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夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

宇知野の雪 伝月岡雪鼎筆 その2

2025-07-13 00:01:00 | 掛け軸
本日紹介する作品は江戸期の浮世絵師である月岡雪鼎の作品らしいのですが、後述のように小堀鞆音が描いた作品にほぼ同じ構図の作品があります。さてどのような関連があるのでしょうか?



宇知野の雪 伝月岡雪鼎筆
絹本着色軸装 軸先木製 誂入 
全体サイズ:横858*縦2265 画サイズ:横695*縦1385

 

月岡雪鼎の画歴は下記のとおりです。

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月岡雪鼎:享保11年(1726年)~天明6年12月4日(1787年1月22日))。江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。

姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字を大渓といった。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪など。

近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられている。一方、画号の「雪鼎」の由来は分かっていない。

父・木戸平四郎友貞は医者で、大坂に移住。雪鼎も家業の医者を継ぐも病気がちで断念する。その後、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で「月下擣衣図」(絹本着色)などのような肉筆美人画も描く。現在、確認できる最初の作品は、宝暦3年(1753年)正月刊行の『絵本龍田山』で、宝暦年間に手がけた版本は確認出来るだけで30冊に及ぶ。

仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋位を得る。この頃は大坂江戸堀2丁目に住み、隣人は国学者・江田世恭、大坂の文人サロン・混沌詩社を中心とする詩人や学者と交流を持った。作品も版本は減り、代わりに肉筆画が増えていく。安永7年(1778年)3月に息子・雪斎は法橋、自身は法眼に推免された。

法橋位を得た年かまたは翌年から、行年書に9歳または10歳加算するようになる。以後、3幅対や屏風など大画面の作品を手掛けることが多くなり、富裕な人々からの注文が増えたと推測される。1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住。享年77。

長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰、桂宗信などがいる。また一説には月岡芳年は雪鼎の長男で、月岡雪斎の画系を引いているといわれる。

作画期は宝暦3年頃から没年の天明6年に到っており、肉筆浮世絵の他、版本の挿絵にも筆をとった。肉筆画の多くは美人図で、賦彩の美しい画品を具えた作品が数多く見られる。雪鼎の描く女性は、色白で鼻筋の通った瓜実顔に切れ長の目が特徴で、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い。豊艶な美人の輪郭線に、薄い墨と落ち着いた朱色を併用することで、色白の肌との調和を図っている。また、春画の名手としても知られる。

天明の大火の時、焼け跡の中になぜか残った蔵があった。訝しんだ人々がその蔵の中に入ってみると、その持ち主も見覚えのない雪鼎の春画があったという。この逸話が広まり雪鼎の春画は火除になると評判が広がり、値が十倍にもなったという。ただし、美人画や春画ばかりを描いたわけではない。水墨を基調とした人物画には狩野派風、山水画には雪舟風の描法を用い、師の敬輔の影響が看取できる。

和漢の古典や故事に取材した作品も散見され、時には雪鼎自ら漢詩や和歌を書き込んでいる。雪鼎が用いた遊印「図不食先哲糟粕」は「先人の真似をしただけの絵は描かない」の意で、雪鼎の絵に対する思想を表している。こうした雪鼎の絵は貴族にも愛好され、その絵の値段は三十金、五十金にもなった。

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本作品は月岡雪鼎の画風「雪鼎の描く女性は、色白で鼻筋の通った瓜実顔に切れ長の目が特徴で、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い」とは趣が異なりますので、一見すると果たして月岡雪鼎の作品であろうかと疑うでしょう。

当方の推察では高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいる点、和漢の古典や故事に取材した作品もあり、女性の描き方に本作品のようなものも散見されることから月岡雪鼎の早期の真作であろうと推察していますが、あくまでも「伝」です。



この作品は「巴御前の戦の準備」を描いたものであろうと推察されます。

巴御前の詳細は下記のとおりです。

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巴御前:(ともえごぜん、生没年不詳) 平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。字は鞆、鞆絵とも。『平家物語』によれば源義仲に仕える女武者。『源平闘諍録』によれば樋口兼光の娘。『源平盛衰記』によれば中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の姉妹で、源義仲の妾。

 軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。



「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、義仲・今井兼平・巴御前・手塚光盛・手塚別当の5騎になっても討たれなかったという。

義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

八坂流の『百二十句本』では、巴を追ってきた敵将を返り討ちにした後、義仲に落ちるように言われ、後世を弔うことが最後の奉公であると諭されて東へ向かい行方知れずとなったとされ、『長門本』では、落ち延びた後、越後国友杉に住んで尼となったとされる。

最も古態を示すと言われる『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという。粟津の戦いにて粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされている。

下記の作品は本ブログに投稿している当方の巴御前を描いた所蔵作品(部分)です。

巴御前図 無落款 
絹本着色 軸先螺鈿 合古箱
全体サイズ:縦1455*横812 画サイズ:縦453*横642



『源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされている(『長門本』にも同様の記述がある)。

宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。

敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、「木曾殿には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ」と述べた内田三郎家吉を討ち取った後、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。

落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られる。

なお、『覚一本』では年齢は記されていないが、『百二十句本』では22,3歳、『延慶本』では30歳ばかり、『長門本』では32歳、『源平盛衰記』では28歳としている。

巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』および『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない。女武将であるという物語の記述は史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性も高い。『平家物語』における巴御前の記述は至って簡略で義仲との関係も書かれていないが、より後の時代に書かれた『源平盛衰記』において大きく人物像が書き加えられている。

だが『吾妻鏡』に越後の城氏の一族である坂額御前の健闘により討伐軍に大被害が生じたとの記事があり、当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在する。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、合戦に参加することは女性であれ認められていた。

また神話においては神功皇后、崇神天皇の御代に反乱を起こした武埴安彦命とその妻・吾田媛、日本武尊の東征に同行した弟橘媛など、女性が合戦に参加することは決して珍しいことではない。巴御前の場合も『源平盛衰記』では「額ニ天冠ヲ当テ」と描写されるなど、多分に宗教性を帯びた存在であるとの指摘もある。また『源平盛衰記』では巴は義仲の乳母子であるとされており、この場合は柳田國男が述べた「妹の力」との関係も注目される。

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いずれにしてもこのような画力のある画家の作品で大きな作品は珍しいですね。



本作品と同じ構図で小堀鞆音が同題の作品を明治31年に描いています。本作品が月岡雪鼎の真作とすると小堀鞆音が本作品を見ていたという可能性が高くなりますが、他に同じ構図の作品があった可能性もありますね。



この点については後学となりますが、資料的にも調査対象となり、貴重な作品の可能性があります。



かなりの力作と思われ、他の月岡雪鼎の作品よりも書き込みの多い作品となっています。



前述のように本作品のような平安美人のような女性の顔立ちは調べてみると月岡雪鼎の作品にはたしかにあるようです。



月岡雪鼎は通常落款には「法橋月岡雪鼎」 と記したり、晩年には「法眼月岡雪鼎画」と記したりしますが、本作品のように「月岡雪鼎」のみの落款の作品も僅かですが存在ます。

印章は白文朱方印「月岡▢▢」が押印されています。



前述のように同題で同じ構図の作品に小堀鞆音の作品(下記作品参照)があります。明治31年(1898年)に描かれた作品で、本作品より後に描かれたものとなりますが・・・。



さらには尾竹国観の「巴」という作品もあり、この作品は小堀鞆音の作品を倣ったとされています。このことから本作品は「巴御前」を題材にした作品であろうと推定されます。ただし本作品の題名にある「宇知野の雪」との関連は不詳です。



大きな作品であり、飾ると見栄えがありますので、江戸期の月岡雪鼎の作品であろうとなかろうと貴重な作品だと思います。



入手時には収納箱はありませんでしたので、誂えが必要となります。

















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