夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

初期の作 仲麿観月図 寺崎廣業筆 明治32年(1899年)頃

2021-07-07 00:01:00 | 掛け軸
我が家では犬猫については、家で柴犬を飼っていることもあり、圧倒的に犬ファンが多いのだが、なぜかしら息子だけは猫の大ファンのようです。市内には2軒ある猫カフェに家内と出かけたらしく、今度は「パパと行く!」というので、日曜日にそのうちの一軒の猫カフェに小生は初めてな猫カフェを体験しました。



コロナ禍でしょうか? 意外に空いていますが、料金は意外に高い!



どうも小生には雌猫が、子供には幼い猫が黙っていても寄り付くようです。小生は寄り付く雌は嫌いだよ・・ 動物だけにはもてる??



一緒にジャンプして遊んでいます。知能レベルは一緒かな・・??? 息子には「生き物を飼う」というたいへんさはよくわかっているようなので、まだ飼いたいとは言いださないようです。



さて本日の作品ですが、「仲麿観月」という画題と構図は、おそらく阿倍(安部)仲麻呂の和歌にある「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」によるものでしょう。



*手前の大皿は中国明末の漳州窯のおける大皿の餅花手です。

仲麿観月図 寺崎廣業筆 明治32年(1899年)頃
絹本着色軸装 合箱入
全体サイズ:縦2140*横563 画サイズ:縦1120*横418

 

阿倍(安部)仲麻呂の生きていた時代は、観月や七夕の風習が宮中で行われるようになった唐の時代(玄宗皇帝や楊貴妃の時代)ですが、日本では奈良時代で仲麻呂は遣唐使であり、吉備真備らとともに唐に留学しています。

玄宗皇帝に秘書監として仕え、「李白」や「王維」などと交際があったとされます。 仲麻呂は何度か玄宗皇帝に帰国をしたいと願い出ましたがその度に断られてしまいました。



ようやくその帰国の許可が出て揚州の黄泗浦(こうしほ)の港から出航しようとしたのが 天宝12年11月15日でした。しかし1羽の雉が第1船の前を飛んだことを理由(不吉の兆し?)に、 翌16日に日本へ向けて出航しました。この時に折から海上に昇った月を見て「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の歌を詠んだのだそうです。



黄泗浦から日本へ向けて4船が出航しました。ちなみに第二船には鑑真和上が乗っていたそうです。4船は沖縄あたりまで行ったのですが暴風に遭遇します。第2船から第4船までは無事日本までたどり着けましたが、 仲麻呂の乗っていた第1船は安南まで漂流してしまいます。仲麻呂は窮地の中でもなんとか唐の都まで帰りますが、 安禄山の変が起きたため日本へ向けての船は70年も出ませんでした。 そのため仲麻呂は唐で生涯を閉じることとなったのです。



仲麻呂が見たかった日本での月は下記の写真のような眺めだったかもしれませんね。



押印されている印章は寺崎廣業の初期の頃の印で下記の写真で比較したのは「勿来の関 寺崎廣業筆 明治17年(1884年)頃」(秀斎時代)に押印されているものです。ただし本作品は落款からそれから10年以上後の明治30年頃に描いた作と推察しています。

 

落款での「業」の字において極端に下に曲がっている書体は短い期間ですが一時期の寺崎廣業の字体にあるものです。



上記写真にある早い時期の号である「宗山」(この号の謂れは他の記事によります)の号は後には落款に用いなくなりますが、印章についてはしばらく後まで押印されます。本作品は寺崎廣業が名を上げる前の初期の頃の貴重な作品となりますね。


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