釧雲泉の今悩んでいる一作・・・。
秋渓覚句 伝釧雲泉筆
紙本水墨軸装 軸先木製
全体サイズ:縦1740*横620 画サイズ:縦2100*横700
上手いようで下手なような・・・。
だんだん眼力に自信がなくなってきます。釧雲泉は古くから評価・人気の高い画家だったのでしょう。今は知っている人がほとんどなく、残された作品も取り扱いが荒っぽく、痛んだものが多いです。
賛には「秋渓覚句」とあり、落款は「六石居士」とあります。このような号はあるようですが、見たことはありませんし、字がうますぎるようにも思えます。
印章は「火食神仙」「丹青□」が押印されています。
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第427号作品NO62「山水」に同じ印章?が用いられていますが、若干の違いが気になります。絹本と紙本のずれでは割り切れないような・・・・。
同時期の作品であれば、文化4年(1807年)越後時代の作品と推察されます。
これが贋作としたら手元に真作があって写したもので、かなり手の込んだものです。油断できませんね。
釧雲泉:宝暦9年(1759)~没年: 文化8.11.16 (1811.12.31) 江戸後期の南画家。名は就。通称文平。字は仲孚。雲泉,岱就,六石などと号した。
肥前島原(長崎県)の人。幼年,父と長崎に遊び,来舶清人について中国語と画を学ぶ。父を亡くしたのち諸国遍歴の生活が始まる。江戸に出,寛政年間(1789~1801)30歳代には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後江戸に居住。海野蠖斎,海保青陵,亀田鵬斎,大窪詩仏など芸文界の人々と交流。
文化3(1806)年以降,しばしば越後(新潟県)に遊び,越後出雲崎で客死。「座ニ俗客有レバ則チ睨視シテ言ヲ接セズ」「画人ヲ以テコレヲ呼ベバ白眼視シテ答ヘズ」と伝えられ,文人意識が強かったが,現実には画家として生計を立てていたはずである。
作品には様式的な幅があるが,寛政年間の若描きが清新な画風。代表作は「風竹図」(個人蔵),「秋深江閣図屏風」(長崎県立美術館)など。
秋渓覚句 伝釧雲泉筆
紙本水墨軸装 軸先木製
全体サイズ:縦1740*横620 画サイズ:縦2100*横700
上手いようで下手なような・・・。
だんだん眼力に自信がなくなってきます。釧雲泉は古くから評価・人気の高い画家だったのでしょう。今は知っている人がほとんどなく、残された作品も取り扱いが荒っぽく、痛んだものが多いです。
賛には「秋渓覚句」とあり、落款は「六石居士」とあります。このような号はあるようですが、見たことはありませんし、字がうますぎるようにも思えます。
印章は「火食神仙」「丹青□」が押印されています。
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第427号作品NO62「山水」に同じ印章?が用いられていますが、若干の違いが気になります。絹本と紙本のずれでは割り切れないような・・・・。
同時期の作品であれば、文化4年(1807年)越後時代の作品と推察されます。
これが贋作としたら手元に真作があって写したもので、かなり手の込んだものです。油断できませんね。
釧雲泉:宝暦9年(1759)~没年: 文化8.11.16 (1811.12.31) 江戸後期の南画家。名は就。通称文平。字は仲孚。雲泉,岱就,六石などと号した。
肥前島原(長崎県)の人。幼年,父と長崎に遊び,来舶清人について中国語と画を学ぶ。父を亡くしたのち諸国遍歴の生活が始まる。江戸に出,寛政年間(1789~1801)30歳代には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後江戸に居住。海野蠖斎,海保青陵,亀田鵬斎,大窪詩仏など芸文界の人々と交流。
文化3(1806)年以降,しばしば越後(新潟県)に遊び,越後出雲崎で客死。「座ニ俗客有レバ則チ睨視シテ言ヲ接セズ」「画人ヲ以テコレヲ呼ベバ白眼視シテ答ヘズ」と伝えられ,文人意識が強かったが,現実には画家として生計を立てていたはずである。
作品には様式的な幅があるが,寛政年間の若描きが清新な画風。代表作は「風竹図」(個人蔵),「秋深江閣図屏風」(長崎県立美術館)など。
素晴らしい雲泉の作品だと思います。
落款もいいですし、何よりきっちりと丁寧に描かれた山水で、本当に良いですね!右側に屹立していく山の様子や、中央から左下へ広がる水面が、センスの良い対比をしていますし、人物も丁寧に描かれていて、写真を拝見するだけでもどこをとっても楽しめる一幅だなあと思います。
もし差し支えなければ、どこの地域から出てきたのか、ご教示頂けると嬉しいです。
もう一つ私が驚いたのは、この作品は大正7年の売立目録に掲載されている物と同一作品だったことです。「當市高田氏及某家所蔵品入札」という目録の掲載作品です。それで、資料によれば、2幅対で、もう片方は「夏山聴雨」という作品となっております。
なにはともあれ、いい作品を拝見できて嬉しく思っています。有難うございました。
本当にご指導ありがとうございます。岡山方面からの入手です。
双幅の片方ですか。なるほどと思われます。ほんとうのすきぴいさんは釧雲泉に詳しいですね。今後ともよろしく御願いします。
先のコメントに誤りがありまして、再度投稿いたします。
2幅対と書きましたが、実際は4幅対(春夏秋冬)で、その真中の左側がこの秋渓山水です。
資料の写真が不鮮明で春の掛軸の題名は不明ですが、冬は「寒江独釣」でした。また、この「寒江獨釣」の款記に年号が記載されていて、恐らく「戌辰」と読めるため、1808年の作品ということになります。
他の資料から、当初この作品は「高田氏」の家で制作され、高田さんが所蔵していたものが、大正7年に売りに出されたようです。
その後、「某子爵家」が売りに出したという昭和3年の目録があります。
またその後、昭和8年に「渡邉家」の売立目録に、この4幅対が掲載されております
これ以降、恐らく掛軸それぞれに歴史を経て、現在秋の作品が陽の目を見た形となった訳で、掛軸一つをとっても不思議な縁を感じます。
なお、売立目録の資料を見ると、高田氏の元で当初作成した際に、同じ構図で款記が異なる秋渓山水がもう一枚あるようで、これも恐らくは別の歴史をたどっていると推測されます。
製作年代も明らかとなり、真贋不明の作品が日の目を見ることになりそうです。表具の痛みがひどいので改装の必要があります。これから大切に保存し、いつか公表する機会をもちたいと思います。
なお、この掛軸については、この四季を描いた4輻対とは別に、単体で同一の構図を描いた作品が、私が確認した限りであと2つ存在します。題名が同一で款記が追加されている(越後の寓舎で作成された旨記載)ものと、題名は記載されず越後で作成された旨が同様に記載されているものとがあり、山肌や遠景の山のディテールが多少異なるものの、同構図の作品を同時に描いた事が分かる作品です。
4幅対として構想された画題を、求めに応じそれぞれ複数描いたのでは、と私は推測しておりますが、順序からするとこちらの作品が元となっているように思っております。
あまり神経質にならずに楽しむことを基準で考えています。すぎぴいさんのコメントは的を得ており、毎回楽しみにしております。まさしく夜噺骨董談義・・。
ただ、就職して自分で購入したり情報を得るようになってから、実家の掛軸が真作であるのが5割位の確率だと思いいたり、少しショックでした。理由は、そこで使われている印が一切資料等で見かけない事と、落款の字体が少々異なると気づいたからでした。
でも、釧雲泉に興味を抱いたきっかけの作品ですし、子供の頃から見慣れた絵という事もあり、いつも懐かしく思い出される作品です。
正直、展覧会の図版に雲泉として紹介されている作品でも、私としては怪しいとおもわれる作品があったりします。でも、タイムマシンで確認できない以上、古美術品の真贋は、商売の場合は別としても、一般に楽しむにあたってはそれを考えるのも楽しみなんだなあ、と思っています。
福田豊四郎氏と父が友達であったことから、購入も福田豊四郎氏を介してが多かったようです。それゆえ実家にあった作品の近代作品には贋作は一切ははいっていませんでした。わたしが興味を持ってから集めたもののほうが怪しいようです。
いずれにしろ、床の間に掛け軸があった環境で育ち、今もそのような雰囲気を保つために蒐集しています。
今後ともよろしくお願いします。
古い作品は真贋が難しくいつも悩まされています。もうひとつの「忘れさられた画家 伝釧雲泉 その2 水墨山水画」も確認中のひとつです。