昨日は息子の誕生日。クリスマス続きの誕生日、なにかと出費が多いがいっぺんでけりがつく・・??? クリスマスプレゼントの次は誕生日プレゼント
なにやら座敷で鬼退治・・・。鬼滅隊・・・??
誕生日に息子が欲っしたのはこの服装。
「パパの刀を頂戴!」、「それはまだ早い!!」とかなんとかのやり取りから刀から揃い始めた炭次郎ファッション・・。サンタからのプレゼントのノートパソコンも・・。
さて月岡芳年の作品と言えば、縦2枚続きシリーズが幾点かの横3枚続きの作品が有名です。他の縦2枚続きシリーズが幾点かの横3枚続きの作品以外の作品は多作ゆえあまりにも出来にはばらつきがありますね。その横3枚続きの作品では、「藤原保昌月下弄笛図」が群を抜いて秀作で、さらに本日の作品が出来の良いものとして挙げられます。
参考作品:「藤原保昌月下弄笛図」
幾つかのコレクションや美術館でも見かける作品であり、この作品の入手は多大な出費となっています
尾上菊五郎 一ツ家の老婆 月岡芳年作
明治23年(1890)1月(初刷) 応滑稽堂需 額装
版画額装 作品サイズ:縦351*横709(三枚続き)
参考作品尾の寸法(mm) 362×244, 362×234, 362×239
場名:浅茅ヶ原一つ家の場 版元:秋山 武右衛門 彫師:彫勇(和田 勇次郎) 改印
状態は良い方でしょう。縦2枚綴りや横3枚続きの状態の良い作品は市場に出ることは滅多にありません。たまに見かけてもかなり状態は悪くなっている作品が多いようです。本作品は状態はすこぶるいいのですが、残念なことに若干の補修に伴い裏打ちされています。
よくご存じの「一ツ家の老婆」ですが、下記にその説明を記述します。
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一ツ家の老婆:浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)は、東京都台東区花川戸に伝わる伝説。
一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称されています。浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていったようです。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は東北などの各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができます。
陽明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国や下総国を結ぶ唯一の小道がありましたが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていました。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だったのです。
娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはありませんでした。老婆が殺した旅人が999人に達していました。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りましたが、老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割ってしまいました。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だったのです。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしたのです。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れました。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのです。
その後、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれています。 鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在も花川戸公園に残っています。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったそうですが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっているそうです。
なお白河院の作であるという和歌に、この伝説を詠み込んだ「武蔵には霞が関に一つ家の石の枕の野寺あるてふ」があります。この歌は、『関八州古戦録』では、「武蔵には霞の関屋ひとつ屋の石のまくらや野守あるてふ」と記されいます。
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月岡芳年の作品には夕顔が良く描かれ、同じ題材の作品で有名な縦2枚続きの「奥州安達がはらひとつ家の図」にも描かれているし、月百姿の数点にも描かれている。ただし歌を添えた作品は本作品のみであろう。
図中色紙の句「夕かほに 風音 たかき 軒はかな 桂花」と読めます。
「一ツ家の老婆」は江戸時代後期には江戸で広く知られたものになっており、浮世絵や芝居の題材としても数多く取り上げられています。
浅草寺(東京都台東区)には安政2年(1855年)の開帳のおりに奉納された浮世絵師・歌川国芳による大きな額の絵馬が保存されており、この伝説の一場面(諌める娘を恫喝する鬼婆)が描かれています。国芳には『木曽街道六十九次之内』(「大久手 一ツ家老婆」)や『本朝二十四孝』(「一ツ家の老女」)や『観世音霊験一ツ家の旧事』など、この伝説を描いた作品は他にも多くあります。その構図は生人形の興行としても再利用されてもいたそうです。
歌川広重『東都旧跡尽』の「浅茅ヶ原一ツ家 石の枕の由来」では、天井からつり下げられた大きな石が画面には描かれています。月岡芳年は、他にも『一魁随筆』(「一ッ家老婆」)や『月百姿』(「孤家月」)などの作品にこの伝説を描いています。
歌舞伎十八番に対抗して5世・6世尾上菊五郎が選定した歌舞伎演目「梅幸十種」あるいは「新古演劇十種」のうちには「一つ家」として、この伝説を題材とした戯曲が組み込まれていますが、この歌舞伎の演目を描いたのが本作品ですね。
この「一つ家」の芝居では、鬼婆は茨木(いばらき)、娘は浅茅(あさじ)、稚児・実は漢音菩薩の化身は花若(はなわか)という役名で登場し、作品の題名などに用いています。
月岡芳年の作品は縦2枚続きを中心に蒐集していましたが、横3枚続きでは当方では初めての蒐集作品となります。縦2枚続きの秀作のシリーズは明治18年から22年までであり、本作品はその直後の明治23年の作となります。
参考作品:縦2枚続きには下記の作品などがありますが、どこかで見たという方が多いでしょう。
この縦2枚続きや横3枚続きのシリーズでの傑作は非常に人気が高く、市場に出回る状態の良い作品数は少なくなっています。当方も運よく入手できました。
なにやら座敷で鬼退治・・・。鬼滅隊・・・??
誕生日に息子が欲っしたのはこの服装。
「パパの刀を頂戴!」、「それはまだ早い!!」とかなんとかのやり取りから刀から揃い始めた炭次郎ファッション・・。サンタからのプレゼントのノートパソコンも・・。
さて月岡芳年の作品と言えば、縦2枚続きシリーズが幾点かの横3枚続きの作品が有名です。他の縦2枚続きシリーズが幾点かの横3枚続きの作品以外の作品は多作ゆえあまりにも出来にはばらつきがありますね。その横3枚続きの作品では、「藤原保昌月下弄笛図」が群を抜いて秀作で、さらに本日の作品が出来の良いものとして挙げられます。
参考作品:「藤原保昌月下弄笛図」
幾つかのコレクションや美術館でも見かける作品であり、この作品の入手は多大な出費となっています
尾上菊五郎 一ツ家の老婆 月岡芳年作
明治23年(1890)1月(初刷) 応滑稽堂需 額装
版画額装 作品サイズ:縦351*横709(三枚続き)
参考作品尾の寸法(mm) 362×244, 362×234, 362×239
場名:浅茅ヶ原一つ家の場 版元:秋山 武右衛門 彫師:彫勇(和田 勇次郎) 改印
状態は良い方でしょう。縦2枚綴りや横3枚続きの状態の良い作品は市場に出ることは滅多にありません。たまに見かけてもかなり状態は悪くなっている作品が多いようです。本作品は状態はすこぶるいいのですが、残念なことに若干の補修に伴い裏打ちされています。
よくご存じの「一ツ家の老婆」ですが、下記にその説明を記述します。
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一ツ家の老婆:浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)は、東京都台東区花川戸に伝わる伝説。
一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称されています。浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていったようです。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は東北などの各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができます。
陽明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国や下総国を結ぶ唯一の小道がありましたが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていました。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だったのです。
娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはありませんでした。老婆が殺した旅人が999人に達していました。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りましたが、老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割ってしまいました。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だったのです。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしたのです。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れました。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのです。
その後、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれています。 鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在も花川戸公園に残っています。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったそうですが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっているそうです。
なお白河院の作であるという和歌に、この伝説を詠み込んだ「武蔵には霞が関に一つ家の石の枕の野寺あるてふ」があります。この歌は、『関八州古戦録』では、「武蔵には霞の関屋ひとつ屋の石のまくらや野守あるてふ」と記されいます。
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月岡芳年の作品には夕顔が良く描かれ、同じ題材の作品で有名な縦2枚続きの「奥州安達がはらひとつ家の図」にも描かれているし、月百姿の数点にも描かれている。ただし歌を添えた作品は本作品のみであろう。
図中色紙の句「夕かほに 風音 たかき 軒はかな 桂花」と読めます。
「一ツ家の老婆」は江戸時代後期には江戸で広く知られたものになっており、浮世絵や芝居の題材としても数多く取り上げられています。
浅草寺(東京都台東区)には安政2年(1855年)の開帳のおりに奉納された浮世絵師・歌川国芳による大きな額の絵馬が保存されており、この伝説の一場面(諌める娘を恫喝する鬼婆)が描かれています。国芳には『木曽街道六十九次之内』(「大久手 一ツ家老婆」)や『本朝二十四孝』(「一ツ家の老女」)や『観世音霊験一ツ家の旧事』など、この伝説を描いた作品は他にも多くあります。その構図は生人形の興行としても再利用されてもいたそうです。
歌川広重『東都旧跡尽』の「浅茅ヶ原一ツ家 石の枕の由来」では、天井からつり下げられた大きな石が画面には描かれています。月岡芳年は、他にも『一魁随筆』(「一ッ家老婆」)や『月百姿』(「孤家月」)などの作品にこの伝説を描いています。
歌舞伎十八番に対抗して5世・6世尾上菊五郎が選定した歌舞伎演目「梅幸十種」あるいは「新古演劇十種」のうちには「一つ家」として、この伝説を題材とした戯曲が組み込まれていますが、この歌舞伎の演目を描いたのが本作品ですね。
この「一つ家」の芝居では、鬼婆は茨木(いばらき)、娘は浅茅(あさじ)、稚児・実は漢音菩薩の化身は花若(はなわか)という役名で登場し、作品の題名などに用いています。
月岡芳年の作品は縦2枚続きを中心に蒐集していましたが、横3枚続きでは当方では初めての蒐集作品となります。縦2枚続きの秀作のシリーズは明治18年から22年までであり、本作品はその直後の明治23年の作となります。
参考作品:縦2枚続きには下記の作品などがありますが、どこかで見たという方が多いでしょう。
この縦2枚続きや横3枚続きのシリーズでの傑作は非常に人気が高く、市場に出回る状態の良い作品数は少なくなっています。当方も運よく入手できました。