夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

特別投稿 2020年 初釜 

2020-01-19 00:01:00 | その他
初釜前夜になりようやく慌ただしく段取りした支度も終わり、懐石の席の準備も完了・・。



当日(先週の13日)は門の前で皆でお客様を出迎えし、予定通り始まり、懐石も滞りなく終了・・・、ただお酒を飲みすぎて懐石段階の撮影は失念



さて初釜の茶席の始まり・・・。この日はとても暖かく茶席周りのドアを開放して催すことができました。



懐石の後なのでくつろぎながらのお濃茶の茶席から始まりました。



花入は一作年に亡くなった平野庫太郎作、辰砂の一輪挿し。花は息子の幼稚園の友達の家の前日に畑から水仙を頂いてきました。

床の掛物は辻宗範の書・・・。



松下塵 辻宗範筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1125*横527 画サイズ:縦266*横498

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辻 宗範:(つじ そうはん)宝暦8年(1758年)~天保11年(1840年)は、江戸時代中期の茶道家。近江国出身。宝暦8年(1758年)、近江坂田郡国友村(現滋賀県長浜市国友町)に生まれ、幼時から漢学を学び、成人後は小室藩(現長浜市小室町)の茶頭を務めていた冨岡友喜から遠州流茶道の奥義を究め、茶道、華道、礼法、和歌、俳句、絵画、書道、造庭など多方面にわたり豊かな才能を発揮した。

辻家は室町時代の文明年中(15世紀)以来、国友の郷士として活躍し、代々又左衛門を襲名。 宗範は、10代目の名前で、壮年期は、又之進と号し、妻(モン)は浅井町小室の高橋権太友ごんだゆうの娘。小室藩は田沼意次失脚に伴う田沼派大名粛清から天明8年(1788年)に改易となり、遠州流茶道も廃れかかっていた。

文化6年(1809年)、宗範は後に小堀家(旗本として再興)当主となる遠州流8代小堀宗中に奥義を再伝授した。遠州流茶道ではこれを「返し伝授」と呼び、遠州流では今なお宗範を「中興の立役者」と称えている。



茶道、礼法、書道では奥義を極め、多くの門人を養成し、その後、徳川将軍家の茶道師範を務め、晩年は尾張藩から高禄での招聘を受けたが断り、晩年は国友の地にありました。いろいろな人と交わりをもち、浄土真宗の信仰を深めるなどして、天保11年(1840年)に生涯を閉じました。

茶道を始めとして華道・書道・礼法、和歌、俳句、南画、造園など多方面に才能を発揮し、勝元鈍穴の他多くの門人を育てた。現在も、国友町に辻宗範の自宅跡地が残っています。叔父(父の弟)丹治は彫金師の臨川堂充昌、国友藤兵衛一貫斎は甥(姉みわの子)に当たる。

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さて肝心の「松下塵」の意味は・・・、これが意外に判明するの時間がかかりました。調べたところ出典は下記の李白の漢詩からであろうと推察されます。

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李白(唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる)の五言律詩「酒に對して賀監を憶ふ」(壺齋散人注)

  四明有狂客  四明に狂客有り
  風流賀季真  風流なる賀季真
  長安一相見  長安に一たび相ひ見しとき
  呼我謫仙人  我を謫仙人と呼ぶ
  昔好杯中物  昔は杯中の物を好みしが
  今爲松下塵  今は松下の塵と爲れり
  金龜換酒處  金龜 酒に換へし處
  卻憶涙沾巾  卻って憶へば涙巾を沾す

四明山に変わった男がいた、その名を風流なる賀季真といった、長安で初めて出会ったとき、私を謫仙人と呼んだものだ

昔は酒を好んだが、今では松下の塵となってしまった(亡くなって土に帰ったことをいう)、金龜を売って酒を買ったあの場所、それを思い出すと涙が衣を潤すのだ

賀監とは賀知章のこと。高官を勤めながら破天荒な生き様で知られていた。李白がその賀知章と長安で出会った時、賀知章はすでに80歳を超えた老人であったが、李白を見て意気投合し、李白を謫仙人と呼んだ。

若い頃から奇行の多かった彼は、年をとると酒びたりの日々を送るようになった。そして743年の冬に病に倒れ数日の間意識を失った。意識を取り戻したとき、彼は道教の天国に旅をしてきたのだと話した。

744年、賀知章は道士となって故郷に戻ることを願い出、長楽坡で玄宗皇帝以下多くの高官たちの見送りを受けた。そのときに大勢の人々が別れの詩を作り、李白もそれに習ったが、儀礼を重んじた形式的なものだった。

賀知章は745年に高齢で死んでいますが、李白は彼の没後その人柄を偲んで、儀礼を抜きにしてこの詩を作ったと言われています。

この詩の序で、『皇太子の賓客であった賀公は、長安の紫極宮で私の詩を読むなり、私を“謫仙人”と呼んだ。それを機に、金亀を解いて酒に換えて、ご馳走してくれた。賀公が亡くなってからは、お酒に向かうと悲しみがこみ上げてくるのである。そこでこの詩を作った』 と述べています。しみじみとした友情と敬愛の情があふれた作品である。賀知章を思うの念がよほど強かったのだろうと思われます。

賀知章のら来歴は下記の通りです。

*賀知章:玄宗皇帝の頃、長年官界で働き、秘書監の位まで昇りつめ、80歳過ぎて故郷の紹興に帰った。久々に帰って来た故郷では、周りの事情はすっかり変わっていて、胸の奥に大きな空洞を感じている。

晩年、賀知章は、酒に浸り、自ら“四明狂客”とか“秘書外監”などと号して、放縦な生活を送っていたようです。杜甫は、「飲中八仙歌」の中で賀知章を筆頭に挙げています。賀知章は、酔って街を遊び歩く際には、書を書いて道行く人々に上げたという。書の面では、東晋の書家・王義之 (307~365) に喩えられるほどであると評されており、草書、隷書が得意であったという。

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昨年亡くなった義父を偲んでの掛物です。そしてお酒の好きだった平野庫太郎氏をも・・・。故人よ、わが心に永遠なれ。

懐石で飲んでいただいたお酒は「清流」・・、そのお酒の副題は「酒仙在我」。この度は友人や恩人を偲ぶ意図が小生にはあったお茶会です。故人らの願いや仕事は何らかの形でいずれ復興、実現することを祈念しながら・・。


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