goo blog サービス終了のお知らせ 

1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月15日・ダ・ヴィンチの考

2025-04-15 | 美術

4月15日は、ジャーナリスト田原総一朗が生まれた日(1934年)だが、ヘリコプターの原理を考え出した万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生(ユリウス暦による)を記念して「ヘリコプターの日」でもある。

レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年、現在のイタリア、トスカーナ州のヴィンチに生まれた。父親は「セル」と略称された公証人だった。本名は「ヴィンチ村のセル・ピエロの息子のレオナルド」という意味らしい。
レオナルドは、14歳のとき、芸術家ヴェロッキオに弟子入りした。この工房で、レオナルドはたちまち、絵画、彫刻、設計、機械工学、木工などさまざまな分野に才能を示した。彼が絵画の技量があまりに高いので、師匠のヴェロッキオは描くのをやめてしまったという。レオナルドは、十代にして「親方」の資格を取得した。
30歳のころから、ミラノ公国へ移り、ミラノ公や教会の依頼で芸術作品を制作した。このころの作品に、修道院の食堂に描かれた壁画「最後の晩餐」、マドリードの美術館にある「受胎告知」がある。
47歳のころ、フランス軍がミラノ公国へ攻めてくると、レオナルドはヴェネツィアへ避難し、そこでフランス軍の攻撃から町を守る軍事技術者となった。その後、レオナルドは、チェゼーナ、フィレンツェ、ヴァチカン、などを渡り歩き、行った先々で軍事技術者、画家、工芸家などとして土地々々の権力者の下で働いた。ルーブル美術館にある至宝「モナ・リザ」は、この遍歴時代のなか、50代前半のころに描かれたものである。
64歳のとき、レオナルドは仏国のフランソワ一世に招かれ、ロワール川を見下ろすアンボワーズ城にほど近い邸宅を与えられた。そうして、光栄ある名声に包まれながら、1519年5月、そこで没した。67歳だった。

仏国の詩人ポール・ヴァレリーはこう書いている。
「私のつもりでは、この人間の業績に何らか思考の跡があるとみることになれば、もうこれ以上に広範な思考はあるまいとおもわれるほど多面にわたる仕事をしてみせた人間を想像してみようというのである。(中略)私は、こういう人間が、この世界の生なる全体とその密度の中をどう動いているものか、その足どりをたどり、そこでは自然をいかに手馴づけて、これを模してはこれに触れ、やがてはついに自然の中にもないものを考え出してみようという難題にまでも立ち向かうところを見ようというのである。
 こういう想像上の人間には、普通ではその果ての見通しさえあまりにも遠くかけはなれていて見えそうもなくて、その巨体を容(い)れようにも、名前がない。いま私には(レオナルド・ダ・ヴィンチ)の名にまさるふさわしい名は見当たらないとおもわれる」(山田九朗『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』岩波文庫)

ダ・ヴィンチは受験戦争を経験した日本人に耳が痛いことを言っている。
「食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない」(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)
(2025年4月15日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月14日・トインビーの目

2025-04-14 | 歴史と人生

4月14日は、「ゲーム理論」の経済学者シェリングが生まれた日(1921年)だが、英国の歴史学者、トインビーの誕生日でもある。

アーノルド・ジョーゼフ・トインビーは、1889年、英国のロンドンで生まれた。父親は医者で、貧民救済にたずさわる社会事業家でもあった。
アーノルドは10歳のころから 寄宿舎生活を送った。寄宿舎では、頭脳優秀だったことが反感を買い、上級生らのいじめにあったり、寮の奇妙な規則に苦しんだりした。
22歳のとき、オクスフォード大学のベイリオル・カレッジを卒業したトインビーは、同学寮の学生指導教師となり、また、英国考古学研究所の研究生として、ギリシア・ローマ史の研究をはじめた。
26歳で大学を辞任し、英国外務省に就職。政治情報部に勤めながら、歴史学書を執筆。
30歳のとき、パリ講和会議に中東地域専門委員として出席。ロンドン大学の教授に就任。
40歳のとき、京都で開催された太平洋問題調査会に、英国代表団の一員として初来日。
41歳のころから、代表作となる大著『歴史の研究』の執筆をはじめた。完結したのは、65歳のときだった。この著作によって、トインビーは、従来の国家を中心とした歴史観を脱し、新たに文明を中心とした大きな歴史観を打ち立て、人類の歴史を文明の興亡として描き直して見せた。
67歳のときから、約1年半をかけて西まわりで世界一周の旅に出かけ、79歳のとき、日本政府から勲一等瑞宝賞を授与された後、1975年10月、ヨークにて没した。86歳だった。

トインビーは、ギリシア・ローマの歴史研究から出発して、全人類の歴史までを見渡すところまでいった大歴史学者である。彼は、たびたび来日し、日本にも多くの友人をもつ親日派だったが、長いつきあいである日本のいろいろな局面を彼は目撃してきている。
1929年、40歳のトインビーが初来日し出席した会議の主な議題は「満州問題」だった。当時、日本は山東出兵、張作霖爆死事件と、満州に軍事侵略を着々と進め、国際的に非難の嵐を浴びている真っ只中だった。国内的には、治安維持法ができて、思想統制がきびしくなっていた。そのときの公開講演でトインビーは、日本に対して警告を発している。
「日本はカルタゴの轍(てつ)を踏むなかれ」
カルタゴは、ローマと戦い、ついには滅ぼされた古代の商業国家で、敗戦の結果、カルタゴは焦土と化し、生き残った国民はすべて奴隷とされた。
トインビーは、日本に、カルタゴのようになってはいけない、といましめたのである。
でも、日本はトインビーの警告を無視し、中国大陸侵略、太平洋戦争と進み、結局、多くの都市が焦土と化した。幸いにして日本人は奴隷化はまぬがれたけれど。

歴史学が専門で、トインビーには多くを教わった。
日本のなかにいると、どうしても日本びいきに、ものごとを見がちになる。でも、もしも歴史学を科学として学んだ者なら、もっと客観的にクールに自国を見られる。
「子どもたちに愛国心を植えつけるために、歴史はあらかじめ、日本びいきに見るように教えなくてはならない」
というような社会科教育をする国からは、トインビーのような大学者は育ちにくい。
(2025年4月14日)



●おすすめの電子書籍!

『アメリカ・コミュニティー事典 上巻』(金原義明)
独立前から現在まで北米のコミュニティー(生活共同体)数百団体を紹介。宗教的、世俗的集団を網羅。米国史研究者必携。四〇年間の研究の成果、ここに結実。

●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月13日・ベケットの空

2025-04-13 | 文学

4月13日は、哲学者ラカンが生まれた日(1901年)だが、アイルランド出身の劇作家、サミュエル・ベケットの誕生日でもある。

サミュエル・ベケットは、1906年、アイルランドのフォックスロックスで生まれた。彼が生まれたのは、13日の金曜日で、復活祭の前の聖金曜日だったという(キリストがはりつけにされた記念日だった)。父親は、工事の見積もりをする積算士だった。
5歳のころには、フランス語とピアノを習いだしたというサミュエルは、ダブリンの大学でヨーロッパ近代語を専攻。
大学卒業後、22歳のとき、仏国パリの高等師範で英語を教えた。高等師範教師時代のベケットは、毎晩酒を飲み、自室でフルートを吹き、マルセル・プルースト論を書いていた。彼は夏休みにプルーストの長編『失われた時を求めて』を二回通り読んだという。また、このころ、同じアイルランド出身のジェイムズ・ジョイスと知り合い、ちょうど『ユリシーズ』の仏語訳が完成した祝賀パーティーがあって、ポール・ヴァレリーらとともに、ベケットも出席した。
24歳のとき、アイルランドへもどり、母校の大学でフランス文学の講師となった。しかし、ベケットは、しばらく勤めた後、辞表を提出した。ベケットは言っている。
「教えてみてわたしは、自分でもほとんどわかっていないことを、そんなことなどどうでもいいと思っている人たちにむかってしゃべっていることを知った」(川口喬一『ベケット』冬樹社)
27歳から30歳までの3年間、英国ロンドンですさんだ生活を送ったベケットは、小説を試作しながら、独国の都市を放浪した後、31歳のとき、仏国パリに住み着いた。
ナチス・ドイツの占領下にあった大戦中のフランスでは、ベケットはレジスタンス活動に従事した。
第二次大戦終了後、いったんアイルランドに帰った後、40歳のとき、ふたたびパリにもどってきて、小説や戯曲の執筆をはじめた。
49歳のとき、田舎道の道ばたで二人の男がああでもないこうでもないと言い合い最後までなにも起こらないまま終わる戯曲『ゴドーを待ちながら』がパリで初演。当初は非難ごうごうだったが、しだいに評価は高まっていった。
1969年、63歳のとき、ノーベル文学賞受賞。受賞の報せを聞き、ベケットは言った。
「ノーベル賞はジョイスこそが受けるべきであった」(同前)
1989年12月、パリで没。83歳だった。

『ゴドーを待ちながら』は、「空欄補助効果」の作品だと理解している。どの文学作品も何らかの空欄があって、読者がそれぞれ自分の解釈でそこを埋めて作品が完成されるのだけれど、『ゴドー』は作品自体がばかでかい空欄になっている。その分、わかりにくいが、読者の解釈の幅は大きくなる。

ベケットは、アイルランド出身の英語で育った人だけれど、フランスにいてフランス語で小説や戯曲を書いたフランスの作家である。彼が口述筆記を手伝ったジョイスが、異国にいながら英語で、故郷ダブリンのことばかり書いたのと、趣を異にしている。
『ゴドーを待ちながら』もフランス語で書かれた。ベケットはこう言ったそうだ。
「フランス語のほうが、スタイルなしで書くのが容易であるから」(同前)
(2025年4月13日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ユリシーズ」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月12日・ティンバーゲンの説

2025-04-12 | 科学

4月12日は、ガガーリン宇宙飛行士を乗せた世界初の有人宇宙衛星船が打ち上げられた(1961年)「世界宇宙飛行の日」だが、この日は、経済学者ティンバーゲンの誕生日でもある。

ヤン・ティンバーゲンは、1903年、ネーデルランド(オランダ)のハーグで生まれた。5人きょうだいのいちばん上だった。ノーベル生理学・医学賞を受賞したニコ・ティンバーゲンは実弟で、兄弟で別分野のノーベル賞を受賞している。
地元の高校を卒業後、ヤンはライデン大学に入り、数学と物理学を学んだ。大学在学中、彼は、カメルリン・オネス、ヘンドリック・ローレンツ、ピーター・ゼーマン、アルベルト・アインシュタインといったそうそうたる物理学者たちと討論した(この4人は全員ノーベル物理学賞受賞者である)。
大学を出たティンバーゲンは、政府の統計局に勤めた後、33歳の年から、スイス・ジュネーブにあった国際連盟に勤務しだした。このころ、母国ネーデルランドと米国についての国民経済モデルを発表した。
第二次大戦後は、ネーデルランドの中央計画局局長、世界銀行顧問、途上国各国の政府顧問、国際連合開発計画委員会議長などを歴任。
国連にいた66歳のとき、経済政策の理論の発展につくした功績により、第一回目のノーベル経済学賞を受賞。
70歳のとき、ライデン大学教授に就任し、2年後に退官した。
1994年6月、故郷のハーグで没。91歳だった。

ノーベル経済学賞は、昔はなかったのだけれど、1968年に、スウェーデン国立銀行が設立300周年を記念して、ノーベル財団に働きかけ、設立された賞で、その第一回の受賞者がティンバーゲンとなった。

ティンバーゲンの名は、「ティンバーゲン基準(Tinbergen Norm)」で有名である。これは、ある企業の最低の収益部門と、最高の収益部門の収入の差が1対5より大きいと、それは逆効果として働き、会社に不利益をもたらす、というもの。
ティンバーゲンは、国家、政府のマクロ経済学のモデルをはじめて構築して見せた経済学者で、彼が提唱した学説には、価格、需要量、供給量の関係を示した「くもの巣理論」や、政策目標の数と、それに必要とされる政策手段の数が一致するという「ティンバーゲンの定理」がある。

ティンバーゲンはこう言っている。
「人類の問題は、もはや国家政府によっては解決されない。必要なのは、世界政府である」(Mankind's problems can no longer be solved by national governments. What is needed is world government.)
(2025年4月12日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月11日・小林秀雄の構え

2025-04-11 | 文学

4月11日は、「若大将」加山雄三(1937年)が生まれた日だが、評論家、小林秀雄の誕生日でもある。

小林秀雄は、1902年、東京の神田に生まれた。父親は宝石の研磨技術を欧州で学んできた技術者、実業家だった。
18歳の年に、父親が没し、母親が肺ガンになった。このころ、小林秀雄は同人誌に小説を発表していた。
23歳の年に、東京帝国大学の仏文科に入学。詩人の中原中也を知り、中原の恋人だった長谷川泰子と恋愛関係におちいり、長谷川泰子と同棲をはじめた。
26歳の歳に大学卒業。卒論はアルチュール・ランボー論だった。同じ年、同棲していた家から逃げだし、奈良の志賀直哉を頼った。
27歳のとき、雑誌「改造」の懸賞論文に応募した評論「様々なる意匠」が二席に入り、評論家としてデヴュー。
28歳のとき、ランボーの詩集の翻訳『地獄の季節』出版。以後、『ドストエフスキイの生活』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』などを書き、56歳のとき、ベルグソン論である『感想』(未刊)を執筆開始。
75歳のとき、代表作『本居宣長』を出版。
1983年3月、腎不全、尿毒症などのため、入院先の病院にて没。80歳だった。

学生のころ、小林秀雄の書いたものはほとんど読まなかった。その昔、小林秀雄の文章は大学入試の問題にひじょうによく取り上げられていて、高校時代にさんざん問題集で読まされ、辟易としていた。
しかし、小林秀雄が没してから、彼の講演録音テープで、たばこをやめた話を聞き、それからおもしろい人だと読みはじめ、全集をそろえるまでになった。

戦争が終わったばかりのころ。戦時中に戦意高揚をあおった文学者や知識人がつるし上げられていたなか、文人戦犯として批判された小林はこう言い放った。
「僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」(山本七平「小林秀雄の生活)

年をとって知った顔をする輩は多いが、小林秀雄は違う。彼はこう書いている。
「天命を知らねばならぬ期に近付いたが、惑いはいよいよこんがらがつて来る様だし、人生の謎は深まつて行く様な気がしてゐる。成る程人並みに実地経験といふものは重ねて来たが、それは青年時代から予想してゐた通り、ただ疑惑の種を殖す役に立つて来た様に思はれる」(「年輪」)
これは自分の実感と同じである。知ったかぶりをせず、実感を正直に言ってくれる人こそ貴重である。彼は現代の紀貫之である。

世の多くは、小林秀雄の頭のよさ、直感力をほめるけれど、自分は何より彼の、保身に走らず、丸腰でつかつかと相手にふところに歩み寄っていくあの無勝手流のやり方、「あしたのジョー」のノーガード戦法のような構えに強く引かれる。
初めて読む方には『国語といふ大河』『私の人生観』『スランプ』などお勧めする。
(2025年4月11日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする