
人生は悪いことばかりではありません。たまにはいいこともあります。見方を変えればいいことばかり・・。東北の復興はなかなかすすみません。
地震直後に仙台、石巻を除きかなり時間がかかると記述しましたが、身近の人を亡くし、年寄りが多いと気力が出ないものです。都会にいる人がふるさとに帰るなら別ですが・・・。長い目でどうするかを考えること、少しでも被災者を元気づけること必要です。そういう意味からも昨日の澪つくし料理帖のドラマは、災害で両親を亡くした少女がどんどん元気になっていくドラマですから、直接的な表現でなく心の底から元気になれる内容です。無論、小説は震災前からのシリーズ小説です。
さて、本日は親子で画家の浦上春琴の作品です。
南画の鑑賞のポイントは品格です。構図、描線、賛、色合い、いずれをとっても出来の良い作品です。
浦上玉堂は言わずと知れた国宝となった作品を描いた画家です。国宝となったのは川端康成が編集者に原稿料を前借して、所謂借金までして購入した作品です。一流の人は一流のものを見抜く力があるようです。
その浦上玉堂より生存中は人気があったのが長男の浦上春琴の作品です。父の作品とはあまり画風が近似してなく端正な作品を描いたことも人気のある理由のひとつでしょう。
浅絳山水図 浦上春琴筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先紫檀 合箱
全体サイズ:縦1947*横510 画サイズ:縦1215*横403

款文は「千嶂萬嶽白雲繞。緑樹蒼々兩三家 春琴散人」とあり款印は「春琴居士」の朱文白方印が押印されています。

購入時の説明には「浦上春琴の傑作です。代表作の一つといっても良いでしょう。淡彩墨画で、濃淡を活かし墨色の見事な山水画です。遠景から近景にいたる描法は、浦上春琴ならではの腕前です。」とあります。

「気品のある画面をきわだたせています。表装は、傷みのない文人表装です。」さらに念をおしています。
真贋抜きにしていいものはいいとすることがあります。今回の作品はそのような作品といえます。仙台の吸古堂のご主人は碌に印章などは江戸期以前の作品は調べず、「いいものはいい。」と述べておられました。「骨董屋は市でいちいち印章や落款は調べてられない。感性の勝負だ。」とも・・。
そういう意味ではなんでも鑑定団のように事前審査があるものよりさらに厳しい判断力、感性が骨董のプロには要求されるのでしょう。ただ、失敗はつきもののようです。
浦上春琴:安永8年(1779年)~ 弘化3年5月23日(1846年6月16日))は、江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国(現岡山県)に生まれる。浦上秋琴は実弟。諱は選、字を伯挙・十千、号は春琴のほかに睡菴・文鏡亭・二卿。通称は紀一郎もしくは喜一郎。戦国大名浦上氏の末裔という。
幼少の頃より父玉堂より書画の手ほどきを受ける。寛政4年(1792年)ころより如意道人によって父玉堂とともに春琴の作品が買い上げられている(如意道人蒐集書画帖)。14歳のころ母が死去。寛政6年(1794年)父玉堂が脱藩。父子で諸国を歴遊する。江戸、長崎では画塾に通い古書画を研鑽する。
遊歴を終え20代で京都に定住し、頼山陽や田能村竹田、岡田米山人、半江、篠崎小竹、貫名海屋、柏木如亭ら著名な文人との交わりを深める。文化8年(1811年)藤木氏瀧と結婚。文化10年(1813年)父玉堂と同居(柳馬場二条北)し夫婦で世話をする。文政3年(1820年)玉堂歿。
山水画、花鳥画に優れ精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風であった。中林竹洞や山本梅逸らと名声を競った。当時は父玉堂の作品よりよく売れたという。また書道・詩文・平曲・七絃琴に優れ、器物、書画の鑑定にも秀でていた。紀春琴の名で画論『論画詩』を著している。弘化3年5月歿、享年68。
PS.
さて、感性の勝負とはいえ調査は並行して行い真贋を調べなくてはいけないのも事実です。当方は浦上春琴の資料が乏しくまだ断定はできいていないことを追記しておきます。
地震直後に仙台、石巻を除きかなり時間がかかると記述しましたが、身近の人を亡くし、年寄りが多いと気力が出ないものです。都会にいる人がふるさとに帰るなら別ですが・・・。長い目でどうするかを考えること、少しでも被災者を元気づけること必要です。そういう意味からも昨日の澪つくし料理帖のドラマは、災害で両親を亡くした少女がどんどん元気になっていくドラマですから、直接的な表現でなく心の底から元気になれる内容です。無論、小説は震災前からのシリーズ小説です。
さて、本日は親子で画家の浦上春琴の作品です。
南画の鑑賞のポイントは品格です。構図、描線、賛、色合い、いずれをとっても出来の良い作品です。
浦上玉堂は言わずと知れた国宝となった作品を描いた画家です。国宝となったのは川端康成が編集者に原稿料を前借して、所謂借金までして購入した作品です。一流の人は一流のものを見抜く力があるようです。
その浦上玉堂より生存中は人気があったのが長男の浦上春琴の作品です。父の作品とはあまり画風が近似してなく端正な作品を描いたことも人気のある理由のひとつでしょう。
浅絳山水図 浦上春琴筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先紫檀 合箱
全体サイズ:縦1947*横510 画サイズ:縦1215*横403

款文は「千嶂萬嶽白雲繞。緑樹蒼々兩三家 春琴散人」とあり款印は「春琴居士」の朱文白方印が押印されています。



購入時の説明には「浦上春琴の傑作です。代表作の一つといっても良いでしょう。淡彩墨画で、濃淡を活かし墨色の見事な山水画です。遠景から近景にいたる描法は、浦上春琴ならではの腕前です。」とあります。

「気品のある画面をきわだたせています。表装は、傷みのない文人表装です。」さらに念をおしています。
真贋抜きにしていいものはいいとすることがあります。今回の作品はそのような作品といえます。仙台の吸古堂のご主人は碌に印章などは江戸期以前の作品は調べず、「いいものはいい。」と述べておられました。「骨董屋は市でいちいち印章や落款は調べてられない。感性の勝負だ。」とも・・。
そういう意味ではなんでも鑑定団のように事前審査があるものよりさらに厳しい判断力、感性が骨董のプロには要求されるのでしょう。ただ、失敗はつきもののようです。
浦上春琴:安永8年(1779年)~ 弘化3年5月23日(1846年6月16日))は、江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国(現岡山県)に生まれる。浦上秋琴は実弟。諱は選、字を伯挙・十千、号は春琴のほかに睡菴・文鏡亭・二卿。通称は紀一郎もしくは喜一郎。戦国大名浦上氏の末裔という。
幼少の頃より父玉堂より書画の手ほどきを受ける。寛政4年(1792年)ころより如意道人によって父玉堂とともに春琴の作品が買い上げられている(如意道人蒐集書画帖)。14歳のころ母が死去。寛政6年(1794年)父玉堂が脱藩。父子で諸国を歴遊する。江戸、長崎では画塾に通い古書画を研鑽する。
遊歴を終え20代で京都に定住し、頼山陽や田能村竹田、岡田米山人、半江、篠崎小竹、貫名海屋、柏木如亭ら著名な文人との交わりを深める。文化8年(1811年)藤木氏瀧と結婚。文化10年(1813年)父玉堂と同居(柳馬場二条北)し夫婦で世話をする。文政3年(1820年)玉堂歿。
山水画、花鳥画に優れ精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風であった。中林竹洞や山本梅逸らと名声を競った。当時は父玉堂の作品よりよく売れたという。また書道・詩文・平曲・七絃琴に優れ、器物、書画の鑑定にも秀でていた。紀春琴の名で画論『論画詩』を著している。弘化3年5月歿、享年68。
PS.
さて、感性の勝負とはいえ調査は並行して行い真贋を調べなくてはいけないのも事実です。当方は浦上春琴の資料が乏しくまだ断定はできいていないことを追記しておきます。