諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

173近未来からの風#11 「思考と表現の道具」

2022年02月27日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 下山途中の「しらびそ小屋」こうみえて?おしゃれな山小屋で通年営業。厳冬期はここを目指してくる人も多いそうです。

「未来の教室」がイノベーションである一番は、「一人一台端末」による「学びの自立化・個別最適化」であることは前回述べた。
このことは、第四次産業革命にあって、家庭にも、職場にもIT機器が普通に使われ、子ども達もゲームやYouTubeが娯楽の中心になりつつあって、教育がその機能を利用しないとう選択肢はないだろう。
そして、「未来の教室」プロジェクトの行く末はまだ分からないが、それがもたらす教育効果も、従来の学習イメージにあてはめて評価をするべきではないだろう。
何しろ、私たちは 1900年の小学校令で定められた学年制による学級編成、均一の学習内容、均一の方法、均質空間、一斉授業の様式の中で育てられてきている。主たる教材の教科書は紙であり、先生の板書を鉛筆でノートに転記してきたのである。
それを「一人一台端末」による「学びの自立化・個別最適化」が変えつつあるのである。
端末の先には膨大なデータがあり、うまくアクセスしてデータの出し入れしながら学ぶ。また、既製品として実証済みのプログラミングされたワークをすることで最適化された学びが子どもたちにもたられる。子ども達は、コンピュータの思考に同質化しながら合理的に学習が保障される。
この挑戦の現状はどうなのか。既成概念でとらえないようにしたいものだ。

ところが、佐藤学さんの見解は厳しい。

「個別最適化」それ自体も問い直される必要があります。第四次産業革命に対応できる「21世紀型の学び」は、「個別最適化」の学びではないからです。海外におけるIT企業と教育産業も、15年ほど前までは一人一人がコンピューターを前にして学習する「個別最適化」のICT教育を推進していました。そうすれば 1教室に 50人から80人も入れてコンピュータに教師を代替させ、教師を解雇することで企業の利益を上げることができたからです。しかし、その方法で教育効果が乏しいことが分かったため、近年は多くの IC T教育のプログラムが「協働学習」と「個別最適化」を組み合わせて実施しています。企業利益を保持するためには「個別最適化」の教室は 80人から100人になるのですが、もう一方で 20名規模の教室で「協働学習」も準備しています。それらの方式と比べても、「未来の教室」の「学習の自立化・個別最適化」は、海外諸国のような ビッグ・データとその AI制御を伴っていない点で、50年前の「プログラム学習」や「完全習得学習」と類似した「学習の個別化」の域を出ておらず、協働学習とのつながりを失っている点からいっても、15年前のIC T教育のレベルを超えていないものです。

佐藤さんは、「未来の教室」には、「個別最適化」と併せて、仕組みとしての「協働学習」が必要であること、ICT教育そのものが諸外国なみのビッグ・データのバックボーンがないことを指摘している。

そして、コンピュータの教育効果に関する実証的研究は意外なほど少ないこと、その中の評価でもコンピュータは情報や知識の獲得や浅い理解には有効だが、深い思考や探求的な学びには有効でない、という解釈があるという。そして、佐藤さんは見解を加える。

現在、普及しているIC T教育のプログラムのほとんどは、コンピュータは「教える道具」ではなく、「学びの道具(思考と表現の道具)」として活用した時、優れた教育効果を発揮します。コンピュータを「教える道具」ではなく「学びの道具」あるいは「探求と協働の道具」として活用する方途を探索する必要があります。

コンピュータは「教える道具」なのか「学びの道具」とするのか、その議論が重要であるとしている。そして、

残念ながら日本の ICT教育のプログラムでは、まだまだ「思考と表現の道具」としての CALモデルは弱く、「教える道具」としてのCAIモデルの伝統が支配的です。アクティブラーニングの推進が求められている現在、「志向と表現の道具」としてのIC T教育プログラムの開発が急務と言ってよいでしょう。

問題解決型の学習としてアクティブラーニングが重視されたことと ICT教育が軌を一にしていないのは、今後の課題ということが理解できる。

ただ、学校現場にいるものとして、大量に導入されてきた ICT機器を教えるための「教える道具」として、既成のアプリを立ち上げて、副教材のように利用するのは比較的容易である一方で、「思考と表現の道具」として、問題解決型学習に取り込むことは直接的に先生の力量、つまり構想力と準備が必要なことがわかる。どうICTという機械を人間的な学びに寄り添わせていくのかということ、それが現場で行う研究課題ということだろう。

そして、こうした今日の教育現場で起きている葛藤を見透かしていたように認知心理学者・佐伯胖さんは、50年前にこう述べている。

「教育工学」なるものが、つねに発展し、新たな「機械的原理」を生み出し、より広く、より深く意味での教育的営みの明確化にむかって絶えず成長、発展しているかぎりにおいては、まさに「教育的」であり「人間的」でもあるが、ひとたびそれが固定化し、つねに同じ発想、同じプロセスの中でぐるぐるまわりをはじめ、その枠内に入るものだけを扱っていくようになったとき、それはその「工学」を進めている人間が非人間化し、非道徳化しているのである。

科学を生み出していくのも人間、技術をつくり出すのも人間、しかもそれらはすべて、人間の「学び」の結果である。したがって、「正しく学ぶ者」だけが正しい科学や正しい技術を生み出せる。そして、そのように「正しく学ぶ」人間をつくりだそうというのが教育であり、そのための科学、そのための技術を工夫し考えだすことの責任は計り知れないほど大きいいであろう。しかも、これらの、教育のための科学や技術の発展を監視し、正しく方向づけることを要求しつづけるのが、ほかならぬあなたやわれわれ、国民全体であり、そのしごとだけは一部の「専門家」や企業、政府の手に一括してゆだねてしまってはならない。


佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版

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