夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

飴釉大樋平茶碗 大樋長楽作

2011-07-06 05:17:20 | 掛け軸
先週の日曜日の夕刻から熱が出始め、夜には多少の腹痛を伴ってきましたが、月曜の朝には熱も下がり、腹痛もたいしたことがないので、出社。しかし午後から熱が出ているのが自分でも解り、尋常ではないなと思いながら歩いてかかりつけのお医者さんへ・・・。即入院の可能性があると言われ、前に診断していただいている総合病院の救急外来へタクシーにて向かいました。

なが~い診断の結果、S字結腸部位の憩室炎症という結果・・ほぼお医者さんと小生の予想通り。というのは前に大腸から十二指小腸まで内視鏡で検査済み、ペットCTも受けており、だいたい内臓内部は様子がわかっているためです。

即入院。長ければ2ヶ月、短くとも2週間と言われましたが、ま~一週間だろうと小生は判断。

経過は順調で、すぐに熱は下がり、点滴による抗生物質の投与で腹痛も治まり、便通も通常通りであり、絶食からお粥食、そして普通食となり8日目の昨日無事退院です。

ただし今後はしばらく食事は消化のよいもの、もとの生活には少しずつ時間をかけて戻すようにとのこと。

本日の投稿は入院二日前の土曜日にお菓子を買ってきて、抹茶を点てた時に使用したお茶碗です。お菓子を載せているのは先日「茶托」として投稿しました源内焼です。



飴釉大樋平茶碗 大樋長楽作
共箱「大樋茶碗 大樋長楽造 印」 高台脇「大樋」二重丸印
最大口径155*最小口径150*高さ65*高台径58



本作品は母が何らかの縁で入手したもので、小生が大樋焼を知っている頃にはすでに家の小さな茶箪笥に収まっていました。どのような経緯で入手したのか母とこのお茶碗でお茶を点てながら聞いてみたいと思います。果たして覚えているやら・・・。



通常、大樋焼というと楽焼の脇窯のように認識されていますが、その趣は飴釉をもって大きく異なります。また、金沢の大樋焼は七代目のときに一時期途絶え、大樋長左衛門と大樋長楽の二つの窯となり、現在では大樋長左衛門が著名な窯となり、大樋長楽の評価はさほど高くありません。しかしながら、本作品は大樋焼の飴釉の魅力を十分に伝えている佳作といえるでしょう。





見込みに黄金色に輝く飴釉の世界は耀変天目茶碗に匹敵する幽玄の世界に導いてくれます。これ以上の釉薬の溜まりにもなってもいけないぎりぎりのところです。






楽焼は京都の窯も含めて嫌いではありませんし、何度か金沢の大樋長左衛門の窯も含めて訪れたことがあります。ただ、その異常に高い作品の売買金額には納得ができません。評価金額は出来の割には高すぎます。これがお茶の世界の値段だとするともっとお茶から一般はかけ離れていきます。

お茶の世界はもっと伝統や作法のとらわれず自由に楽しんでいいはずです。道具もしかり・・、現在自分で多少の時間とお金さえあれば窯で自分でお茶碗くらいは焼けます。お茶道具さんの品のないお茶碗も無用ですし、馬鹿高いお茶碗も買う必要はありません。自分で作ればいいのです。茶をたしなむ者、茶碗くらいは焼いてみることは必要不可欠でしょうね。

大樋焼本家窯八代目 大樋長楽:(1902~1991)陶玄斎 明治三十五年に金沢に生まれ。

陶芸活動は七十数年におよびます。二十世紀の前半は世界大恐慌あり、戦争ありといった多難な時代でした。後半は戦後の経済復興、高度成長期を通じて文化が普及、発展した時代でした。大樋直系八代大樋知新と親交が深く「大樋」の号をうけました。

長楽は、大樋焼の歴史を正しく伝えるために伝統的手法を一途に守り通すとともに、研究心も旺盛で伝統の中に新たに白幕釉・唐三彩の手法を取り入れるなど独自の技術を確立しました。無欲で正直な茶陶一筋の陶業人生でした。平成三年(1991)十月七日没、享年九十歳。

大樋焼の歴史
大樋長左衛門(おおひちょうざえもん) :大樋焼の窯元。 初代長左衛門(1631~1712)は、土師長左衛門、のちに大樋長左衛門。隠居名は芳土庵。河内国土師村出身で、明暦2年(1656)京都に出て、二条瓦町に居住し、楽家四代一入のもとで楽焼を学んだといわれる。寛文6年(1666年)加賀藩の茶道奉行として仕官した裏千家四世仙叟宗室に同道し加賀国河北郡大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築き、屋名を荒屋と名乗り、茶道具を製作し、 後、妻を大樋村の石動屋から娶り、貞享3年(1686)二代目長左衛門が生まれる。同年仙叟宗室が帰京の際、藩主に願い出て、加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の「大樋」姓とすることを許される。正徳2年(1712)没。享年82歳。

2代長左衛門(1686~1747)初代長左衛門の子。芳土庵。3代長左衛門(1728~1802)初名は勘兵衛。芳土庵。4代長左衛門(1758~1839)初名は勘兵衛。土庵。歴代の中で初代に次ぐ名工とされる。5代長左衛門(1799~1856)4代長左衛門の子。初名は勘兵衛。土庵。大樋焼の中興の祖といわれ、食器も焼き始め、従来の飴釉に加えて黒釉も用いるようになる。6代長左衛門(1829~1856)5代長左衛門の長男、7代道忠の兄。初名は朔太郎。7代長左衛門(1834~1894)5代長左衛門の三男、6代長左衛門の弟。初名は道忠。

時代は幕末から明治にかかる激動の時期で加賀藩の保護を失った大樋焼は一時廃業をむかえる。8代長左衛門(1851~1927)7代長左衛門の弟子(異説あり)。本名は奈良理吉、明治27年(1894)裏千家13世円能斎より宗春の号を受ける。松涛の号を大徳寺松雲老師から受ける。隠居名は以玄斎。9代長左衛門(1901~1986)8代長左衛門の長男。陶土斎の号を15世裏千家鵬雲斎宗室より受ける。10代長左衛門(1927~)9代長左衛門の長男。昭和62年(1987)10代大樋長左衛門襲名。

大樋焼(おおひやき): 加賀金沢の楽焼。寛永6年(1666)加賀藩5代藩主前田綱紀(1643~1724)の茶道奉行として仕官した裏千家四世仙叟宗室が、京都在住の楽一入の弟子と伝えられる河内国土師村の人、土師長左衛門を茶碗造り師として金沢に同道し、河北郡小坂庄大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築いた事より始まる。貞享3年(1686) 仙叟宗室が帰京の際、長左衛門が藩主に願い出て加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の「大樋」を姓とすることが許される。

京都の楽焼よりは薄手のものが多く、楽家から楽焼の黒や赤を使うことを禁止され、独自に考案した飴釉(鉄釉の一種で酸化焼成すると飴色に発色することからこの名がついた)が特徴となっている。飴色にも、薄飴、飴、濃飴、飴黒など種類がある。他に、飴色の上に白の幕釉をかけた「白幕飴釉」や「黒飴釉」「かせ黒」「黒幕釉」などがある。

明治時代になり加賀藩の保護を失った大樋焼は7代長左衛門の時に一時廃業をむかえたが、7代長左衛門の弟子(異説あり)の奈良理吉が再興し、8代長左衛門を名乗り、現在に至る。

また、廃業した7代大樋長左衛門道忠(1834~1894)の直系子孫である大樋知新から認証を受けたとする、8代目大樋長楽(1902~1991)陶玄斎とその長男である9代目大樋勘兵衛がある。




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4 コメント

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Unknown (minchou)
2011-07-06 17:58:32
今日は、初めまして。毎回楽しみに拝見させていただいている者です。
突然のブログの中断で、一体どうされたのだろうと陰ながら案じておりましたが、ご病気で入院、快癒されたとのこと、ひとまず安心しました。また、お体に差し障りのない程度に頑張っていただきたいと思います。
ところで、私の興味の中心は書画で、焼き物系には今ひとつ関心が薄いのですが、それでも紹介されている中に、なかなかいいなと感じる発見があったり(源内焼など)、その他、知らなかった用語の知識も増えたりで、大変ありがたかったです。しかし、この一週間のお休みで、私の知識の増大化も少々失速ぎみでしたので(笑)、ぜひまた宜しくお願いいたします。ではまた。
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継続 (夜噺骨董談義)
2011-07-06 21:36:43
minchouさん、投稿ありがとうございます。このようなコメントも当方には嬉しいものです。

ほぼブログを読まれる方も固定されてきているような気がしますが、こちらから参考になる情報を提供しているかどうか不安になるときがあります。独りよがりのガラクタ談義ではないかと思うときもありますが、このようなコメントは励みになります。体調を考えてゆっくりと引き続き投稿していきます。
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確かに (のぼう)
2011-07-06 23:01:30
ガラクタって自分にとっては何よりもまして宝物ですよね!
マスコミでどう評価されようが、好きな物は好きなのです!
ハチモクココ、よろしくお願いいたします。
彼女のブログも結構面白いと思います。
親馬鹿でしょうか?
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ガラクタ (夜噺骨董談義)
2011-07-06 23:32:24
ん? 骨董の世界では独りよがりの宝物はやはりガラクタ・・・。それなりに共通項を持った美意識は必要かと・・・。骨董収集のほとんどが残念ながらガラクタ集めの御仁達、そことはなんとか一線を画さないといけません。

娘さんのブログを拝見しました。なかなかおもしろいですね。
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