夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

海 小林和作画

2024-06-26 00:01:00 | 洋画
ときおり飾ってある作品を随所で見かけるこのある小林和作の風景画の作品。



いつかはひと作品は欲しいと思っていたのですが、このたび海を描いた横長の気に入った作品がありましたので入手しました。



海 小林和作画
着色額装 タトウ+誂黄袋
M12号 額サイズ:横785*縦515 画サイズ:横600*縦335



細かく素早いタッチで原色を並置し、透明感にあふれた明るい風景画を特徴とする作品を数多く描いたようです。意外にあちこちで作品を見かけることが多いと思います。



これぞという作品がなかなかなかったのですが、ひび割れが進んでおり、絵の具の状態はいまひとつでしたが、横に広がった海の景色が印象的な作品です。



小林和作の画歴は下記のとおりです。

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小林和作:(こばやし わさく、1888年8月14日 ~1974年11月4日)、日本の洋画家。作品は主に風景画。

1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。京都市立美術工芸学校卒。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒。同校在学中、弟四回文部省展覧会(文展)に初入選。

1918年(大正7年)、日本画から洋画に転向し、
1920年(大正9年)鹿子木孟郎の画塾に通う。翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。
1924年(大正13年)、第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選。
1927年(昭和2年)、春陽会会員となる。
1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで渡欧。
1934年(昭和9年)春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道市に移り住む。以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。また文化の振興にも意を注ぎ、物心両面から援助した。



これらの功績から1952年(昭和27年)中国文化賞、1953年(昭和28年)芸術選奨文部大臣賞、1971年(昭和46年)勲三等旭日中綬章などを受けた。尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。

広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。1974年(昭和49年)、広島での写生旅行中に誤って転倒し、頭を強打して死去。享年86。命日の11月4日には毎年、西國寺で和作忌が開かれている。「天地豊麗」という言葉を好んで使った。

 

小林和作は、初期の雅号を霞村、後年には燦樹の別号をもっています。

明治21年(1888)8月16日、山口県吉敷郡に生まれいます。父は和市、田畑、塩浜などを有する富裕な地主で、和作は7人兄弟の長男でした。

小学校を了えると画家になることを希望し、廃嫡を父に申し出で、なかなか許されなかったようですが、遂に父もおれて、明治36年和作をつれて上京、日本画家田中頼璋の門に入りましたが、入門した翌日から風邪をひいて寝こみ、直に郷里へ帰っています。
 
明治37年(1904)、京都市立美術工芸学校日本画科に入学、同級に田中喜作、川路柳虹、高畠華宵などがあり、1学年上級に村上華岳がいました。幸野楳嶺、菊池芳文門下の川北霞峰の画塾に入り、明治41年、同校を卒業、京都市立絵画専門学校に入学し、竹内栖鳳の指導をうけています。絵専在学中も霞峰画塾に通い、霞村と号し、明治43年第4回文展に椿を描いた作品を出品して入選しています。

大正2年(1913)京都市立絵画専門学校を卒業し、この年の第7回文展に「志摩の波切村」が入選、褒状をうけたが、その後出品しても落選し、大正9年(1920)洋画研究を志して鹿子木孟郎の下鴨の画塾に入門して初歩の木炭画から始め、ここで林重義、北脇昇などを識ることになります。

大正11年(1922)春、大正博覧会に上京、偶然紹介された小石川の野島熙正邸を訪ねてその所蔵の洋画コレクションに接し、特に梅原龍三郎、中川一政の作品に感動して洋画への転向と上京を決し、居を東京に移します。

中野の前外務大臣伊集院彦吉の邸宅に住い、梅原、中川、それに林武に油彩画の指導をうけ、春陽会展に出品。また、梅原、中川、林らの作品を蒐集しました。

京都におけるジャン・ポール・ローレンス系のフランス・アカデミスムの画風から、上京後は印象派以後の近代的画風へと転じていったのですが、大正14、15年とつづけて春陽会賞を受賞し、昭和2年(1927)第5回春陽会展に「上高地の秋」を出品して春陽会会員にあげられました。

昭和3年(1928)1月、林倭衛、林重義、ベルリンへ行く弟と4名でシベリア経由でヨーロッパへ赴き、パリへ行き、さらに山脇信徳と共にイタリア旅行、夏にはイギリスへ旅行しています。

昭和4年(1929)春には約5ヶ月のあいだエクス・アン・プロヴァンスに滞在した。同年5月、再びシベリア経由で帰国の途についています。

昭和6年(1931)、経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産を整理、その前年に創立された独立美術協会に林重義を通じて参加を勧誘されましたが、これを断り資金援助だけをしています。

昭和9年(1934)、春陽会を脱会して独立美術協会に会員として参加、また、同年東京から尾道に居を移し、以降、尾道にあって独立展を中心に作品を発表しています。

戦後は、春、秋の二度にわたり長期の写生旅行で日本国内をまわり、その成果を独立展、秀作展、日本国際美術展、現代日本美術展などに発表、昭和28年(1953)には27年度芸術選奨文部大臣賞をうけ、昭和46年(1971)に勲三等旭日中綬章をうけています。なお、80歳を祝って、梅原、中川、小糸源太郎などを加えて八樹会がおこされ、日動画廊で展覧会が毎年開かれています。



後半期は日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクターとしても知られ、また、随筆家としてもよく知られており、随筆集に「風景画と随筆」「春雪秋露」「美しき峯々の姿」「天地豊麗」「春の旅、秋の旅」などの著書があり、そのほか、「浮世絵肉筆名品画集―小林和作家蔵」(画文堂)、「備南洋画秀作集」(求竜堂)などがあります。

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「日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクター」というのが気になりますね。いったいどのような作品を蒐集していたのでしょうか?


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