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1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月13日・ベケットの空

2025-04-13 | 文学

4月13日は、哲学者ラカンが生まれた日(1901年)だが、アイルランド出身の劇作家、サミュエル・ベケットの誕生日でもある。

サミュエル・ベケットは、1906年、アイルランドのフォックスロックスで生まれた。彼が生まれたのは、13日の金曜日で、復活祭の前の聖金曜日だったという(キリストがはりつけにされた記念日だった)。父親は、工事の見積もりをする積算士だった。
5歳のころには、フランス語とピアノを習いだしたというサミュエルは、ダブリンの大学でヨーロッパ近代語を専攻。
大学卒業後、22歳のとき、仏国パリの高等師範で英語を教えた。高等師範教師時代のベケットは、毎晩酒を飲み、自室でフルートを吹き、マルセル・プルースト論を書いていた。彼は夏休みにプルーストの長編『失われた時を求めて』を二回通り読んだという。また、このころ、同じアイルランド出身のジェイムズ・ジョイスと知り合い、ちょうど『ユリシーズ』の仏語訳が完成した祝賀パーティーがあって、ポール・ヴァレリーらとともに、ベケットも出席した。
24歳のとき、アイルランドへもどり、母校の大学でフランス文学の講師となった。しかし、ベケットは、しばらく勤めた後、辞表を提出した。ベケットは言っている。
「教えてみてわたしは、自分でもほとんどわかっていないことを、そんなことなどどうでもいいと思っている人たちにむかってしゃべっていることを知った」(川口喬一『ベケット』冬樹社)
27歳から30歳までの3年間、英国ロンドンですさんだ生活を送ったベケットは、小説を試作しながら、独国の都市を放浪した後、31歳のとき、仏国パリに住み着いた。
ナチス・ドイツの占領下にあった大戦中のフランスでは、ベケットはレジスタンス活動に従事した。
第二次大戦終了後、いったんアイルランドに帰った後、40歳のとき、ふたたびパリにもどってきて、小説や戯曲の執筆をはじめた。
49歳のとき、田舎道の道ばたで二人の男がああでもないこうでもないと言い合い最後までなにも起こらないまま終わる戯曲『ゴドーを待ちながら』がパリで初演。当初は非難ごうごうだったが、しだいに評価は高まっていった。
1969年、63歳のとき、ノーベル文学賞受賞。受賞の報せを聞き、ベケットは言った。
「ノーベル賞はジョイスこそが受けるべきであった」(同前)
1989年12月、パリで没。83歳だった。

『ゴドーを待ちながら』は、「空欄補助効果」の作品だと理解している。どの文学作品も何らかの空欄があって、読者がそれぞれ自分の解釈でそこを埋めて作品が完成されるのだけれど、『ゴドー』は作品自体がばかでかい空欄になっている。その分、わかりにくいが、読者の解釈の幅は大きくなる。

ベケットは、アイルランド出身の英語で育った人だけれど、フランスにいてフランス語で小説や戯曲を書いたフランスの作家である。彼が口述筆記を手伝ったジョイスが、異国にいながら英語で、故郷ダブリンのことばかり書いたのと、趣を異にしている。
『ゴドーを待ちながら』もフランス語で書かれた。ベケットはこう言ったそうだ。
「フランス語のほうが、スタイルなしで書くのが容易であるから」(同前)
(2025年4月13日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ユリシーズ」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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4月12日・ティンバーゲンの説

2025-04-12 | 科学

4月12日は、ガガーリン宇宙飛行士を乗せた世界初の有人宇宙衛星船が打ち上げられた(1961年)「世界宇宙飛行の日」だが、この日は、経済学者ティンバーゲンの誕生日でもある。

ヤン・ティンバーゲンは、1903年、ネーデルランド(オランダ)のハーグで生まれた。5人きょうだいのいちばん上だった。ノーベル生理学・医学賞を受賞したニコ・ティンバーゲンは実弟で、兄弟で別分野のノーベル賞を受賞している。
地元の高校を卒業後、ヤンはライデン大学に入り、数学と物理学を学んだ。大学在学中、彼は、カメルリン・オネス、ヘンドリック・ローレンツ、ピーター・ゼーマン、アルベルト・アインシュタインといったそうそうたる物理学者たちと討論した(この4人は全員ノーベル物理学賞受賞者である)。
大学を出たティンバーゲンは、政府の統計局に勤めた後、33歳の年から、スイス・ジュネーブにあった国際連盟に勤務しだした。このころ、母国ネーデルランドと米国についての国民経済モデルを発表した。
第二次大戦後は、ネーデルランドの中央計画局局長、世界銀行顧問、途上国各国の政府顧問、国際連合開発計画委員会議長などを歴任。
国連にいた66歳のとき、経済政策の理論の発展につくした功績により、第一回目のノーベル経済学賞を受賞。
70歳のとき、ライデン大学教授に就任し、2年後に退官した。
1994年6月、故郷のハーグで没。91歳だった。

ノーベル経済学賞は、昔はなかったのだけれど、1968年に、スウェーデン国立銀行が設立300周年を記念して、ノーベル財団に働きかけ、設立された賞で、その第一回の受賞者がティンバーゲンとなった。

ティンバーゲンの名は、「ティンバーゲン基準(Tinbergen Norm)」で有名である。これは、ある企業の最低の収益部門と、最高の収益部門の収入の差が1対5より大きいと、それは逆効果として働き、会社に不利益をもたらす、というもの。
ティンバーゲンは、国家、政府のマクロ経済学のモデルをはじめて構築して見せた経済学者で、彼が提唱した学説には、価格、需要量、供給量の関係を示した「くもの巣理論」や、政策目標の数と、それに必要とされる政策手段の数が一致するという「ティンバーゲンの定理」がある。

ティンバーゲンはこう言っている。
「人類の問題は、もはや国家政府によっては解決されない。必要なのは、世界政府である」(Mankind's problems can no longer be solved by national governments. What is needed is world government.)
(2025年4月12日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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4月11日・小林秀雄の構え

2025-04-11 | 文学

4月11日は、「若大将」加山雄三(1937年)が生まれた日だが、評論家、小林秀雄の誕生日でもある。

小林秀雄は、1902年、東京の神田に生まれた。父親は宝石の研磨技術を欧州で学んできた技術者、実業家だった。
18歳の年に、父親が没し、母親が肺ガンになった。このころ、小林秀雄は同人誌に小説を発表していた。
23歳の年に、東京帝国大学の仏文科に入学。詩人の中原中也を知り、中原の恋人だった長谷川泰子と恋愛関係におちいり、長谷川泰子と同棲をはじめた。
26歳の歳に大学卒業。卒論はアルチュール・ランボー論だった。同じ年、同棲していた家から逃げだし、奈良の志賀直哉を頼った。
27歳のとき、雑誌「改造」の懸賞論文に応募した評論「様々なる意匠」が二席に入り、評論家としてデヴュー。
28歳のとき、ランボーの詩集の翻訳『地獄の季節』出版。以後、『ドストエフスキイの生活』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』などを書き、56歳のとき、ベルグソン論である『感想』(未刊)を執筆開始。
75歳のとき、代表作『本居宣長』を出版。
1983年3月、腎不全、尿毒症などのため、入院先の病院にて没。80歳だった。

学生のころ、小林秀雄の書いたものはほとんど読まなかった。その昔、小林秀雄の文章は大学入試の問題にひじょうによく取り上げられていて、高校時代にさんざん問題集で読まされ、辟易としていた。
しかし、小林秀雄が没してから、彼の講演録音テープで、たばこをやめた話を聞き、それからおもしろい人だと読みはじめ、全集をそろえるまでになった。

戦争が終わったばかりのころ。戦時中に戦意高揚をあおった文学者や知識人がつるし上げられていたなか、文人戦犯として批判された小林はこう言い放った。
「僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」(山本七平「小林秀雄の生活)

年をとって知った顔をする輩は多いが、小林秀雄は違う。彼はこう書いている。
「天命を知らねばならぬ期に近付いたが、惑いはいよいよこんがらがつて来る様だし、人生の謎は深まつて行く様な気がしてゐる。成る程人並みに実地経験といふものは重ねて来たが、それは青年時代から予想してゐた通り、ただ疑惑の種を殖す役に立つて来た様に思はれる」(「年輪」)
これは自分の実感と同じである。知ったかぶりをせず、実感を正直に言ってくれる人こそ貴重である。彼は現代の紀貫之である。

世の多くは、小林秀雄の頭のよさ、直感力をほめるけれど、自分は何より彼の、保身に走らず、丸腰でつかつかと相手にふところに歩み寄っていくあの無勝手流のやり方、「あしたのジョー」のノーガード戦法のような構えに強く引かれる。
初めて読む方には『国語といふ大河』『私の人生観』『スランプ』などお勧めする。
(2025年4月11日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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4月10日・ピュリツァーの変容

2025-04-10 | 思想

4月10日は、映画評論家の淀川長治が生まれた日(1909年)だが、新聞王ピュリツァーの誕生日でもある。

ジョーゼフ・ピュリツァーは、1847年、ハンガリーのマコで生まれた。父親は穀物取引業を営むユダヤ人で、母親はオーストリア=ドイツ系だった。
ジョーゼフは南北戦争のとき米国へ渡り、戦争が終わってみると、18歳の、ドイツ語しかしゃべれない、長身の、ほとんど無一文の青年となってニューヨークを歩いていた。彼は、持っていたハンカチを売り、そのお金を旅費にしてセントルイスに向かった。セントルイスは、ドイツ人がたくさんいる街だからである。
セントルイスでピュリツァーは、いろいろな職業に就いて働きながら、図書館で英語を猛勉強。20歳になるすこし前に、米国の国籍を取得した彼は、新聞社の記者となり、猛烈に働いた。午前10時から翌日の午前2時まで、1日16時間働いた。
彼は新聞記者としては、政治や起業の腐敗を糾弾することに熱意を燃やし、しだいに彼の存在は人々に知られるところとなっていった。そんなとき、たまたま州議会の議員の辞職、選挙への出馬辞退が重なり、ピュリツァーは共和党の候補に指名され、当選した。新聞記者として籍をおいたまま、州の議員となったのは、22歳のときだった。
ピュリツァーは31歳のとき、赤字続きで倒産寸前だった地元紙セントルイス・ディスパッチを、競売で競り落とし、ついに自分の新聞をもつことになった。
ピュリツァーは、政治や行政の腐敗を徹底的に糾弾するキャンペーン主義を、自分の新聞に採用した。大儲けしていながら税金をほとんど払っていない金持ちの財務申告書を紙面にでかでかと載せたり、政治と企業の癒着、富くじのいんちき、独占企業を糾弾するなど、つぎつぎとキャンペーンを張り、あるいは、市民のプライベートな事件を暴露してセンセーショナルな見出しであおった。ピュリツァーは、護身用につねにピストルを持ち歩いていた。実際に殺し屋に遭遇して、危機一髪で難を逃れたこともあったという。そうして彼の新聞は部数を伸ばしていった。
36歳のとき、ニューヨークの赤字でつぶれかかっていたニューヨーク・ワールド紙を買い取った。ピュリツァーは、他紙がお高くとまった読みにくい文章で記事を書いているなかで、自分の新聞を読みやすい平易な文章の記事にし、富豪たちのあくどい富の蓄積のしかたとか、その派手な生活ぶりだとか、政治の腐敗ぶりをセンセーショナルに書き立てた。
記事にされた相手やライバル紙による、ピュリツァー個人、あるいは彼の新聞に対する中傷、攻撃も激しく、大統領に訴訟を起こされたこともあったが、彼は信念を押し通し、彼はニューヨーク・ワールド紙を全米で最大の部数を誇る新聞にまで押し上げた。
大金持ちとなった「新聞王」ピュリツァーは、1911年、サウスカロライナ州チャールストンの湾上に浮かんだ自分のヨットの船室で没した。64歳だった。

ピュリツァーは「新聞王」というより「新聞の鬼」である。若いころはもちろん、社主となってからも、ものすごい長時間働いていた。批判や中傷に屈しなかった立派な人で、ユダヤ人であることをネタにずいぶん中傷を受けた。

それにしても、19歳で将来への展望が皆無の無一文の青年が、夢中になれるものを見つけ、40歳のときには希望を達成し、押しも押されぬ大富豪の実業家になっていた、というのは驚きである。人間、20年たてば、どんな人になっているか、誰もわからない。
(2025年4月10日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。「新聞王」ピュリツァー、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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4月9日・ボードレールの真実

2025-04-09 | 文学

4月9日は、映画俳優ジャン=ポール・ベルモンドが生まれた日(1933年)だが、詩人ボードレールの誕生日でもある。

シャルル・ボードレールは、1821年、仏国パリで生まれた。父親は司祭で、シャルルの誕生したとき、すでに62歳だったという。母親は28歳だった。
シャルルが5歳のとき、父親が没した。
母親は、シャルルが7歳のときに、軍人と再婚し、リヨンへ引っ越していった。
ボードレールは、放蕩好きの不良少年となり、中学を退学処分となった。女優と同棲をはじめ、亡き父親から相続した遺産を景気よくつかう生活をはじめた。この浪費ぶりをとがめられ、彼は23歳のとき、準禁治産者と認定された。
以後は、それまでのような放蕩の生活を送ることがむずかしくなり、彼は詩や評論を書き、政治運動に身を投じ、みずから新聞を発行して政論陣を張った。
36歳のとき、詩集『悪の華』を出版。この詩集は、風紀上問題ありとして、6編の詩の削除が命ぜられ、罰金刑をも課せられた。
窮乏した生活のなか、39歳のとき、アヘン体験をつづった『人工楽園』出版。
43歳のとき、エドガー・アラン・ポーの『ユーレカ』の翻訳を出版。その後も、ポーの短編小説を仏訳したり、散文詩を書いたりしていたが、しだいに梅毒によりからだをむしばまれだした。
45歳のとき、ベルギーのナミュールの寺院を見物中、卒倒。駆けつけた母親に伴われて、仏国パリにもどり入院。
その翌年、1867年8月、パリにて没。46歳だった。没後、散文詩集『パリの憂鬱』が出版された。

ボードレールを好きなのは、彼が身をもって知った「真実」を言ってくれるところである。たとえば、没後に発表された散文詩集『パリの憂鬱』中の詩「酔え」はこうはじまる。

「常に酔っていなければならぬ。すべてはそこにある。これこそ唯一無二の問題である。君の肩をめりこませ、地上へと身を傾がせるかの「時間」の怖るべき重荷を感じないためには、休みなく酔っていなければならぬ。
 しかし何によって? 酒であろうと、詩であろうと、徳であろうと、それは君にまかせる。ただひたすらに酔いたまえ。」(福永武彦訳『パリの憂鬱』岩波文庫)

これは、人生の、ほとんど唯一と言っていい真実ではないか?
芥川龍之介は『或阿呆の一生』の冒頭で言っている。
「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」(『芥川龍之介全集 第8巻』岩波書店)
そうだろうか? そうかもしれない。
(2025年4月9日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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