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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月20日・高杉晋作の詩心

2023-08-20 | 歴史と人生
8月20日は、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のヴォーカリスト、ロバート・プラントが生まれた日(1948年)だが、幕末の風雲児、高杉晋作の誕生日でもある。

高杉晋作は、天保10年(1839年)の8月20日に、現在の山口県の萩で生まれた。父親は二百石扶持の長州藩士で、晋作は長男だった。
小さいころから漢学、剣術を学んだ晋作は、18歳のとき、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門。師の松陰は、ただちに高杉の才能を見抜き、彼を発奮させようと策を案じた。
19歳のとき、高杉は藩の命令で江戸へ留学した。すると、師の松陰が幕府に捕縛され、江戸に連れてこられた。晋作は獄に師を見舞うが、松陰は幕府によって処刑された。
22歳のとき、藩命で、中国の上海を旅した。そして、西欧諸国の帝国主義に浸食され、内乱により国内がばらばらになった中国の惨状を見て帰ってきた。これが高杉の大きなターニングポイントとなった。なお、このとき、上海から回転式拳銃(リボルバー)を持ち帰り、後に坂本龍馬に護身用として贈っている。
高杉は運動を起こし、長州藩を外国人排撃の方向へ動かした。そして高杉が24歳のときに、長州藩は関門海峡を封鎖し、海峡にいる外国船へ砲撃を加えた。このとき下関を守るため、高杉が長州藩内に組織したのが「奇兵隊」で、これは武士、農民、町人で構成された、身分制度にとらわれない近代部隊だった。しかし翌4年には、英仏米蘭の四カ国の連合艦隊が長州の下関を攻撃し、砲台が占領された。この戦後処理にあたり、高杉は藩の命を受けて講和会議に出席し、列強との交渉にあたった。このとき、欧米列強が突きつけてきた要求のなかに、関門海峡に浮かぶ彦島(またの名を巌流島)の期限付き租借があったが、上海を見てきた高杉は要求を拒絶し、長州藩は江戸幕府の命令にしたがったまでのこと、と損害賠償のツケは江戸幕府へとまわされた。この諸国分立の封建体制が列強を手間どらせ、日本が植民地化をまぬがれた一因ともされる。
一方、この下関戦争と同時期に京都であった政変により、長州藩は、薩摩藩を主力とする軍隊によって京都から追い払われ、朝廷の敵ということにされていた。
西国諸藩の軍隊を結集した幕府連合軍の長州への攻撃が近づくなか、長州藩内では、江戸幕府にわびを入れ、幕府になびこうという俗論派が台頭してきた。藩内にいる、幕府との対決を主張する正義派がつぎつぎと処分され、襲われた。高杉もいったん福岡に逃げて身を隠すが、ふたたび長州へ舞いもどり、奇兵隊を決起させ、クーデターを起こして、藩内の俗論派を一掃し、長州藩を江戸幕府を倒す方向でまとめた。歴史はその後、薩長連合、大政奉還、江戸幕府終了と動いていくが、以前から肺結核を病んでいた高杉は、大政奉還を見ることなく、慶応3年4月(1867年5月)に没した。28歳だった。

「日本のチェ・ゲバラ」高杉晋作ははげしい人生を生きた革命家だが、詩人でもあった。
「三千世界の鴉(からす)を殺し、主と朝寝がしてみたい」
こんな秀逸な都々逸(どどいつ)を歌った高杉の辞世はこうだった。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
この後を、看取った尼さんがつけた理に落ちた下の句が伝わっているが、粋な詩人の彼だったらきっとちがう風に展開したろう。自分だったら、下の句はこんな風だったのでは、と想像する。
「まじめも休み休み言はむかな」
(2023年8月20日)



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