本日は平野遼の2作品目の作品紹介です。平野遼は人間や社会の在りようを見つめ、ひたむきに描き続ける姿から、「魂の画家」と評された画家です。
*展示されている手前の作品は源内焼の作品です。
越後獅子図 平野遼画 その2
紙本水彩額装 タトウ+黄袋
F8号 額サイズ:横590*縦640 画サイズ:横400*縦445
昭和30年代に抽象的作風へと移行し、さらに晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開したていますので、晩年の頃の作と推定されます。
描かれているのは「越後獅子」のようで、越後獅子については下記のような記述があります。
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越後獅子:(えちごじし)とは、新潟県新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする郷土芸能である角兵衛獅子を題材とした地歌、長唄、常磐津、歌謡曲の楽曲。または日本舞踊の演目。
嘉永年間以前から上方や江戸の市中に流行したらしく、これを題材として、まず天明の頃、大坂の勾当・峰崎勾当により手事物の地歌曲『越後獅子』が作曲されました。同曲は器楽性にすぐれ、三味線の技巧が高度に追求された楽曲。
これを元に江戸の9代目杵屋六左衛門が文化8年(1811年)、七変化舞踊『遅櫻手爾葉七文字』(おそざくら てにはの ななもじ)の伴奏曲の一つとして長唄に作曲し、3代目中村歌右衛門により中村座で初演された。また常磐津や清元に影響を与えています。
日本画家の山川秀峰が描いた作品は下記の写真です。
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作品の裏面の書付から、どうもテレビを見た画像をもとに描いた作品のようです。
平野遼の画歴は下記のとおりです。
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平野遼:昭和2(1927)年2月8日、大分県北海郡に生まれる。本名明。同8年、戸畑市沢見尋常小学校に入学。3年生の頃から技法書等により絵を独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。同14年戸畑男子高等小学校を卒業。3歳で母を、同15年13歳で父をなくして同年より徴用工として働く。
同20年除隊後戸畑に帰るが、同24年に上京。ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てつつ、同24年第13回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。同26年第15回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。
同28年第17回同展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。
同31年第20回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、
同32年第21回同展に水彩画「飛べない蝶」を出品して2年連続して佳作賞を受け、同33年同会会員に推される。
同34年第13回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。
同37年、第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を第5回安井賞展に出品する。
同39年9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同50年主体美術協会を退会して無所属となった。
同53年6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同54年7月には中央アジア、同年9月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和30年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開した。
昭和61年12月、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」が翌年6月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれており、画歴は同展図録に詳しい。作品集には『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)、『平野遼自選画集』(小学館 昭和52年)等がある。文章もよくし画文集『地底の宮殿』等の著書がある。九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、11月24日午後11時48分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年65。
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額の裏には下記のシールが貼られています。
作品集としてある『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)とのなんらかの関連性のある作品のように推察されます。
平野遼・・・、興味深い画家には違いなさそう・・・。ただやたら作品の数が多いようです。