7月20日は、ビデオ芸術家のナム・ジュン・パイクが生まれた日(1932年)だが、異端審問を受けた女性思想家アン・ハッチンソンの誕生日でもある。
アン・ハッチンソンは、1591年、英国イングランドのリンカンシャー州アルフォードで生まれた。出生時の名は、アン・マーベリー。父親英国国教会の牧師で、教会批判により二年間監獄に入っていた経歴の持ち主だった。彼女が14歳のとき、一家はロンドンへ引っ越した。そして、21歳のとき、彼女は織物商人のウィリアム・ハッチンソンと結婚し、アン・ハッチンソンとなった。彼ら新婚夫婦は、故郷アルフォードに新居をもったが、そのころ近くの街にジョン・コットンという牧師がいて、ハッチンソン夫妻は馬車を走らせては彼の説教を聞きにいった。コットン神父は、信仰心こそ大切で、現在の教会の形骸化し堕落した礼拝儀式は改革する必要があると、ピューリタン(清教徒)の主張を説いた。
ジョン・ウィンスロップが新大陸へ渡る船上で「丘の上の町(city upon a hill)」の説教をおこなった4年後の1634年、ジョン・コットン牧師は迫害から逃れて新大陸アメリカへ渡り、アンたちも師の後を追って船に乗った。
マサチューセッツの植民地に着いた43歳のアンは、家に人を集めて、聖書を研究し、キリスト教の教義について議論する会を開いた。自由に発言し、意見を交換しあうこの集いは評判を呼び、参加者は80人ほどにふくれあがった。
植民地のピューリタン教会は、律法と労働の必要を神の御心に沿う道として説いたが、アンは神の恩寵を信じる信仰心だけが魂を救う道だとして教会側に反発した。聖職者たちは彼女と議論したが、聖書を精読している彼女に逆に言い負かされてしまった。
教会の聖職者たちは、植民地のジョン・ウィンスロップ知事にこれを訴え、ハッチンソンの異端裁判が開かれた。46歳の彼女は妊娠中だったが、ウィンスロップを議長とする法廷は、連日彼女を呼びだしては長時間立たせたまま尋問を浴びせた。
公の場でなく、自宅での発言をとらえて有罪とするのは明らかに無理があり、彼女は聖書を引用しつつ、みごとな弁護をおこなったが、結局、彼女は聖職者たちを侮辱したという罪を押しつけられた。彼女はこう言い放った。
「あなたたちがわたしをどう遇したか思い出すがいい。わたしに何をしようとしているかも。神は滅ぼすだろう、あなたがた、あなたがたの子孫、そしてこの国のすべてを」
彼女は植民地からの追放を言い渡され、続いて開かれた教会側による宗教裁判により、彼女のピューリタン教会からの破門が決まった。
マサチューセッツの植民地から追放されたハッチンソンは、支持者のつてで、現在のロードアイランド州ナラガンセット湾のポーツマスに移り住んだ。お腹の子どもは、胞状奇胎で生まれず、彼女はその冬じゅうを頭痛と嘔吐で苦しみながら臥せってすごした。このニュースを聞いたマサチューセッツの人々は、おおいに喜んだという。
その後、夫が没すると、未亡人となったアンはポーツマスを離れ、51歳のとき、現在のニューヨーク市のブロンクスに腰を落ち着けた。そこは当時、ニューネーデルランドと呼ばれていて、侵略者ネーデルランド側と、地元民ネイティブ・アメリカンとの抗争事件が絶えない地域だった。引っ越した翌年1643年8月、ハッチンソンたちが住む集落に、ネイティブ・アメリカンによる襲撃があり、そこにいたアン・ハッチンソンとその子どもたちは、末の娘を除いてすべて殺された。アン・ハッチンソン、享年52歳だった。
アン・ハッチンソンは自分の考えを正直に発言した、ただそのことによって歴史に名を残した女性である。彼女の人生は、世のなかには世間と調子を合わせるばかりで、知性や勇気とは縁遠いところで生きている人たちがいかに多いかを考えさせる。
(2015年7月20日)
●おすすめの電子書籍!
『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com
アン・ハッチンソンは、1591年、英国イングランドのリンカンシャー州アルフォードで生まれた。出生時の名は、アン・マーベリー。父親英国国教会の牧師で、教会批判により二年間監獄に入っていた経歴の持ち主だった。彼女が14歳のとき、一家はロンドンへ引っ越した。そして、21歳のとき、彼女は織物商人のウィリアム・ハッチンソンと結婚し、アン・ハッチンソンとなった。彼ら新婚夫婦は、故郷アルフォードに新居をもったが、そのころ近くの街にジョン・コットンという牧師がいて、ハッチンソン夫妻は馬車を走らせては彼の説教を聞きにいった。コットン神父は、信仰心こそ大切で、現在の教会の形骸化し堕落した礼拝儀式は改革する必要があると、ピューリタン(清教徒)の主張を説いた。
ジョン・ウィンスロップが新大陸へ渡る船上で「丘の上の町(city upon a hill)」の説教をおこなった4年後の1634年、ジョン・コットン牧師は迫害から逃れて新大陸アメリカへ渡り、アンたちも師の後を追って船に乗った。
マサチューセッツの植民地に着いた43歳のアンは、家に人を集めて、聖書を研究し、キリスト教の教義について議論する会を開いた。自由に発言し、意見を交換しあうこの集いは評判を呼び、参加者は80人ほどにふくれあがった。
植民地のピューリタン教会は、律法と労働の必要を神の御心に沿う道として説いたが、アンは神の恩寵を信じる信仰心だけが魂を救う道だとして教会側に反発した。聖職者たちは彼女と議論したが、聖書を精読している彼女に逆に言い負かされてしまった。
教会の聖職者たちは、植民地のジョン・ウィンスロップ知事にこれを訴え、ハッチンソンの異端裁判が開かれた。46歳の彼女は妊娠中だったが、ウィンスロップを議長とする法廷は、連日彼女を呼びだしては長時間立たせたまま尋問を浴びせた。
公の場でなく、自宅での発言をとらえて有罪とするのは明らかに無理があり、彼女は聖書を引用しつつ、みごとな弁護をおこなったが、結局、彼女は聖職者たちを侮辱したという罪を押しつけられた。彼女はこう言い放った。
「あなたたちがわたしをどう遇したか思い出すがいい。わたしに何をしようとしているかも。神は滅ぼすだろう、あなたがた、あなたがたの子孫、そしてこの国のすべてを」
彼女は植民地からの追放を言い渡され、続いて開かれた教会側による宗教裁判により、彼女のピューリタン教会からの破門が決まった。
マサチューセッツの植民地から追放されたハッチンソンは、支持者のつてで、現在のロードアイランド州ナラガンセット湾のポーツマスに移り住んだ。お腹の子どもは、胞状奇胎で生まれず、彼女はその冬じゅうを頭痛と嘔吐で苦しみながら臥せってすごした。このニュースを聞いたマサチューセッツの人々は、おおいに喜んだという。
その後、夫が没すると、未亡人となったアンはポーツマスを離れ、51歳のとき、現在のニューヨーク市のブロンクスに腰を落ち着けた。そこは当時、ニューネーデルランドと呼ばれていて、侵略者ネーデルランド側と、地元民ネイティブ・アメリカンとの抗争事件が絶えない地域だった。引っ越した翌年1643年8月、ハッチンソンたちが住む集落に、ネイティブ・アメリカンによる襲撃があり、そこにいたアン・ハッチンソンとその子どもたちは、末の娘を除いてすべて殺された。アン・ハッチンソン、享年52歳だった。
アン・ハッチンソンは自分の考えを正直に発言した、ただそのことによって歴史に名を残した女性である。彼女の人生は、世のなかには世間と調子を合わせるばかりで、知性や勇気とは縁遠いところで生きている人たちがいかに多いかを考えさせる。
(2015年7月20日)
●おすすめの電子書籍!
『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます