1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月20日・坂口安吾の堕落

2024-10-20 | 文学
10月20日は、フランスの詩人アルチュール・ランボーが生まれた日(1854年)だが、日本の作家、坂口安吾の誕生日でもある。

坂口安吾は、1906年、新潟で生まれた。本名は坂口炳五(さかぐちへいご)。父親は衆議院議員で、炳五は13人きょうだいの下から2番目だった。
忍者ごっこを好むやんちゃなガキ大将だった炳五は、中学生時代には授業をさぼってよく海辺で寝ていた。落第したため、東京の私立中学に編入し、東京で暮らした。
文学や思想書を読み、運動しては走り高跳びの全国大会で優勝する中学生だった。
父親が借金を残して亡くなったため、炳五は中学卒業後、尋常小学校の代用教員となり働いた。が、仏教に興味をもちだし、20歳のとき、教員を辞めて東洋大学に入り、インド哲学、仏教学などを勉強した。サンスクリット語、パーリ語、チベット語、ラテン語、フランス語などを猛烈な勢いで学んだ。
24歳で大学を卒業した後は、ポール・ヴァレリーやジャン・コトクーなどのフランス語作品の翻訳などをしながら、同人誌に小説を発表した。
敗戦直後の40歳のとき、評論『堕落論』、小説『白痴』を発表し、社会に衝撃を与えた。織田作之助、石川淳、太宰治らとともに「無頼派」と呼ばれ、一躍人気作家となった。
40代前半のころには、ヒロポン(覚醒剤)や睡眠薬などの薬物依存や、うつ病、神経衰弱を起こした。
1955年2月、脳出血のため没した。48歳だった。
作品に『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』『風と光と二十の私と』などがある。

坂口安吾の作品は、若いころに読んだ。仲間だった太宰治が情緒的な魔性の文章家であるのに対して、同じデカダンスの無頼派でも、坂口は知性的で高い精神性をもつ思想家だった。「堕落せよ」というけれど、坂口安吾が薦める道は困難な、とてもきびしい道である。

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」(坂口安吾『堕落論』青空文庫)
戦後の貧しい焼け跡のなかで、こういう発言をする精神の強さは敬服に値する。
実際、中途半端に堕ちている。いよいよ坂口安吾の言う通りに時代は進んでいる。
(2024年10月20日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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10月19日・リュミエール兄弟の遺産

2024-10-19 | 映画
10月19日は、メリルリンチを創設したチャールズ・メリルが生まれた日(1885年)だが、フランスの発明家、オーギュスト・リュミエールが生まれた日でもある。映画を発明した「映画の父」リュミエール兄弟の兄のほうである。

オーギュスト・リュミエールは、1862年、フランス東部の町ブザンソンで生まれた。父親は肖像画を描く画家で、写真館の経営者でもあった。オーギュストが生まれた2年後、弟のルイ・リュミエールが生まれた。
オーギュストは19歳のころから父親の仕事を手伝いはじめ、写真の感光剤や乾板を改良した。父親は有能な息子の協力を得て、写真乾板の工場をはじめ、感光剤を販売した。
32歳のとき、パリに出向いた父親は、そこで米国の発明王エジソンが作ったキネトスコープを見た。キネトスコープは箱をのぞきこんで動画を見る仕組みの映画装置である。
父親に勧められ、オーギュストとルイの兄弟は動画の研究をはじめ、キネトスコープを改良して、映像を大きなスクリーンに投影することによって、おおぜいがいっしょに見られるシネマトグラフ・リュミエールを開発した。
リュミエール兄弟は、映画を撮影し、1895年、オーギュストが33歳のとき、パリで世界初の映画を公開した。50秒ほどの短編映画が10本上映され、スクリーンに映し出された汽車が、こちらに向かって突進してくる映像に、場内は大騒ぎになった。
5年後の1900年開催のパリ万博でも、リュミエール兄弟の映画が公開され、その動く映像の迫力は世界に衝撃を与えた。
米国のエジソンは、彼ら兄弟の映画に刺激を受け、劇場映画製作に乗りだしていき、こうして、大西洋をはさんで、米仏の発明家が影響を与えあって、映画は育っていった。
リュミエール兄弟はグレタ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒ、ジャン・ギャバンといったスターを輩出した映画産業の隆盛をながめ、第二次世界大戦後まで生き、兄のオーギュスト・リュミエールは、1954年4月に没した。91歳だった。弟のルイは、兄より早く1948年6月に83歳で亡くなっている。

インドやアフリカでも映画は盛んだし、もちろん日本や、米国ハリウッドもあるけれど、映画の国といえば、やはりフランスである。甲斐バンドも歌っていた。
「映画を見るならフランス映画さ」(甲斐よしひろ「ポップコーンをほおばって)」

世界に映画祭は数多くあるけれど、やはり頂上に位置するのはフランスのカンヌ映画祭である。映画祭のにぎわいのほか、カルネ、ルルーシュ、トリュフォー、ゴダールといった監督たち、またあるいはベルモンド、バルドー、ドヌーヴ、ソフィ・マルソー、エマニュエル・ベアールといった映画スターたちの活躍も、リュミエール兄弟の達成の上に築かれたものだと思い返すと、彼らがフランスに残した遺産の大きさをあらためて感じる。その遺産は、極東の島国、日本にもちゃんと届いていて、その恩恵を我々はずいぶんこうむっている。
(2024年10月19日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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10月18日・鈴木大拙の説得力

2024-10-18 | 思想
10月18日は、哲学者アンリ・ベルクソンが生まれた日(1859年)だが、仏教学者の鈴木大拙(すずきだいせつ)の誕生日でもある。禅を世界に紹介した人である。

鈴木大拙は、明治3年10月18日(1870年、西暦だと月日が異なる)、石川の金沢で生まれた。本名は鈴木貞太郎(ていたろう)。父親は旧金沢藩の藩医で、貞太郎は四男だった。
貞太郎は19歳のとき、高等中学を退学し、小学校の英語教師をした後、21歳で東京の専門学校に入り直し、22歳のとき、いまの東大である帝国大学の哲学科の選科生となった。選科というのは、一科目とか数科目の講義だけをとるコースのことで、鈴木は大学に通いながら、鎌倉の円覚寺に通って禅の修行をした。
25歳で専科を終了した後は、米国へ渡り、東洋思想系の書籍の出版にたずさわり、みずからも英語で禅について本を書いた。
39歳の年に帰国し、円覚寺に住みながら、学習院、東京帝国大学、大谷大学などで教鞭をとった。日本の大学のほか、ハワイ大学、プリンストン大学、ニューヨーク大学、コロンビア大学など米国でも禅や仏教について著述、講演をおこない、禅を世界に紹介し、広めた。
1966年7月、東京の入院先で没した。95歳だった。

『日本的霊性』『禅とは何か』『東洋の心』『東洋的な見方』など、鈴木大拙の著作は若いころに読んだ。西洋的な理詰めで論理をきちんきちんと積み上げていくのでなく、急がずゆっくりと語っていき、いつの間にか納得させられているという感じの、不思議な説得力のある文章が印象的だった。
「西洋の人は客観的にものを観る。客観的に観るから知的になる。たとへば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折つてあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、(中略)とにかくそんなことで、この紙がわかつたことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話ではなくして、紙そのものになれといふのですね。」(鈴木大拙「東洋の心」『鈴木大拙全集 第二十巻』岩波書店)
日々生活に追われ忙しくしていて、ものごとを客観的に見られず、べつの立場に立ってみることもせず、結局なにもわからないまま、ただ無意味に走りまわって生きているだけになっている昨今を反省させられる。そのものに。
(2024年10月18日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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10月17日・サン=シモンの理想

2024-10-17 | 思想
10月17日は、ハリウッド女優リタ・ヘイワースが生まれた日(1918年)だが、社会思想家サン=シモン伯爵の誕生日でもある。

クロード・アンリ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモンは、1760年、仏国パリで生まれた。シャルルマーニュ大帝の血統をひく伯爵家の長男だった。
気性がはげしかったアンリは、18歳の年に陸軍に入隊。19歳の年には大西洋を渡り、騎兵隊の大尉として米国独立戦争に参加した。
23歳のとき、ヨーロッパへもどり、フランス・ネーデルランド(オランダ)連合軍を組織して英国に対抗しようと画策したり、スペインで運河建設の運動を起こしたりした。
29歳の年にはじまったフランス革命に際しては、彼は関わらず、民衆を前に「伯爵」の称号を放棄することを宣言し、国有地を売買する投機事業をはじめた。投機は成功し莫大な利益を上げたが、これが反革命的とみなされ、33歳のとき逮捕、投獄された。
政変によって釈放されたサン=シモンは、事業をやめ、38歳のとき、哲学研究に専念することを決意。以後、社会をいかにするべきかという社会変革の研究、著述に没頭した。
論文を書いては小冊子を印刷しているうちに、46歳のときには無一文となり、生活は逼迫した。そのとき、かつて彼の家の召使だった男に巡り合い、いまは成功し裕福になったその男の家の居候となって執筆を続けた。
50歳のとき、家主が没し、サン=シモンはふたたび生活に窮した。
53歳のとき『人間科学に関する覚え書』という小冊子を60部刷り、貧窮する現状を訴え援助を求める手紙を添えて友人や名士に送りつけた。この努力が実を結び、それからは政治家の資金援助を得て、執筆活動を続けた。
63歳になる年に、サン=シモンはピストル自殺をはかった。資金援助が断たれたこと、著作の反響がとぼしいこと、執筆上の悩みなどが彼に引き金を引かせた。自殺は未遂に終わり、サン=シモンは片目をなくして生き延びた。同情した政治家が援助を再開し、銀行家からの援助も得られるようになり、片目になったサン=シモンはさらに著述を続け、しだいに彼のもとに弟子が集うようになった。
1825年5月、サン=シモンは急性肺炎のため、パリで没した。64歳だった。

サン=シモンはユートピア的社会主義の思想家である。彼の思想の特徴は、産業というものを社会の中心に据えた点で、ほかの思想家が王権だとか、武力をもつ支配者だとか、資本家だとか、労働者だとか、社会のなかのある階層を中心に据えて社会を論じようとしたところ、サン=シモンは、この世のすべての人間の能力をできるかぎり発展させるためには、富を生みだす産業こそ大切にするべきであり、産業を大事にして理想の社会体制を考えようとした。彼が最後に遺したことばはこうだった。
「何か偉大なことを成就するためには、夢中にならなければならぬことを覚えておきなさい。私の全生活の仕事を要約すれば、社会の全成員に、その能力の発展のために、最大の自由を与えるということです」(五島茂、坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著・続8 オウエン サン=シモン フーリエ』中央公論社)
サン=シモンの、自分がなすべきことを最優先して、自分の生計についてはほとんどかえりみない、という生き方は、現代日本人の主流の生き方は正反対である。でも、そうやって生きた人の思想が、現代日本の産業中心主義の思想に通じているから不思議である。
(2024年10月17日)


●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?

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10月16日・ギュンター・グラスの告白

2024-10-16 | 文学
10月16日は、英国の作家オスカー・ワイルドが生まれた日(1854年)だが、独国の作家ギュンター・グラスの誕生日でもある。

ギュンター・グラスは、1927年、自由都市国家ダンツィヒで生まれた。ダンツィヒは、現在のポーランドのグダニスクだが、ギュンターが生まれた第一次大戦と第二次大戦のあいだの時期、国際連盟に承認、保護された都市国家だった。
父親はドイツ人の食料品店を経営者。母親は西スラヴ系の少数民族カシューブ人だった。
ギュンターが6歳のとき、ダンツィヒの選挙でナチスが過半数をとり、政府は反ユダヤ、反カトリックの法律を施行した。ダンツィヒに住むドイツ人は、ドイツ青年党などドイツ系の組織に吸収され、ユダヤ人とともにポーランド人も迫害されるようになった。
ギュンターが9歳のとき父親がナチス党に入党し、12歳のとき都市国家ダンツィヒはナチスドイツに併合された。ギュンターは15歳で労働奉仕団員となり、17歳のときにはナチスの武装親衛隊員になっていた。
ナチスドイツの降伏によってヨーロッパの第二次世界大戦が終わると、18歳のグラスは米軍の捕虜収容所で半年間暮らした。釈放後は、デュッセルドルフで石工として働きながら、文学グループに加わり、詩や戯曲を書いた。
32歳のとき発表した長編小説『ブリキの太鼓』が話題を呼び、作家生活に入った。『ブリキの太鼓』は西ドイツ、ポーランド、フランス、ユーゴスラビアの4カ国制作で映画化され、グラスが52歳のとき、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した。
グラスはその後、ダンツィヒ三部作の『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』などを書き、1999年、72歳のとき、ノーベル文学賞を受賞した。
2006年、78歳の年に自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』を発表。ダンツィヒでの少年時代から『ブリキの太鼓』を発表するまでの前半生をつづったこの文章のなかで、グラスはかつてナチスの武装親衛隊に在籍していたことを告白。これは各国のメディアに大反響を巻き起こし、ノーベル賞を返還すべきだなどの批判もあった。
2014年、86歳のときに創作活動からの引退を表明し、翌2015年4月に没した。87歳だった。

『玉ねぎの皮をむきながら』を読んだことがある。
「執拗に質問していると、想起は玉ねぎに似てくる。その皮をむいて一文字一文字、明らかにすることを求める玉ねぎだ。(中略)まだ乾いていて、パリパリと音のする皮の下にさらに別の皮があり、それもむかれると、みずみずしい第三の皮が出てくる。またその下には第四、第五の皮が待っていて、何やらつぶやいている。(中略)玉ねぎにはたくさんの皮がある。山ほどあるのだ。ひと皮むければ、すぐに新たに生まれ変わってしまう。だが、刻むと涙が出てくる。皮はむかれて初めて、真実を語るのだ。」(依岡隆児訳『玉ねぎの皮をむきながら』集英社)
戦争の前後を通じてのむごたらしい事件や悲惨な状況、刻々と変化する情勢に呼応して変わる人の心のいやらしさを見せつけられ、ことばを失う。いろいろ考えさせられる。

元ナチスであったことを隠してノーベル賞をもらったのはけしからんではないか、とグラスを非難する人たちは言うのだろうけれど、その当時にその場に居合わせたら、そんなことも言えないろうし、グラスが経歴について沈黙していた気持ちもわかる気がする。
現在、日本にもそういう暗い時代が迫っているようだけれど、社会の価値判断が目まぐるしく変わる戦争前後の混乱期は、自分の意見をもった近代市民にとってはほんとうに生きにくい、勇気を試される時代である。
(2024年10月16日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ドリアン・グレイの肖像」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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