![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/4d/b80f9542e7bc47d7360e7dc2d5fd1a61.jpg)
ゴルフで体のあちこちが痛い・・体力不足を痛感する今日この頃です。
さて、今日も朝早く出かけますのでブログの投稿は簡便にします。
古上野焼 緑釉花弁壷
高さ145*最大幅184
この壺?はなんだ?? というのが第一印象。どうして購入したかも不明。
建水・・になら使えそうかな??
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/9e/85c1e4ab95a16d9f7479522f3cadf7f3.jpg)
購入時の作品説明には「見事な古上野焼 緑釉水指です。時代は江戸時代、本物、素晴らしい緑釉のお品です。本当に貴重なお品です。」とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/7b/7466bde1ac94113064ed9add9835c263.jpg)
当方は上野焼については全くの無知ゆえに調べてみると
「江戸中期以後の作品には上野焼の証である「巴」の印がつけられるようになり、茶陶に限らず、置物類や雑器類も作られるようになる。
後期には、一般的に知られる銅を含んだ緑青釉を始め、紫蘇手、上野三彩などが作られ、作品を特徴づけた。」とのこと。
本作品は底に「巴印」と「釜印」が押印されています。
さらに調べてみると
「特徴の銅呈色による緑色の釉の掛かったものは全て皿山本窯のもので、窯印の「左巴に甫」「右巴に高」は幕末天保頃で、古い上野焼には印がない。」らしい。
本作品は「左巴」・・・??
近代、現代も押印されているようすなので、これだけでは時代が特定できそうにありません。
ところで遠州七窯は一般的な正統派的な焼き物とは少し隔たりががると感じるのは私だけでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/84/68b32248d4893de992fcbcbe95cc5099.jpg)
上野焼:遠州七窯のひとつ。慶長7年(1602)、細川忠興(斎三)が、朝鮮陶工尊諧に命じ窯を上野の福智山の麓に窯を移した。
細川忠興は、茶人でもあり、小堀遠州の指導を受け、茶器を焼かせた。
寛永9年(1632)、細川氏が肥後に転封になると、尊諧は長男と次男を連れて肥後に移り、高田焼を起こした。三男の十時孫左衛門と婿の渡久左衛門をこの地に残し、新藩主となった小笠原氏に仕えさせた。
時代によって作風は異なる。上野焼は藩窯として保護を受けるが、明治20年に完全に廃絶した。
明治35年(1902), 廃窯を惜しんだ有志が、高鶴 熊谷両家を押し立てて上野焼の再興をはかった。しかし、高鶴家は経営難ら手を引き、熊谷八郎の熊谷家のみが上野焼を守った。
昭和13年(1938)になり、高鶴家が再び窯を持ち、大戦後は青柳家も加わって3家の時代がしばらく続いた。
1960年代からの陶芸ブームによって、十時家も復活し、窯元も増加した。通産省の伝統工芸品に指定されている。当初は地味な釉薬が多かったが、緑の鮮やかな釉薬も使われるようになった。象眼、玉子手、上野木目、上野そうめん流などといった変わった技法も使われている。
さて、今日も朝早く出かけますのでブログの投稿は簡便にします。
古上野焼 緑釉花弁壷
高さ145*最大幅184
この壺?はなんだ?? というのが第一印象。どうして購入したかも不明。
建水・・になら使えそうかな??
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/9e/85c1e4ab95a16d9f7479522f3cadf7f3.jpg)
購入時の作品説明には「見事な古上野焼 緑釉水指です。時代は江戸時代、本物、素晴らしい緑釉のお品です。本当に貴重なお品です。」とのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/7b/7466bde1ac94113064ed9add9835c263.jpg)
当方は上野焼については全くの無知ゆえに調べてみると
「江戸中期以後の作品には上野焼の証である「巴」の印がつけられるようになり、茶陶に限らず、置物類や雑器類も作られるようになる。
後期には、一般的に知られる銅を含んだ緑青釉を始め、紫蘇手、上野三彩などが作られ、作品を特徴づけた。」とのこと。
本作品は底に「巴印」と「釜印」が押印されています。
さらに調べてみると
「特徴の銅呈色による緑色の釉の掛かったものは全て皿山本窯のもので、窯印の「左巴に甫」「右巴に高」は幕末天保頃で、古い上野焼には印がない。」らしい。
本作品は「左巴」・・・??
近代、現代も押印されているようすなので、これだけでは時代が特定できそうにありません。
ところで遠州七窯は一般的な正統派的な焼き物とは少し隔たりががると感じるのは私だけでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/84/68b32248d4893de992fcbcbe95cc5099.jpg)
上野焼:遠州七窯のひとつ。慶長7年(1602)、細川忠興(斎三)が、朝鮮陶工尊諧に命じ窯を上野の福智山の麓に窯を移した。
細川忠興は、茶人でもあり、小堀遠州の指導を受け、茶器を焼かせた。
寛永9年(1632)、細川氏が肥後に転封になると、尊諧は長男と次男を連れて肥後に移り、高田焼を起こした。三男の十時孫左衛門と婿の渡久左衛門をこの地に残し、新藩主となった小笠原氏に仕えさせた。
時代によって作風は異なる。上野焼は藩窯として保護を受けるが、明治20年に完全に廃絶した。
明治35年(1902), 廃窯を惜しんだ有志が、高鶴 熊谷両家を押し立てて上野焼の再興をはかった。しかし、高鶴家は経営難ら手を引き、熊谷八郎の熊谷家のみが上野焼を守った。
昭和13年(1938)になり、高鶴家が再び窯を持ち、大戦後は青柳家も加わって3家の時代がしばらく続いた。
1960年代からの陶芸ブームによって、十時家も復活し、窯元も増加した。通産省の伝統工芸品に指定されている。当初は地味な釉薬が多かったが、緑の鮮やかな釉薬も使われるようになった。象眼、玉子手、上野木目、上野そうめん流などといった変わった技法も使われている。
両手に収まりそうに見えますが・・・そんなに小さくなさそうですね(笑)。でも触ってみたい感じが。。
緑と黄色いお花でも生けたい感じですが。
全く華道の知識もないので直感だけです、ハイ。
何かをやっているから使えるからといって骨董を集めている人はわりと少ないようです。花、お茶などを趣味の人は使っている器は質素なことが多いです。
はてさてこの器、秋田の自宅でゴロン?としています。
上野焼き愛好家の一人です。
この作品は寸法からして
多分水指ではないでしょうか
「上野砂金形水指」のようです。
砂金袋をイメージして作られたようです。
時代は幕末前後。
吉田窯、又は、熊谷窯だと思います。
印の感じでは熊谷窯のように思われますが・・
なるほど砂金形・・・、愛好家からのコメントは有り難いです。
このようにブログにコメントが来て新しい知識が入るのは貴重ですね。