる暮らしのなかで、フィッツジェラルドはアルコールびたりになりながら長編『ラスト・タイクーン』を執筆を続け、心臓発作を起こして倒れた。そして1940年12月、心臓麻痺により44歳で没した。
その8年後の1948年、ゼルダは入所していたノースカロライナ州アッシュヴィルの療養施設の火災事故に巻き込まれ、没した。47歳だった。

『華麗なるギャツビー』は、読んでいて胸にこみあげ、かつ、読後にいつまでも切なさが残る名作である。

フィッツジェラルドは、ゼルダに振りまわされ、おちついて長編作品に取り組めなかったとも言われるが、ゼルダの精神がおかしくなったのは、夫のせいだった部分もあろう。1日8時間集中して書いたフィッツジェラルドは文学のことになると急に夢中になり、激しやすく、嫉妬深くなった。いずれにせよ、彼らほど宿命の相手という感じのするカップルはなかなかいない。
(2016年9月24日)



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