4月22日は、地球環境について考える日「アースデイ」だが、独国の哲学者、イマヌエル・カントの誕生日でもある。
自分が「カント」の名前をはじめて聞いたのは、小学校の授業のなかでだった。自分が通っていたのは、小学生相手にカント哲学を教える小学校では、もちろんなかった。ただ、道徳の教科書のなかに、カントのこんな話が載っていた。
かつて、カントというえらい先生がいて、この先生は時間に正確で、判で押したように規則正しい生活を送っていた。毎日決まった時刻に起き、決まった時刻に食事をとり、決まった時刻に散歩に出る。町の人たちは、カント先生が家の前を通るのを見て、
「あ、カント先生が通ったから、3時だ」
などと、時計を合わせたというような話だった。自分は思った。
「おもしろい人もいたものだ」
イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で生まれた。父親は馬具職人で、イマヌエルは9人きょうだいの4番目の子どもだった。
カントは、貧しい境遇のなかで、教会の牧師や、親戚から援助を受けながら学校に通い、ケーニヒスベルク大学に入学した。大学時代にも友だちから服を援助してもらったりした。
22歳のとき、父親が没した。貧しく、葬式代がないため、公費で葬式を出した。カントは教会のノートにこう書いたという。
「寂し、貧し」
カントは、大学をやめ、それから家庭教師などをしながら生活していたが、31歳のとき、同大学の私講師となった。以後、大学で教えながら、哲学の研究生活に入った。
カントは生来、虚弱な体質だったため、本人もそれを意識して、規則正しい生活に努め、健康に留意しつづけた。彼の講義は大学ではとても人気が高かったそうだが、カントはとうぜん、講義に遅れるようなことはなかった。
生涯を通じて、時計の針のような規則正しい生活を送ったカントだが、唯一、38歳のころ、ルソーの『エミール』を読んだときだけは、読書に熱中して散歩の時間を忘れたという。彼は『エミール』によって、人間の尊厳を敬うことに目覚めた。そして『美と崇高なるものの感情にかんする観察』を書いた。
いくつかの大学からの教授就任の誘いを断っていたカントは、46歳のとき、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に就任した(62歳のとき、同大学の総長に就任し、その職を72歳まで務めた)。
著作については、57歳のとき『純粋理性批判』を出版。以後、『実践理性批判』『判断力批判』『永久平和のために』などを書いた。
1804年2月に没。79歳だった。
自分は高校のころから哲学が好きで、いろいろな哲学書を手にとってきた。とはいっても、むずかしくて歯が立たず、ちょっとかじっては、すぐに途中で放りだしてしまう、その繰り返しなのだけれど。
カントの本も、いくつか読んだ。『純粋理性批判』は何度か挑戦したが、いつもすぐに挫折した。それで、仕方なく、ほかの人がカントについて書いた解説書を読んで、すこしわかった気になっている。
カントは、人間の自由や、道徳について、崇高な、ひじょうにきびしい定義をしている。
カントは、人間が欲望や本能にしたがって行動することは「自由」でないと見た。お腹がすいたから食べたいとか、いい服が着たいとか、いい家に住みたいとか、そんなものは「自由」でもなんでもない、ただ、欲望に突き動かされているだけで、本能の奴隷になっているにすぎない、と。そうではなくて、
「これが、人間として自分のなすべき義務だ」
と考えて自律的に行動してこそ、はじめて「自由」な行動になるのだ、と。
道徳についても、個人的に、無条件に「なすべきだ」と考える行為が、そのまますべての人がなすべき行為と一致して、はじめて道徳的な善と言える、と、とてもきびしい考え方をしている。
カントに言わせれば、現代に生きる日本人のほとんどは「自由な人間」でも「徳のある人間」でもなくて、ただ、抜け目なく、利にさとい、そろばん勘定にたけた、欲望に支配された奴隷、ということになるのかもしれない。
カント先生の本は、こちらの良心に迫ってくるので、読むと、わが身を振り返るのがつらくなる。彼の理想は夜空の星のように高く、はるかで、自分のような凡夫にはなかなか及びがたし、との感は強い。
カント先生のお墓の墓碑銘には、彼自身のこういうことばが刻まれているそうだ。
「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」
(2013年4月22日)
●ぱぴろうの電子書籍!
『ポエジー劇場 子犬のころ2』
カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は泣いているリスに出会って……。友情と冒険の物語。
www.papirow.com
自分が「カント」の名前をはじめて聞いたのは、小学校の授業のなかでだった。自分が通っていたのは、小学生相手にカント哲学を教える小学校では、もちろんなかった。ただ、道徳の教科書のなかに、カントのこんな話が載っていた。
かつて、カントというえらい先生がいて、この先生は時間に正確で、判で押したように規則正しい生活を送っていた。毎日決まった時刻に起き、決まった時刻に食事をとり、決まった時刻に散歩に出る。町の人たちは、カント先生が家の前を通るのを見て、
「あ、カント先生が通ったから、3時だ」
などと、時計を合わせたというような話だった。自分は思った。
「おもしろい人もいたものだ」
イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で生まれた。父親は馬具職人で、イマヌエルは9人きょうだいの4番目の子どもだった。
カントは、貧しい境遇のなかで、教会の牧師や、親戚から援助を受けながら学校に通い、ケーニヒスベルク大学に入学した。大学時代にも友だちから服を援助してもらったりした。
22歳のとき、父親が没した。貧しく、葬式代がないため、公費で葬式を出した。カントは教会のノートにこう書いたという。
「寂し、貧し」
カントは、大学をやめ、それから家庭教師などをしながら生活していたが、31歳のとき、同大学の私講師となった。以後、大学で教えながら、哲学の研究生活に入った。
カントは生来、虚弱な体質だったため、本人もそれを意識して、規則正しい生活に努め、健康に留意しつづけた。彼の講義は大学ではとても人気が高かったそうだが、カントはとうぜん、講義に遅れるようなことはなかった。
生涯を通じて、時計の針のような規則正しい生活を送ったカントだが、唯一、38歳のころ、ルソーの『エミール』を読んだときだけは、読書に熱中して散歩の時間を忘れたという。彼は『エミール』によって、人間の尊厳を敬うことに目覚めた。そして『美と崇高なるものの感情にかんする観察』を書いた。
いくつかの大学からの教授就任の誘いを断っていたカントは、46歳のとき、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に就任した(62歳のとき、同大学の総長に就任し、その職を72歳まで務めた)。
著作については、57歳のとき『純粋理性批判』を出版。以後、『実践理性批判』『判断力批判』『永久平和のために』などを書いた。
1804年2月に没。79歳だった。
自分は高校のころから哲学が好きで、いろいろな哲学書を手にとってきた。とはいっても、むずかしくて歯が立たず、ちょっとかじっては、すぐに途中で放りだしてしまう、その繰り返しなのだけれど。
カントの本も、いくつか読んだ。『純粋理性批判』は何度か挑戦したが、いつもすぐに挫折した。それで、仕方なく、ほかの人がカントについて書いた解説書を読んで、すこしわかった気になっている。
カントは、人間の自由や、道徳について、崇高な、ひじょうにきびしい定義をしている。
カントは、人間が欲望や本能にしたがって行動することは「自由」でないと見た。お腹がすいたから食べたいとか、いい服が着たいとか、いい家に住みたいとか、そんなものは「自由」でもなんでもない、ただ、欲望に突き動かされているだけで、本能の奴隷になっているにすぎない、と。そうではなくて、
「これが、人間として自分のなすべき義務だ」
と考えて自律的に行動してこそ、はじめて「自由」な行動になるのだ、と。
道徳についても、個人的に、無条件に「なすべきだ」と考える行為が、そのまますべての人がなすべき行為と一致して、はじめて道徳的な善と言える、と、とてもきびしい考え方をしている。
カントに言わせれば、現代に生きる日本人のほとんどは「自由な人間」でも「徳のある人間」でもなくて、ただ、抜け目なく、利にさとい、そろばん勘定にたけた、欲望に支配された奴隷、ということになるのかもしれない。
カント先生の本は、こちらの良心に迫ってくるので、読むと、わが身を振り返るのがつらくなる。彼の理想は夜空の星のように高く、はるかで、自分のような凡夫にはなかなか及びがたし、との感は強い。
カント先生のお墓の墓碑銘には、彼自身のこういうことばが刻まれているそうだ。
「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」
(2013年4月22日)
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カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は泣いているリスに出会って……。友情と冒険の物語。
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