夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

初めて投稿する画家 吉田勝江さんの像(しまのきもの) 深沢紅子画 1957年

2024-05-28 00:01:00 | 洋画
充分にあったはずの収納スペースが足りなくなってきました。郷里に絡む画家の掛け軸だけでも下記の写真のように満杯状態・・・。



掛け軸(横長さ別に収納)、額作品、陶磁器、彫刻、漆器と充分に考慮したはずがこの有様ですので、郷里の男の隠れ家に少しずつ移送する予定です。家内や息子は「売ったら・・・」と口を揃えて言っています。

たしかにそろそろ断捨離していい年齢になりました。これらの処分は大仕事・・・。



さて盛岡に赴任していた頃に亡くなった家内が日本画を習っていて、深沢紅子という画家の名前だけは記憶にありました。この度、縁あってこの画家の作品を入手しましたので紹介します。



吉田勝江さんの像(しまのきもの) 深沢紅子画 1957年
油彩額装 右下サイン 誂:黄袋+タトウ
F10号 額サイズ:縦768*横693 画サイズ:縦530*横455



亡くなった家内が習っていた日本画のメンバーにて陶芸体験にて行った先が、盛岡市内にあった南部窯でした。そこで小生は作陶に通るようになったり、そこでも深沢紅子の作品とは縁があったので、思い出深い盛岡での画家の作品となります。



深沢紅子の画歴は下記のとおりです。

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深沢紅子:(ふかざわ こうこ、1903年3月23日~ 1993年3月25日)。日本の洋画家。岩手県盛岡市出身。明治36年(1903)四戸慈文・キヌ夫妻の一人娘として盛岡に生まれる。



熱心な慈善事業家であった両親の人柄が紅子に大きな影響を与えたようです。小学校時代にはすでに絵画に頭角を現し、盛岡高等女学校から女子美術学校日本画科に入学、のち油絵科岡田三郎助門下に転じ、卒業後同郷の画家深沢省三と結婚します。

大正14年二科展に「花」「台の上の花」が女性でただ一人入選。一方、和田三造主宰の日本標準色協会創立に参加して二年間標準色選定に従事し、この経験は深沢紅子の世界確立に貴重なものとなります。



夫深沢省三も洋画家・童画家。戦前戦後を通じ、堀辰雄や立原道造らの本の装幀のほか、童話の挿絵なども多く手がけました。深沢夫妻は作品を描き続ける一方、絵画指導を通じて児童教育にも熱心に携わっています。



追記:盛岡市公式ホームページより

深沢紅子は1903年(明治36年)3月23日、盛岡市内丸にて四戸慈文、きぬの長女として生まれた。父慈文は文人肌であり、早くから紅子の絵を理解し、池田龍甫に絵を習わせたりした。

幼少より絵に親しんだ紅子は、盛岡高等女学校卒業後に上京し、女子美術学校へ入学した。はじめは日本画を学んだが、後には師の岡田三郎助の助けを得て西洋画科に転向した。

1923年(大正12年)には「花」、「台の上の花」の2点が二科展に入選する。当時は女性の入選は珍しく、大きな話題となった。1927年(昭和2年)には和田三造主宰の日本標準色協会の設立に参加、1936年(昭和11年)に創立された一水会には当初より参加している。戦後は夫の深沢省三とともに郷里盛岡に戻る。彼らは戦後の人心の荒廃を憂い、美術教育の必要を強く感じた。そのため岩手美術研究所や県立美術工芸学校の設立に関わり、子供たちのために図画教室を開催した。晩年もその創作意欲は衰えることなく、夫省三とともに絵を描き続けた。現在では彼女の作品を紹介するため、盛岡市紺屋町に深沢紅子野の花美術館が設置されている。              掲載日:平成16年10月25日

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*ちょっと変わった?女性像の作品ですね。


詳しい年譜は下記のとおりです。

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年譜
1903年(明治36年)3月23日、父四戸慈文・母キヌの一人娘として盛岡に生まれる
1909年 - 岩手師範附属小学校(現・岩手大学教育学部附属小学校)入学
1919年 - 盛岡高等女学校(現・岩手県立盛岡第二高等学校)卒業。12歳より日本画を学んでいたことから、東京の女子美術学校(現女子美術大学)日本画科へ入学
1921年 - 同油絵科へ転科、岡田三郎助門下生となる
1923年 - 卒業の年、同郷の画家・深沢省三と結婚
1925年 - 第12回二科展に「花」「台の上の花」を初出品。女性で唯一の入選となる  
1927年 - 岡田三郎助の紹介で、和田三造主宰の日本標準色協会創立に参加し、二年間標準色の選定に従事
1936年 - 有島生馬、安井曾太郎、山下新太郎らが二科展を脱退して一水会を創立するのに参画、第1回展から出品
1938年 - 陸軍従軍画家となった省三とともに大陸(蒙古)へ渡る
1941年 - 安井曾太郎、有島生馬らが二科会を脱会して、一水会を創立するのに加わり、昭和16年「スカーフの女」で一水会賞受賞。第5回一水会展にて「スカーフの女」が一水会賞を受賞
1945年 - 終戦を期に盛岡へ帰る
1946年 - 雫石町に入植、開拓にあたる。盛岡において児童対象の日曜図画教室や生活学校を開催し、省三とともに指導にあたる。同年、一水会会員となる
1947年 - 岩手美術研究所開設に伴い、省三、舟越保武のほか、東京から画家を招いて指導にあたる。女流画家協会創立に参加、委員に挙げられる
1948年 – 岩手美術研究所の活動をもとに県立岩手美術工芸学校(のちの盛岡短期大学美術工芸科、および岩手大学特設美術科)設立。盛岡での活動が増えたため、再び住居を盛岡に移す
1949年 - 第11回一水会展で「かんぞうを持てる少女」「少女たち」が一水会優賞を受賞。省三とともに第2回岩手日報文化賞受賞
1951年 - 県立岩手美術工芸学校が短期大学として認可されると同時に教授就任
1952年 - 一水会常任委員
1955年 - 盛岡短期大学を辞職し上京。喘息の療養の傍ら自由学園講師となり、以降18年間指導をする
1964年 - この頃から約20年、旧軽井沢の「堀辰雄1412番山荘」にて夏を過ごす
1979年 - 隣家から出火、自宅アトリエを全焼。描きためた作品のほとんどを焼失
1992年 3月24日 - 省三、山中湖別荘にて死去
1993年 3月25日 - 山中湖別荘にて死去。享年90
1993年 - 7月、軽井沢町に「野の花美術館」開館
1993年 - 8月、盛岡市に「野の花美術館」開館
*「立てる少女」は文部省買い上げとなり東京国立近代美術館に収蔵される。

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作品中のサインとキャンパス裏に記されているサインは下記の写真のとおりです。

 

*裏に記された題名となっている「吉田勝江」についての詳細は不明ですが、描かれたのは1957年(昭和32年)です。



展示室内の展示の様子は下記の写真のとおりです。



額は古いままですが、裏板を取り付けて、タトウや黄袋を誂えました。



昭和レトロの雰囲気ある作品は小生の好み・・・。



前述のように、額の裏面を神田の草土舎に依頼してきれいに直してもらいました。担当された方もいい絵だと言ってくださって、「深沢紅子」について調べたようです。



修復後は1階の展示室に飾っています。

*左の飾り棚の作品は長谷川利行の作品と古染付の作品です。階段には藤田嗣治の作品を飾っています。

また作品が増えるばかり・・・・。


















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