1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月20日・スキナーの資質

2025-03-20 | 科学

3月20日は、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンが生まれた日(1770年)だが、心理学者B・F・スキナーの誕生日でもある。

バラス・フレデリック・スキナーは、1904年、米国ペンシルヴェニア州サスケハナに生まれた。父親は弁護士だった。
若いころ、スキナーは作家志望だった。ハミルトン・カレッジの学生だったころ、彼は詩人のロバート・フロストと知り合い、短編小説を見てもらった。フロストから「印象深い」という評価をもらったスキナーは、大学を出た後、ニューヨークのグレニッチヴィレッジに下宿して小説を書きつづけた。彼は、父親に紹介してもらった石炭会社での苦情処理係の仕事の経験を題材にした小説『無煙炭会社の苦情処理委員会』という処女作を出版したが、ぱっとしなかった。
スキナーは、自分に作家として表現すべきものがないと悟り、進路を変えた。彼は、自分がずっと人間の行動に興味をもっていたことを思い出し、また、バートランド・ラッセルの『哲学』や、イワン・パブロフの『条件反射』を読んで、こう考えた。自分のするべきことは人間の行動を正確に描くことで、それは文学でなく、科学である。
スキナーはハーヴァードの大学院へ入学し、人間行動の反射について研究した。
27歳のとき、ハーヴァード大学で博士号を取得したスキナーは、ミネソタ大学、インディアナ大学で教え、そして41歳からハーヴァード大学で教鞭をとり、斬新な発想による実験や理論をつぎつぎと打ち出し、新しい行動主義心理学を構築した。20世紀でもっとも影響力のあった心理学者の一人とされる。
44歳のとき、彼は小説『ウォールデン2』(邦題は「心理学的ユートピア」)を発表した。これは、行動主義の理論にしたがって注意深く設計された環境下に人間をおくのなら、そこに住む人間はおのずと善をおこなう、創造的で魅力的な人間になっていく、という行動主義の主張を物語化したもので、小説では、千人の住む大規模な共同生活体「コミュニティー」の生活ぶりが描かれている。
『ウォールデン2』は、ロングセラーとなり、この本の読者たちがツイン・オークス・コミュニティーやロス・オルコネスなど、実際にコミュニティーを立ち上げ、それらは現在でも続いている。スキナーは、1990年8月、白血病により没した。86歳だった。

スキナー博士の名は「オペラント条件づけ」で有名である。
ここに、てこを押すと、えさが出てくる仕掛けのついた箱「スキナー・ボックス」を用意し、ねずみを入れる。あるとき、ねずみが偶然てこに触れ、えさが出てくる。これが何度か繰り返されるうち、ねずみは自分から進んでてこを押すようになる。これが「積極的な強化」である。逆に、てこに触れると電気ショックが走る仕掛けだと、ねずみはてこに触れなくなっていく。これが「消極的な強化」で、このように、みずからの行動の結果に影響されて行動を起こすようになる条件反射を「オペラント条件付け」と呼ぶ。学校で、いい成績をとった生徒を教師がほめるのは積極的な強化であり、悪い点数の生徒をしかるのは消極的な強化で、オペラント条件付けの理論は教育現場でよく応用される。

スキナー博士は言っている。
「教育とは、学習したことがらが忘れ去られたとき、なお残っているところのものである」(Education is what survives when what has been learnt has been forgotten.)
(2025年3月20日)



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『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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3月19日・リヴィングストンの気骨

2025-03-19 | 歴史と人生

3月19日は、『アラビアン・ナイト』を翻訳した探検家バートンが生まれた日(1821年)だが、同じく探検家のリヴィングストンの誕生日でもある。

デイヴィッド・リヴィングストンは、1813年、英国スコットランドのブランタイアで生まれた。8人きょうだいの上から2番目で、彼の父親は紅茶のセールスマンだった。貧窮した家の経済状態により、デイヴィッドは10歳のときから綿紡績工場で働きだし、働きながらよく本を読み勉強した。苦学して神学と医学を修め、宣教師となった。
27歳のとき、リヴィングストンは、船で南アフリカ(当時は英国領)へ渡った。アフリカ大陸の最南端であるケープタウンに上陸し、そこから大陸を北へ進んでアフリカの奥地を探検した。彼は天体観測による測量術を習得していて、アフリカの正確な地図を作ることができた。彼の探検、調査によって、当時、ヨーロッパにはまったく知られていなかったアフリカ大陸の地理や人文の事情が明らかになった。
ライオンに襲われ、飢え死にしかけ、熱病や赤痢におかさながらも、43歳になる年に、アフリカ大陸横断を達成。資金がなくなり、ひとまず英国へもどった。
16年ぶりに踏んだ英国の地では、英雄として迎えられ、彼が書いたアフリカ探検記はベストセラーになった。しかし、宣教師協会から、布教に熱心でないとして除名された。
宣教師でなくなったリヴィングストンは43歳のとき、今度は英国政府から任命された探検隊のリーダーとして、再度アフリカへ渡った。このときは約6年間、アフリカを探検し、妻をマラリアで亡くすなど数々の苦難にあった後、帰国命令を受け、いったん帰国した。
そして52歳のとき、王立地理協会から「ナイル川の水源を見つける」という使命をおびて、またアフリカへ旅立った。この三度目のアフリカ探検は、インド洋に面したタンザニアから入ったが、しばらくすると消息が途絶えた。
「リヴィングストンは死んだ」というニュースが世界を駆けめぐった。これを受け「ニューヨーク・ヘラルド」紙の特派員ヘンリー・スタンリーが、捜索隊を編成してアフリカ入りし、タンザニアの奥地で、やせ衰えたリヴィングストンをついに発見した。
「リヴィングストン博士、ですね?」(Dr. Livingstone, I presume?)
リヴィングストンが消息を断って約6年がたっていた。

リヴィングストンは、まだナイルの水源をさがすからと、帰国のすすめに応じず、特派員を帰らせた。そして、1872年5月、現在のザンビアの村でマラリアと赤痢による内出血のため、没した。59歳だった。彼の心臓は抜きとられて現地で埋葬され、遺体は英国へ送られ、腕に残ったライオンによる傷跡によって本人と確認された後、埋葬された。

リヴィングストンはアフリカ大陸を進みながら、現地人を奴隷として扱う奴隷売買を嫌悪し、現地で目の当たりにした奴隷虐待や虐殺の実情を訴え、告発する手紙を本国に送りつづけた。彼のそうした努力が功を奏し、本国の命令によって奴隷市場が閉鎖されたりしたが、奴隷貿易は完全にはなくならなかった。
一方で、密林のなかで風土病と飢餓に苦しむリヴィングストンを助けてくれたのは、アフリカの奥地に入りこんでいた奴隷商人たちだった。また、リヴィングストンが作った精密な地図による交易ルートをもっともよく活用したのも、奴隷商人たちだった。
この矛盾にリヴィングストンは苦悩したという。良識と気骨のスコットランド人だった。
(2025年3月19日)


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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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3月18日・エドガー・ケイシーの奇跡

2025-03-18 | 歴史と人生

3月18日は、詩人ステファヌ・マラルメが生まれた日(1842年)だが、霊能力者エドガー・ケイシーの誕生日でもある。彼は「20世紀最大の奇跡の人」と呼ばれる。

エドガー・ケイシーは、1877年、米国ケンタッキー州ホプキンスビルで生まれた。父親は農夫で、エドガーが生まれると間もなく治安判事に選ばれ、後に町へ出て保険屋をはじめた。エドガーたちは6人きょうだいだった。
小さいときから信じ深く、聖書を何度も通読していたエドガーは、睡眠中に枕元の書物の内容をすべて覚えてしまう特殊な能力をもっていた。
十代の前半のころ、友だちが強く投げた野球のボールが彼の背骨に当たった。彼は一見平気だったが、急に凶暴になり、家に帰ってからも、母親が煎っているコーヒー豆を取り上げて庭にまくなど奇行が止まらなかった。母親は彼をベッドに寝かせた。すると、寝入った状態でエドガーは急にしゃべりだした。
「私は脊柱に当たった球のためにショックを受けた。私をこの衝撃から救い出す方法は特別のバップを作り、それを私の脳の底部に貼ることである。(中略)急いで! もしあなたがたが私の頭脳に取りかえしのつかない損傷を与えたくないならば、すぐ今言ったようにしなさい」(J・ミラード著、十菱麟訳『奇跡の人』霞ケ関書房)
言われた処方にしたがって母親が湿布を作って貼ると、彼は回復した。
16歳から農場を手伝いだしたエドガーは、その後、仕事中に聞こえてきた天使の声にしたがって町へ行き、書店員、保険のセールスマンをへて、写真館に勤めた。
写真館時代から、彼の能力に目をつけた医師志望の相棒と組んで、霊能力による診察をおこなうようになった。医者に見放され途方に暮れた相談者がやってくると、ケイシーは「リーディング」に入る。彼は自己催眠をかけ睡眠状態で、初対面の患者の病気の原因と、その治療法をしゃべる。それを相棒がメモに書き取る。処方されるのはたいてい食餌療法と生活習慣の改善で、それを実行すると病気はすぐに治ってしまう。ただし、ケイシー本人は目覚めたとき、自分がしゃべった内容を全然覚えていないのだった。
彼のこの特殊な能力は、睡眠中に彼の意識が「アカシック・レコード」という魂の全履歴が記されている記録を調べてくるもので、ケイシーは協力者を変えながらこの能力によって、生涯にわたり約14000件の診断をおこなったとされる。
ケイシーは病気の診断だけでなく、紛失物のありかや、競馬レースの結果を言い当てることもできたために、なかにはそれをひそかに悪用する者もいた。そうしたお金もうけに能力を利用された際は、目覚めたとき、ひどく頭痛がしたという。彼はまた第二次世界大戦の勃発を前もって予言していた。
評判が高まり、リーディングの依頼は増加し、彼について書かれた本が出版されると、依頼はさらに殺到した。ケイシーは周囲の反対を押しきってそれらに律儀に対応してからだを消耗させ、1945年1月、ヴァージニア州ヴージニアビーチで没した。67歳だった。

以前、エドガー・ケイシーの伝記を読み、感服した。
彼は転生して、つぎは1998年に生まれ変わると予言して亡くなったそうで、もう地球のどこかに、彼の生まれ変わりがいるのにちがいない。すごい能力だけれど、当人にとっては、因果な能力で、憧憬と同情を同時に感じる。
(2025年3月18日)


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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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3月17日・横光利一の徳

2025-03-17 | 文学

3月17日は、ゴルファー、ボビー・ジョーンズの生まれた日(1902年)だが、「小説の神様」横光利一の誕生日でもある。

横光利一は、1898年、福島県の北会津に生まれた。本名は「としかず」と読む。
父親は鉄道技師で、そのため利一は幼いころから東京の赤坂、三重の柘植、滋賀の大津などを各地を転々としながら成長した。利一の親友、川端康成がこう書いている。
「横光君の父上は測量技師で、『鉄道の神様』と言はれてゐた。勘のいい人で、トンネル工事の入札は名人だつた。山をぢつとみてゐると、工事の見積りが立つといふ風だつた。その生涯で最も華かだつた時代は、生野で銀山をあてた時である。幾度か浮き沈みの一生であつた。金銭には淡白で、人に言はれるままに貸し与へ、証文は破いた。京城で死んだ。行年五十四」(川端康成「横光利一」)
利一は早稲田大学に入学したが、長期欠席と学費未納により除籍となった。
25歳になる年に、菊池寛によって創刊された雑誌「文藝春秋」の編集同人となった。また同年、小説『日輪』を発表。斬新で劇的な文体で、文壇に衝撃を与えた。
26歳のとき、横光は、川端康成、今東光、片岡鉄平らと同人誌「文芸時代」を創刊。ここに、新しい日本語の文体創造を目指す「新感覚派」の運動がはじまった。
32歳のとき、ヨーロッパの新しい潮流「意識の流れ」を意識し、独創性豊かに展開した短編『機械』を発表。以後、長編『上海』『紋章』『家族会議』『旅愁』などを書いた。ほかに『悲しみの代価』『青い石を拾ってから』『静かなる羅列』『花園の思想』『睡蓮』『微笑』などがある。
敗戦後の1947年、疎開先での記録『夜の靴』を発表し、同年12月、胃潰瘍と腹膜炎のため没した。49歳だった。

横光利一はもっとも好きな作家のひとりである。
「蟻(あり)臺上(だいじょう)に餓(う)ゑて月高し」
横光の故郷、柘植までこの横光の句碑を見に行ったことがある。
横光文学の魅力は志にある。その書こうとねらっているレベルの高さと、その高い理想に迫ろうと苦闘する姿の美しさにある。

「野兎はいちびの茂みの中で、昼に狙はれた青鷹の夢を見た。さうして、飛び跳ねるといちびの幹に突きあたりながら、むかごの葉むらの中に馳け込んだ」(『日輪』)

「馬車は炎天の下を走り通した。さうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜つた馬の額の汗に映つて逆さまに揺らめいた」(『蠅』)

横光はその才気走った作風とは裏腹に、人柄は純朴篤実だった。親友の川端康成は言う。
「君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕をうるおすのをひそかに僕は感じた」(川端康成「横光利一弔辞」)
同じく親友の小林秀雄は言う。
「僕は横光さんていう、人間が好きだったしね、立派な人なんでね」(対談「美のかたち」)
(2025年3月17日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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3月16日・ゴーリキーの背筋

2025-03-16 | 文学

3月16日は、映画監督ベルトルッチの誕生日(1941年)だが、露国の作家、マクシム・ゴーリキーが生まれた日でもある。

マクシム・ゴーリキー(本名、アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ)は、1868年3月16日に、ロシア、現在のゴーリキー市で生まれた(ユリウス暦による。グレゴリオ暦だと日が異なる)。父親は家具職人で、3歳の息子マクシムがコレラにかかったのに感染し没した。その後、母親が彼をおいて家を出ていき、頼っていた母方の家が破産し、あるいは彼自身が病気がちだったこともあって、マクシムは子ども時代から苦労して育った。
10歳のころからゴーリキーは、くず拾い、靴屋の小僧、汽船の厨房の皿洗い、パン焼き職人などさまざまな職業を転々とした。文学青年だった彼は、十九歳の時、孤独と失恋の痛手から拳銃自殺をはかった。たまたま通りかかった人の通報で病院へ運ばれ、弾丸摘出の手術を受けて、自殺は未遂に終わっている。
20歳のころから、民衆のなかへ入ってそこから革命を起こそうというヴ・ナロードの動きに合流し、革命運動にかかわりはじめた。
21歳のとき、革命運動に関与して逮捕。数日で釈放されるが、以来、ゴーリキーの行動はつねに帝政ロシアの警察の監視下におかれ、逮捕と釈放が繰り返されることになる。
各地を放浪するなか、作家のウラジミール・コロレンコに出会い、励まされて小説を書きだし、24歳のとき処女作『マカール・チュドラ』を新聞紙上に発表。30歳で『オーチェルクと短編』を出版し、一躍人気作家となった。34歳のとき、代表作の戯曲『どん底』初演。
1905年1月、サンクトペテルブルクであった「血の日曜日」事件に参加。逮捕され、保釈金を積んで釈放された。警察側の監視体制はいよいよ強まるが、そのなかで執筆を続けた。
1917年、ゴーリキーが49歳の年に、二月革命、十月革命が起きた。ゴーリキーは、革命を応援してきた論者で、ロシア革命成功後は、新政府によって優遇されたが、権力をにぎった革命政府が横暴を働きだすと、彼はレーニンやトロツキー、スターリンをも容赦なく批判し、今度は新政府ににらまれる存在となった。
61歳のとき、悪化した肺結核の療養のため、イタリアのソレントへ移ったが、64歳のときに帰国。ソヴィエト連邦政府は、有名人の帰国を、国家のいい宣伝材料として歓迎し、ゴーリキーに家や別荘を与え、彼の故郷を「ゴーリキー市」と改名した。
1936年6月、流行性感冒により没。68歳だった。スターリンによる大粛清がおこなわれていたころで、ゴーリキーの死には毒殺説も存在する。

ゴーリキーが67歳、亡くなる前の年に、『ジャン・クリストフ』の作家ロマン・ロランが彼を家に訪ねていて、ロランは印象をこう記している。
「ゴーリキーは敷居際に立って私たちを待っていた。もしスターリンが予想とはちがう人だとしたら、ゴーリキーは完全に想像どおりの顔であった。背がたいへん高い。私より高い。(中略)白髪混りのブロンドの眉、刈り込んだ灰色の頭髪、人の好い淡青色の眼。その眼の底に悲しみが見える」(佐藤清郎『ゴーリキーの生涯』筑摩書房)

苦しい家庭環境のなかから立ち上がり、絶望しかけたときもあったのを乗り越え、価値観がころころと変わる革命と動乱のきびしい時代をくぐりぬけた。権力者にもこびることなく、背筋をぴんと立てて生きた、みごとな生きざまだった。
(2025年3月16日)



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『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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