夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

婦人像 原精一筆

2015-02-11 00:09:14 | 洋画
日本代表の監督の解任・・、またしても予想が当たりました。日本のサッカー協会の運営の拙さが如実に出たようですね。もともと日本のサッカーは弱い、人材不足なのにどこでどう勘違いしたのか、常勝軍団のようなイメージをもったらしい。

もともと農耕民族にはサッカーは向いていないという説?があります。ここというときに決められないということらしい、狩猟民族のような「しとめる」というDNAが欠けているというのがその根拠・・・ 当たらずも遠からずか 

本日は原精一・・。

戦争による悲惨な出来事が相次ぐ昨今、この画家は絵によって戦争とは何かを今でも我々に伝えてくれる。林芙美子と交流のあったデッサンの天才画家の作品の投稿です。残念ながら戦争そのものの悲惨さを伝える作品ではありませんが・・。

婦人像 原精一筆
紙本水彩額装
画サイズ:縦370*横270



「於南京 昭和十五年(1940年)一月二十日」とあり。最初の中国大陸への従軍し、1941年に召集を解かれる直前の南京に従軍していた時のスケッチではないかと推察されます。



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原精一:1908-1986 昭和時代の洋画家。明治41年2月27日生まれ。万(よろず)鉄五郎に師事。春陽会展出品の「シュミーズの女」「化粧」などで春陽会賞,佐分(さぶり)賞を受賞。戦後は一時国画会に属した。素描力にすぐれ,おおくのデッサン展をひらき,「原精一デッサン集」を刊行。昭和50年女子美大教授。昭和61年5月3日死去。78歳。神奈川県出身。

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見事なデッサン力には眼をみはるものがりますね。




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補足説明

原精一が日中戦争に召集をうけたのは昭和12年8月である。7月7日の蘆溝橋事件から1ヶ月あとのことである。

師萬鉄五郎の死から従軍までの10年間の原精一、19歳から29歳、人間形成の重要な時期である。この間、原精一は美術学校への進学を放棄、ひたすら画家への道を歩みながら青春の彷徨をつづけている。中学時代からの友人鳥海青児、森田勝1930年協会を通じて知己となった林武、野口弥太郎、図画会での梅原竜三郎といった先輩画家たちとの交友があり、さらには阿部次郎、児島喜久雄といった学者、また一方では尾崎士郎、尾崎一雄、林芙美子、山本周五郎といった文士らとの親しい交友もはじまっている。

このころ、原精一は「怪童丸」と綽名されてまだ若き文士らに愛されている。とくに林芙美子とは、林の夫の手塚をとおして親しくし、林芙美子があの『放浪記』を書いた住居のあとを借りうけて原精一の結婚生活ははじまっている。『放浪記』で富裕になった林芙美子はなにくれとなく原精一を支援したし、原精一の最初の日中戦争従軍にはわざわざ原の戦陣にまで訪ねていっているのである。

 近衛工兵大隊の輜重兵となった原精一は入隊するとすぐに中国出兵に加えられ、戦場へ赴くことになる。中国との全面戦争(Full Scale War)開始の最初の戦闘の場にたたされている。揚子江河口、呉淞鎮の敵前上陸に参加、戦史によれば日本陸軍第3師団の呉淞鎮、第11師団の川沙鎮北方地区への上陸は、昭和12年8月23日であったという。原精一の戦中デッサンは、おそらくこのときからはじまっているにちがいない。

 原精一は、南京、徐州、漢口、武昌へとすすんでいる。その間、原精一の軍事郵便の葉書は、ほとんどスケッチ、デッサンのための画面と化した。また、紙を拾い、墨を拾って描きつづけたようである。

 林芙美子が戦場の原精一を訪ねたのは昭和13年10月半ば、漢口占領の直前であった。林芙美子はこのとき、「文士慰問団」の一行に参加して久米正雄らとともに第36旅団長牛島少将、第6師団長稲葉中将らに続行して漢口へきたのであった。文士慰問団は、漢口攻略部隊となった第6師団第23連隊の出発を手を振って見送ったという(児島襄『日中戦争』)。このころ、日本の兵士たちのあいだにはマラリアが流行し、疲労と高熱で夢遊病者のような兵士たちが必死になって進軍していたと戦史はつたえている。原精一もまた第6師団に属し、渡河材料隊員の曹長として掲子江溯行作戦に加わっており)、またマラリアに罹って朦朧としていたとのことである。1年ぶりに再会した両者は、それでも、「絵の話、文学の話、戦争の話、支那の娘の話」をしたと林芙実子はつたえている(「原さんの性格」)。どうやら、2人とも、硝煙弾雨の戦場にいながらも、自己の本然を忘れることがなかった。原精一は、漢口攻略の3ヶ月後、武昌において、それまでに描きためたスケッチを陳列して、戦場での展覧会さえ開催しているのである。

 召集をとかれて一度帰還した原精一が再度の召集をうけたのは昭和18年1月であった。このときは日米戦争の前半とはもはや明暗を異にしようとしていた時期であり、南方への派遣、それも原自身、ビルマヘの派遣を希望したという。シンガポールまで赴いた原精一の参加部隊はほぼ半年間その地にとどまり、そこから陸路、タイの国境を超えてビルマへすすんでいる。原精一がとりあえず配属されたのは自動車隊の材料廠であった。タイからビルマヘすすんだ原精一は、さらにインパールヘとはこばれる。インパール作戦の壮大な失敗については数多く語られているが、英印連合軍側の近代兵器による圧倒的な攻勢に転進という名の敗退を余儀なくされた日本軍の惨状もまた数多く語られている。原精一の場合でも、戦闘そのものの恐怖感はうすれていたとしても生死の境界をさまよう事態を両三度にわたり経験することになる。あるときは戦友に、あるときはビルマ人に助けられ、また最後は自己の気力と精神力によって生きぬいてきたというほかないであろう。

 原精一の戦中スケッチは、戦争の記録画ではない。戦場で軍務に服しながらも描かずにはいられなかった兵士である画家のデッサンである。それゆえに、従軍画家が軍当局の要求のまゝにか、あるいは、愛国心にかきたてられての報国の感情によってかといった類の戦争画とは性格を異にする絵画といってよいであろう。同じように戦場の兵士の姿を描きながらも従軍画家のそれは、いかに巧妙に、いかに写実的に描かれていても従軍画家のためにポーズした兵士といった雰囲気をどうしてもまとっている。戦争画で名をはせた宮本三郎は、戦争画についてつぎのように書いている。

 時々経験することだが、時局柄戦争画を描かなければならないことについての感想をきかれることがある。そのたびに私は戦争画が面白いからと答へることにしてゐるが、事実迎合するとか止むを得ずとかいふ気持もない。面白いから描くことが、お役に立つといふことになれば有難いと思ふばかりである。(『宮本三郎南戈征軍画集』)

 原精一のデッサンの多くには、休息する兵士が描かれている。地面にゴロリと横たわっている兵士の姿には、ほんとうの疲労が感じられないであろうか。中国人が地面に横たわっている画面もみられる。どこの、誰による殺戮であろうか。埋葬者もなく横たわる中国人を画家はそのままに描きだしている。凝視する人は言葉を失うかもしれない画面である。可憐なビルマやタイの少女たち、人なつっこそうな少年たち。画家の眼は、おそらくは画家自身が意識しないままに、ときに厳しく、ときにやさしい。そこには、殺戮の場のなかでも人間を失わなかった画家の眼が感じられないだろうか。

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戦争は恨みと欲の負の連鎖・・、繰り返してはいけません。サッカーで鬱憤を晴らしているうちはまだ平和・・、サッカーで日本を挑発する愚かな国が近隣に2国ありますが、相手にしないことです。





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