7月27日は、コンピュータ科学者のエドムンド・クラークが生まれた日(1945年)だが、作家、山本有三の誕生日でもある。
知人に「吾一」という名前の人がいて、山本有三の小説『路傍の石』の主人公の名前から、父親が名付けたのだと言っていた。自分は素直に思った。
「いい名前だなあ」と。
山本有三は、1887年、栃木県の栃木で生まれた。本名は、勇造といった。父親は宇都宮藩の足軽で、母親は製菓、製茶業をいとなむ家の娘だった。
15歳の年に高等小学校を卒業した勇造は、東京の呉服屋へ丁稚奉公に出された。約1年後、彼は呉服屋から逃げだして、実家へ帰った。
18歳になる年、母親のとりなしで、学問の希望がいれられ、東京の予備校に通いだした。
22歳の年にようやく一高に入学し、25歳で東京帝国大学に入学した。専攻は独文で、在学中には演劇活動に励みながら、芥川龍之介らと同人誌「新思潮」(第三次)を創刊した。
大学卒業後、しばらく演劇一座の脚本家として地方を巡業してまわっていたが、30歳のころ、早稲田大学のドイツ語講師の職につき、戯曲を書いては雑誌に発表した。
39歳のころ、はじめて書いた小説『生きとし生けるもの』を新聞に連載。以後、『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、政治家としても活躍した。
1974年1月、脳梗塞と心不全により没。86歳だった。
『路傍の石』は、吾一という主人公が、上の学校へ進学して勉強したいのだけれど、家が貧しく、下級武士の血を引く頑迷な父親は、息子の進学を許さない。商家出身の母親は、商人の道を進んでもらいたいと願っている。そうして、吾一は丁稚奉公に出され、さまざまな屈辱をなめる、という、かなり自伝的色合いの濃い小説である。
小説中、吾一がまだ小学校に通っているころ、吾一が友だちと意地の張り合いから、谷川に渡した汽車の鉄橋の枕木につかまってぶらさがるという暴挙に出る場面がある。鉄橋からぶら下がった吾一は、かろうじて無事に救助されたが、その翌日、学校で吾一が次野という教師に諭される有名な場面がある。
次野は、吾一が中学に行けなくてやけ起こしていることに同情を示しつつも、そんなことでは大きな人間になれないと諭し、吾一にその名前の意味を教える。
「吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかない、という意味だ。世界に、なん億の人間がいるかしれないが、おまえというものは、いいかい、愛川。愛川吾一というものは、世界中に、たったひとりしかいないんだ。(中略)人生は死ぬことじゃない。生きることだ。これからのものは、何より生きなくてはいけない。自分自身を生かさなくてはいけない。たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに輝かしださなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」(「路傍の石」『現代日本文学全集31 山本有三集』(筑摩書房)
ルソー的、近代的な考えで、自分はこのくだりを、とてもいい場面だと思う。
『路傍の石』の吾一は、検察官の言論統制の横槍が入って、とつぜん「ペンを折る」として、中絶された小説である。『路傍の石』は、未完の小説ながら、映画化されて大ヒットし、本も版を重ねてロングセラーとなり、世代を超えて読みつがれる名作となった。
しかし、作者、山本有三が当初意図していた半分にも満たないところで終わりになったとも言われ、この後、いよいよ吾一のほんとうの人生の闘いがはじまるのにちがいないのだが、山本有三は「あとがき」でこう書いている。
「『路傍の石』は、ついに路傍の石に終わる運命をになっているものとみえる。この作品は、作中の主人公と同じように、絶えず何ものかにけとばされる。」(同前)
自分もまた、けとばされ、けとばされながらも、たった一度の人生、である。
(2013年7月26日)
●ぱぴろうの電子書籍!
『ポエジー劇場 子犬のころ』
カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。
www.papirow.com
知人に「吾一」という名前の人がいて、山本有三の小説『路傍の石』の主人公の名前から、父親が名付けたのだと言っていた。自分は素直に思った。
「いい名前だなあ」と。
山本有三は、1887年、栃木県の栃木で生まれた。本名は、勇造といった。父親は宇都宮藩の足軽で、母親は製菓、製茶業をいとなむ家の娘だった。
15歳の年に高等小学校を卒業した勇造は、東京の呉服屋へ丁稚奉公に出された。約1年後、彼は呉服屋から逃げだして、実家へ帰った。
18歳になる年、母親のとりなしで、学問の希望がいれられ、東京の予備校に通いだした。
22歳の年にようやく一高に入学し、25歳で東京帝国大学に入学した。専攻は独文で、在学中には演劇活動に励みながら、芥川龍之介らと同人誌「新思潮」(第三次)を創刊した。
大学卒業後、しばらく演劇一座の脚本家として地方を巡業してまわっていたが、30歳のころ、早稲田大学のドイツ語講師の職につき、戯曲を書いては雑誌に発表した。
39歳のころ、はじめて書いた小説『生きとし生けるもの』を新聞に連載。以後、『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、政治家としても活躍した。
1974年1月、脳梗塞と心不全により没。86歳だった。
『路傍の石』は、吾一という主人公が、上の学校へ進学して勉強したいのだけれど、家が貧しく、下級武士の血を引く頑迷な父親は、息子の進学を許さない。商家出身の母親は、商人の道を進んでもらいたいと願っている。そうして、吾一は丁稚奉公に出され、さまざまな屈辱をなめる、という、かなり自伝的色合いの濃い小説である。
小説中、吾一がまだ小学校に通っているころ、吾一が友だちと意地の張り合いから、谷川に渡した汽車の鉄橋の枕木につかまってぶらさがるという暴挙に出る場面がある。鉄橋からぶら下がった吾一は、かろうじて無事に救助されたが、その翌日、学校で吾一が次野という教師に諭される有名な場面がある。
次野は、吾一が中学に行けなくてやけ起こしていることに同情を示しつつも、そんなことでは大きな人間になれないと諭し、吾一にその名前の意味を教える。
「吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかない、という意味だ。世界に、なん億の人間がいるかしれないが、おまえというものは、いいかい、愛川。愛川吾一というものは、世界中に、たったひとりしかいないんだ。(中略)人生は死ぬことじゃない。生きることだ。これからのものは、何より生きなくてはいけない。自分自身を生かさなくてはいけない。たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに輝かしださなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」(「路傍の石」『現代日本文学全集31 山本有三集』(筑摩書房)
ルソー的、近代的な考えで、自分はこのくだりを、とてもいい場面だと思う。
『路傍の石』の吾一は、検察官の言論統制の横槍が入って、とつぜん「ペンを折る」として、中絶された小説である。『路傍の石』は、未完の小説ながら、映画化されて大ヒットし、本も版を重ねてロングセラーとなり、世代を超えて読みつがれる名作となった。
しかし、作者、山本有三が当初意図していた半分にも満たないところで終わりになったとも言われ、この後、いよいよ吾一のほんとうの人生の闘いがはじまるのにちがいないのだが、山本有三は「あとがき」でこう書いている。
「『路傍の石』は、ついに路傍の石に終わる運命をになっているものとみえる。この作品は、作中の主人公と同じように、絶えず何ものかにけとばされる。」(同前)
自分もまた、けとばされ、けとばされながらも、たった一度の人生、である。
(2013年7月26日)
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カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。
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