夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

リメイク 金城次郎の碗 その1 (7作品のうち3作品)

2022-09-11 00:01:00 | 陶磁器
金城次郎の色紙絵を入手したことで、魚と海老の文様の作品を収納スペースから取り出してあらためて並べて見ているうちに、金城次郎の作品の再整理をし始めました。まずは茶碗から・・。

マカイなどの雑器以外では6つの茶碗の作品を当方では蒐集しています。本日はマカイを入れて7作品ある金城次郎の碗の作品から2回に分けて投稿しますので、本日は最初の3作品を紹介します。

すべて本ブログにてなんらかの記事で投稿されている作品ですので「リメイク」と題しての投稿です。金城次郎の作品紹介は浜田庄司の作品紹介と同じように本ブログで週末に連載する予定です。

*毎週日曜日に投稿している浜田庄司の作品紹介も継続する予定ですので、金城次郎と浜田庄司の作品が相前後して投稿することになるかもしれません。



整理していくうちに整理の終了した作品は解るようにカバーを付けておきます。



蒐集した作品は数年ごとに見直し、忘れていたことを思い出すことと新たに分かったことを記録することが大切なようですね。



まずは冒頭で記述したように絵である色紙に描かれた「魚と海老」の両方を描いた茶碗からです。 

本日は金城次郎の陶歴とその技法についてがメインの記事となります。

白化粧地呉須魚海老文茶碗 
金城次郎作 (茶碗その1)
「次」搔銘 誂箱
口径120*高さ75*高台径59



金城次郎は鉄分の多い赤土で成形したうえに白化粧と魚や海老が描いてある作品が広く知られます。これは化粧土にイッチンで描くか、逆に工具でかき落として線彫りしています。琉球陶器といえば金城氏の魚紋と海老紋を思い浮かべる人もいることでしょう。この模様と装飾が特徴的な技法です。



そのほかに指描きでの装飾や釉薬の流し掛けなど、益子や小鹿田にみられる技法も自らの作風にマッチさせています。次に釉調についてです。氏の作品は線彫りの深めのみぞが釉薬の濃淡を生み出しています。これはイッチンでも同様で、器面の凹凸で呉須の青や、真鍮の緑釉の色が微細な濃淡をみせています。



青が濃すぎないのは黒釉を混ぜているためです。この黒釉は黄土と灰を混ぜたもので飴釉にも蕎麦釉にもなります。日用品を旨とする壺屋ではよく使われる釉薬といえます。また、透明釉にはモミの灰に珪石、石灰質の補填ではサンゴを用いています。これらの原料は全て沖縄で手に入るものです。



透明釉はさておき氏の作品を見ると釉が流れているのがよく分かります。線彫りとイッチンの凹凸がないとさらに流れてしまうので、この装飾が釉薬をせき止めているわけです。こうして金城次郎は独自の世界観を構築していきました。


金城次郎が陶業に関わり60年が経った1985年、国の無形文化財「琉球陶器」保持者に認定されます。17歳年上の濱田庄司は「笑った魚や海老を描ける名人は次郎以外にいない」と評したそうです。戦後の琉球陶器において「魚」と「海老」は一般的なモチーフでした。それにもかかわらず、魚紋と海老紋は金城次郎の代名詞といえるほどの独自性と躍動感に満ちています。



白化粧地呉須魚海老文茶碗 
金城次郎作 (茶碗 その6) 
掻銘「次」 誂箱
口径115*高台径55*高さ80



金城次郎は戦後まもなくから沖縄らしい模様を模索する中で、魚を貝や海老とともに自覚的に描くようになります。「沖縄は島国で周囲が海だから、海の生活をテーマにしようと思つた」とインタビューに答えています。自分だけの絵柄、個性を求めて魚文にたどり着いたようです。



苛舜な沖縄戦を生き残り1945年の終戦直後の壺屋で作陶を再開(正確には1946年(昭和21)那覇市壺屋に築窯)してから1972年に沖縄本島中部の読谷村(ヨミタンソン)に移住するまでを、金城次郎の“壺屋時代"と呼んでいます。

この時期は濱田庄司、河井寛次郎らの指導の元で壺屋焼を守り発展に努めており、作品にはまだ銘がないとされています(無銘時代)が、後半頃には銘はあったのではないかと推定しています。ただし当然壺屋時代の作には原則として共箱はなかったと思われます。



この時代にはさまざまな魚が描かれた。金城次郎の作陶に大きな影響を与えた濱田庄司は「次郎の魚は笑っている」という一言を遺し、やがて金城次郎といえば魚文といわれるまでにトレードマークとして定着します。



濱田庄司と金城次郎が初めて出会ったのは1924年、金城次郎が13歳、濱田庄司が30歳の時とされます。濱田は1918年以来たびたび沖縄を訪問し壺屋の工房で作陶をしていていました。働き始めたばかりで軸櫨も触らせてもらえなかった少年であった金城次郎は、濱田の作陶を間近で見て「“焼ちむん"も立派な仕事だと思う」ようになったそうです。



白化粧地刷目呉須魚紋茶碗 
金城次郎作 (茶碗 その3) 
共箱
口径120*高さ76*高台径



濱田庄司から作陶の上で技術的に参考にしたところも多かったのですが、むしろ濱田の作陶姿勢や民藝運動の理念から多くの思想的な影響を受けたようです。

金城次郎は転換期の壺屋焼の技術を身につけながら、濱田と民藝運動から濃厚に影響をうけて作風を確立していきます。さらに戦後の在沖米軍統治下でアメリカ人向けの器製作を経験するなど、さまざまな要素が重なって金城次郎の作品世界が構成されているようです。この点は、同時代の壺屋陶工たちと共通する背景とされています。



1972年那覇市内で薪を使う登り窯の使用が不可能になると、金城次郎はガス窯では自分の焼物が作れないと、登り窯が焚ける場所を求めて読谷村に移住した。どうもガス窯による器面上の`つや'を気にしていたようです。真っ青に発色する酸化コバルト釉には黒釉を混ぜて抑えた色調にし、クリーム色の独特の白化粧土を好んで使用していました。



1978年に高血圧で倒れ入院後はリハビジに励みながら作陶に向かっていました。当然のごとく、大皿などの大きな作品の製作は無理となったようで、中規模以下の作品が作陶のメインとなったと思われます。



1985年には「琉球陶器」の国指定重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定され、1997年には高齢を理由に引退しています。この時期には箱書も大いに必要とされたのでしょう。ただし本人は、本来箱書きなど不要と考えていたのか、箱書きはいい加減で文字が統一されていません。他の沖縄の陶工らにもいたように箱書や銘は他人に任せていたとされます。金城次郎の箱書はいい加減・・と仰られる骨董の専門の方もいました。

2004年12月逝去しており、現在、金城次郎窯は家族同門によって今日も継続して作陶が行われています。



浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほどまちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。

濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)



河井寛次郎談:次郎は珍らしい位よくできた人で、気立てのよい素晴らしい仕事師である。轆轤ならばどんなものでもやってのける。彫ったり描いたりする模樣もうまく、 陶器の仕事で出來ないものはない。中折の古帽子を此節流行する戰鬪帽風に切り取ったのを冠つて、池の縁の轆轤場に坐つて、向ふの道行く人に毎日素晴らしい景色を作つてくれて居る。
(『工藝』第99号)




柳宗悦談:壺屋の新垣榮徳氏の窯で次郎が繪附をしてゐる所である。次郎の技は大いにいい。「まかい」と呼ぶ茶碗であるが、之に呉州で内と外とに繪 附をする。其の繪が自由で活々していて實にうまい。繪の系統を見ると南方支那のものに一脈通じるが、それ等のものに少しも負けていない。實は之だけ繪を 描きこなせる陶工を有っている窯はもう本土には殆どない。
(『工藝』第130号(昭和15年)

民芸に徹した陶工・・。人間国宝になってから、また脳梗塞になってからの作品より壺屋時代の共箱や銘のない作品のほうが小生は金城次郎の魅力に溢れていると思います。大皿も壺も茶碗も共箱などない頃のほうがいい作品のようです。

本人も共箱は不要と思っていたのでしょう。作品の前に立て看板のような作者名の表示している風潮は民芸の作品には似つかわしくないのです。

作品の釉薬や筆遣い、趣というのを味わうのが本来の陶磁器の味わい方ですね。つまり金城次郎の作品である証明があろうがなかろうが良き作品ということです。本日、紹介した作品はすべて共箱はありません。高台周囲に掻銘がありますが、金城次郎の作品は掻銘すらない頃の作品にこそいい作品があるように思います。
























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